sister's writer
しぎ
妹に誘われた
――本当に、いいのかこれで。
最後に手を震わせながらEnterキーを押してメールを送信した後、俺は頭を抱えた。
いや正確には、頭を抱えようとした。
包帯でぐるぐる巻きにされた両手。左手は固定され全く動かすことができず、右手の方を何とか動かして、机上PCのキーボードをゆっくり押したり、食事の際に手を震わせて、痛みに耐えながらスプーンやフォークを動かす……それぐらいのことしか、今の俺にはできない。
車椅子なしでは、このベッドの上からほんの少しも動けない。
大学の講義は教授に頼んで、レポートの分量とかを融通してもらった。今はPCさえあればリモートで講義を受けられる時代だし、怪我が長引くようなら休学も勧められた。感謝だ。
……でも、編集者は、小説の世界は待ってはくれない。
これでいいのかという迷いを無理やり吹き飛ばす。
もうやっちまったんだ。
「頼む、バレないでくれ……」
つい、漏れてしまった呟きは、無機質な病室の天井に消えていった。
***
――念願だった書籍化の誘いが来たのは、ちょうど大学一年生の全講義、テストが終了し、春休みに突入した頃だった。
大学進学が決まった高三の冬から始めたWeb小説サイトへの投稿。
どうせやるなら上を目指したいと、既存の書籍化作品、ランキング上位作品を読み込んで、人気の出るジャンルや設定を研究した。
その過程は、なんだか創作してるというより、勉強してる感覚で、思ったのと違うこともあったが、そのかいあって投稿した作品はいずれもいい感じにPVや評価数を伸ばしていった。
……ただ、書籍化の誘いをもらえたのが短編の完結済み学園ラブコメだったのは意外だった。連載してる異世界転生モノの長編の方が数字的には人気なのに。もしかして、出版社的にはもう転生には飽き飽きしてるということなのか。知らないが。
そんなわけだから、完結してから時間が経っていた短編を、分量を大きく膨らませて改稿する必要があった。その過程で、編集者から色々注文をつけられる。
以前書いたプロットとか設定資料とかをまた引っ張り出してきて、何とか書き進めてはいたが、その作業は困難を極めた。
書類にサインが必要だとかで、一回だけ出版社まで足を運んだが、編集者とは一回も顔を合わせていない。打ち合わせも全てリモート。その中で、編集者に原稿を送って、ダメ出しをもらい、また書き直す。それの繰り返し。
『この文章では読者受けしづらい』
……と、何回言われたことか。
何が足りないのだろう、どうすればいいのか、と悩んで一ヶ月。
飲酒運転の車にはねられたのは、そんなときだった。
***
「後ほんのちょっと当たりどころが悪いか、ほんの少しでも救命動作が遅れていたら、助からなかったでしょう」
一命はとりとめた。医者によると、本当にギリギリだったらしい。
ただ、両手両足を骨折。少し動かすだけで痛みが走った。
最低三ヶ月は入院生活。回復の具合によってはもっと長くなるとか。
大学の方は問題無かった。友人になかなか会えないのは残念だが、直接講義に出れないことや、課題をやりづらいことを考慮してくれて、単位をもらえるのなら、それ以上の贅沢は言うまい。
問題は書籍化作業だ。何しろPCのキーボードを叩く手も痛い。
特に負傷がひどかった左手は全く使えない。
利き手の右手が何とか動かせたのが幸いだが、それでも今までのようなスピードで入力はできない。ゆっくりゆっくり動かして、一番力を入れられる親指でボタンを押していく。
そんな状況で作業なんてできるわけなかった。
……どうしようか。
事情を話して待ってもらえるだろうか。
事故にあったことは伝えている。
ただその時、編集者からはこう言われた。
「分かりました。できるだけ早く治してくれるとありがたいです。こちらとしても、スケジュール詰まってるので……」
発売予定日を考えると、四月中旬が原稿締切のギリギリだという。
……絶対無理だ。治るはずがない。
医者にも無理だと言われた。
……でも、それを編集者に言うことはできなかった。
……だって、原稿を上げられない以上、書籍化そのものの話が無しになってしまうのだ。
そして、ここでチャンスを逃したら、次のチャンスがあるかどうか。
自分の作品なんてサイト全体の中ではトップクラスでは全然ない。よっぽど人気があるのに書籍化されてない他作者の作品はゴロゴロある。
流行りの傾向とかジャンルとか、出版社側の都合とかあるんだろうが、もしかしたらこれは、自分にとって最初で最後のチャンスかもしれない。
それを、みすみす手放してしまうのか。
……でも現実として、今の自分はとても作業できる状況じゃない。
***
「あたし、書いてみたいな」
三月に入って、高校終わりに見舞いにきた妹は、そんな俺の悩みを聞くとごく自然に、世間話でもするかのような気軽さで言った。
「え? 何を?」
「何って……そりゃあ、お兄ちゃんの小説」
妹は座った椅子から少し身体を伸ばす。
ブレザーの制服が、彼女のスタイルの良さを示す。
……自慢の妹だ。名前をさくらという。
活発で幼少期から友人も多く、何より勉強がよくできた。
地元の普通の高校から中堅私大に行った俺と違って、県トップの進学校から名門のW大文学部にもゆうゆうと合格を決めた。
でも決してそれをおごることなく、学校でも中心的な立ち位置だったという。
そんな妹が、俺のことをお兄ちゃんと呼んでくれる。
正直、これほど幸せなことはない。
それはそれとして、いくら優秀な妹だからといって、小説を書くというのは……
「書けるのか?」
「一応、あたしだって文学部入るんだもん。元々本は好きだし。お兄ちゃんのやつも、全部読んでたし」
えっ?
というか、読んでたの?
「今連載しているのも面白いよ。復讐のさせ方が予想外だけど、ちゃんと爽快感があるというか……」
真面目に評価してやがる。
「ありがとうな。……でも、読むのと書くのは全く別物だぞ?」
「実は、受験勉強の息抜きにちょっと練習してたんだ。学校の国語の先生から薦められて……」
そんなこと、俺なんか一回も言われたこと無いのに。さくらと俺では、兄妹と思えないほど頭の出来がやはり違うのだろうか。
って、そんな問題じゃねえだろ。
「というかさくら、それって俺の代わりに書くって言いたいのか?」
「え? そのつもりだよ?」
「あのなあ、そんなのやっていいわけないだろ。第一、バレるぞ」
「平気平気。お兄ちゃんっぽく書くから」
なるほど。さくらの器用さならそれぐらいできそうだ。
「そうかそうか……いやダメだろ。プロの編集者がそんなんで騙されるわけないぞ」
「でもお兄ちゃん、今書けないんでしょ? だったらあたしが代わりに書くしかないじゃん」
さくらは左腕をポンポンと叩く。
……彼女がこんなに自分に自信を持ってるの、見たことない。
「いや、だからって……」
「いいじゃん。どうせ向こうもお兄ちゃんの顔見たこと無いんでしょ? 平気平気」
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