鐘塔守りの少年

さかな

1.

 とある世界の端っこに、時計のない町がありました。

 大きな鐘塔しょうとうがシンボルの、海が見渡せるきれいな町です。


 小高い丘に建てられた塔にはひとりの少年が住んでいました。

 彼の名前はリゲル。

 リゲルはこの町でただひとつのりっぱな鐘塔を任された、鐘塔守りです。


 鐘塔守りの一日はたいへんです。

 何しろ鐘のあるてっぺんまでは、石階段がなんと四〇〇段もあるのです。リゲルはまだ太陽が眠っている間に起きだして、真っ暗な中、ランタン片手に冷えた石階段を駆けのぼらなければなりません。


 太陽が地平線から顔をのぞかせたとき。

 太陽が空のてっぺんまで昇ったとき。

 そして、太陽がねむり、夜が訪れるとき。


 一日に十二回。リゲルは太陽の動きに合わせて大きな鐘を力いっぱい打ち鳴らします。


 この町には時計がありませんでしたが、なにも不自由な思いをすることはありません。

 町の人々は、リゲルの鳴らす鐘の音でいつでも時間を知ることができたのです。




 ある日、いつものようにリゲルが夕焼け雲をぼんやりと眺めていると、どこからかしゃがれた声が聞こえてきました。

 驚いてあたりを見渡してみましたが、誰もいません。

 それもそのはず、この塔に鐘塔守りであるリゲル以外が立ち入ることは禁じられているのです。


 こうやって鐘を鳴らすのを待つ間、リゲルはほんの少しだけ、「誰かがこっそり塔を登ってきてくれたらいいのになぁ」と思うことがあります。

 一日中ひとりぼっちでは、寒い日に白い息をはいて「寒いね」と言うことも、雨上がりの空にかかる虹を見つけて「綺麗だね」と笑いあうこともできないからです。


 リゲルがにじんだ太陽に目を向けた時、今度ははっきりとした声が、塔の上から聞こえました。


「そこの少年、聞こえとるんじゃろう」


 リゲルは今度こそびっくりして、思わず塔から身を乗りだしました。

 するとその瞬間、ばさりばさりと大きな翼を動かして、灰色のかたまりが空から姿をあらわしました。


「……竜?」


 銀色の体毛はハリガネのようにばさばさとしていてツヤがなく、鼻の横から生えるひげは干からびた植物の根のよう。しかしよくよく見ると、その姿はまさしく竜でした。

 老竜は苦しげに翼を動かしながら、しゃがれた声でリゲルに言います。


「よければこの老いぼれに、水の一杯でも与えてやってはくれまいか。のどがカラカラで死んでしまいそうじゃよ」


 リゲルは頷くと、大あわてで持ってきていた水をおわんに全て移して、それを老竜に差しだしました。

 老竜は、さびた金属がきしんだようなキシキシという音をたてて鐘塔に巻きつくと、真っ赤な舌をペロリと出しておいしそうに水を飲み干しました。


「ああ、生きかえったよ。ありがとう少年」


 老竜は礼を言うと、塔の柱と柱の間に鼻をつっこんで、リゲルをじっと見つめました。


「水をくれたお礼に、願いをひとつ叶えよう。わしにできることならなんでもかまわんよ」

「願いごと……うーん」


 いきなりそんなことを言われても、すぐには思いつきません。

 リゲルがうんうんと頭を悩ませていると、老竜はシャカシャカと喉をならせて笑いました。


「わしの血でも良いのだぞ。知っているぞ、人間は、竜の血をほっしているだろう。竜の血は不老不死の妙薬みょうやくじゃとな」

「えっ、ぼく、そんなものいらないよ」

「シャッシャッシャッ。遠慮などするな。どうせ老い先短い身だ。優しくしてくれたお主にならわしの血をやるのも惜しくない」


 老竜が笑うたびに鐘塔がぐらりと揺れます。

 竜の血を求める人間がいるということを、リゲルは聞いたことがありました。

 だけどリゲルは不老不死など望んでいません。そんなことになれば一生この塔で鐘を鳴らし続けなければならないと分かっていたからです。

 それだったら――リゲルは決心して、老竜にそっと近づきました。


「ぼくを塔から連れさってよ」

「それは誘拐というやつじゃろう」


 何でも叶えてやろうと言ったわりに、「悪ものになるのはいやじゃ」と老竜はしぶい顔をしました。

 リゲルは「違うよ」と小さく首を横にふると、老竜のひすい色の両眼にこびりついた目やにを、お昼ごはんのパンを包んでいたふろしきでぬぐってやりました。


「ここじゃないどこかに行きたい。あの水平線の向こうがわに行ってみたいんだよ」


 老竜は「ふぅむ」と頷いて、塔に巻きつけていた体を、やはりバキバキと言わせながらほどきます。その時に抜けおちた毛はハリガネのようにピンとしたまま、目下の町へと落ちていきました。


「よかろう。乗るがよい」


 ギシギシ、ばさばさ。

 老竜はぎこちなく体を動かして、乗りごこちの悪そうな背中を塔のほうへ向けました。さびた鉄くずのようだと思っていた老竜の毛は、太陽の光があたって、作りたての真ちゅうのようにキラキラと輝いています。

 それを見た瞬間、リゲルの心臓は急速にどくどくと動きはじめました。


 決まった時間に同じように鐘をつくだけの日々が、いきなり終わりを告げたのです。これから始まる冒険と、まだ見ぬ世界のことを考えるだけで、リゲルの心の中はわくわくとドキドキであふれ返りました。


 塔の手すりに足をかけ、町のてっぺんの空気をひとおもいに吸い込みます。そしてリゲルはぴょんっと塔から飛びだすと、老竜の背中に転がり落ちました。

 飛び乗った衝撃でわずかに沈んだあと、老竜はばっさばっさと翼を動かして暮れの空をぐるりと旋回せんかいしました。


 さようなら、鐘塔の鐘。

 さようなら、海の見える町。

 さようなら、鐘塔守りのぼく。


 ゆったりと頬をなぜる潮風。見おろせば赤やオレンジの四角い屋根。港に浮かぶたくさんのヨット。

 細い路地をゆくのは、夕食の食材を両手いっぱいに抱えるおばさん。広場では子どもたちが笑いながら追いかけっこをしています。

 あと少ししたら、いつものように大きな鐘を鳴らさなければいけません。


 だけど、塔から飛びだしたリゲルにはもう関係ないのです。


 見上げれば紫色やオレンジ色の細かい雲が、風にながされて漂っています。空の色は水平線に近づくにつれて黄色く、明るくなり、太陽が真っ赤にゆらめきながら海へと落ちていくところでした。


 今まで散々見てきた景色なのに、これほど夕焼けが美しいと思ったことはありません。

 リゲルの心はむくむくと膨れ上がり、喉から飛びでそうなほどにふるえました。


「キレイだね」

「そうじゃな」


 その一言が嬉しくて、リゲルは老竜のバサバサした白いたてがみに顔をうずめました。

 喜びが胸いっぱいに広がって、訳もなく踊り出したい気分になりました。

 だけどここは空の上。そこはぐっとこらえて、リゲルは老竜と一緒に、太陽が海の向こうに沈んで真っ暗になるまで、ずっとずっと空を眺めていたのでした。

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