鋏
しかし梓の告白にも壱加は戸惑いしかなかった。
『やはりわたくしが男であればよかったのに……』
男であれば家庭に入らず文筆にすべてを注げる。男であれば梓と一緒になれたかもしれない。男であれば征一と一緒になれたかもしれない。男であれば簪を踏み折られることも、乗り気でない縁談を押し付けられることもなかったかもしれない。
『何故にわたくしは女なのだろうか……』
壱加は傷心なれども征一のことを心から諦めきれていなかった。朔之助がいなかったなら、もしかしたら、と考えている部分は否定できない。あの人がいるからいけないんじゃないかとすら思っている。
いつもの癖で女中が迎えに来る前に急いで古本屋に来ていた。
このときまでは壱加はなにも考えていなかった。
「浦部先生、いらっしゃいますか」
奥から出てきたのは朔之助だった。
「征一なら今日はいない」
しかし、朔之助のぶっきらぼうな言い方に壱加の何かが外れた。
「……朔之助さん。あなたがいるから浦部先生は幸せじゃないのではなくて? 」
「……どうした急に」
「あなたがいるから、あなたなんかがいるから、浦部先生は女の人を愛せないと勘違いしているのではないの? 」
壱加の様子は明らかにおかしかった。逆上もいいところ、興奮状態で手に負えなかった。
「勘違い? 征一の女嫌いは根が深いんだ。俺に出会う前から彼奴はああだった。何も知らないのは悪いがお嬢さんの方だ」
壱加はさらに怒り狂った。手近にあった鋏を掴んでヒステリックに振り回した。
「あなたがいるから!! あなたがなんかがいるからわたしは……!!」
流石にこれには朔之助も参った。と、同時に、『もしかすればそうなのかもしれない』という気持ちが突然出てきた。
俺が征一を繋ぎ止めてしまっているだけで、他にもっと征一を幸せにしてあげられる人がいるのかもしれない。女性と幸せになれるとはまったく思えないが、もう少し裕福な男のところに行けたなら、彼はもっと文筆に集中できるのかもしれない。
朔之助にも、自分が征一の全てであるなどという自信はどこにもなかった。人の心というのはわからない。口ではなんとでも言えても、征一がどう思っているかは朔之助に測りきることはできない。
そのとき、朔之助の腹に鋭い痛みが走った。
「あっ……!!!」
壱加はそんなつもりではなかった。朔之助の手に抑えられているところを力を入れて鋏を突き刺そうとしていたのを、突然朔之助の手が緩んだので、鋏が彼の腹に刺さってしまったのだ。
刃渡りは四寸ほど。それがかなり深く刺さっている。
「うっ……」
本当にこんなことをするつもりではなかった。刺してしまえばなんでこんなことをしているのかわからなくなった。壱加の顔はサーッと青ざめ、朔之助は苦しんでいる。血はだくだくと流れ出る。
「なんで……なんで手を緩めたの……!」
「……お嬢さんの……言うとおりかも……しれないと、思った……」
朔之助は店先に倒れ、ゆっくりと目を閉じて深呼吸をしている。征一との生活を主に思い出していた。幸せだったのかもしれない。自分にとっては。征一にとってはわからない。きっと自分はこのままゆっくり死んでいくだろう。その後、征一は幸せになれるだろうか。否、なってほしい。
壱加はその側にへたり込んだ。人をひとり殺めてしまった。そんなつもりではなかった。……そんなつもりではなかった。どんなつもりで鋏を振り回した? 覚えていない。
「お朔……? 」
征一は鞄を取り落とした。家に帰り着くと、店先に血塗れで倒れ込む愛した人と、血濡れの鋏を手に呆然とへたり込む好いてくれた人。これはいったいどういうこと、か。
「お朔……? お朔……!! 朔之助!!!」
この騒ぎに古本屋の目の前には人が群がってきていた。
征一は壊れてしまうかと思われるほどに、朔之助の力の抜けた躯を掻き抱き、既に血色を失いつつある渇れた唇へ、とめどなく溢れる温かな涙を垂らして、誰にも聞こえない声で、遠吠えのごとく叫んだ。哀れだと誰もが思ったことであろう。
「お姉さま!! お姉さま!!!」
人混みの中から梓が壱加の側へ駆け寄った。
「なんてことを……! 」
壱加はまだなお放心状態から抜け出せていなかった。 そんなつもりではなかったのだ。
わたしは、ただ……。
「梓さん……わたしは……何故に女なのでしょう」
壱加は、美しく笑った。
「我が身が男なれば、このようなことにはならなかったでしょうに」
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