征一の処女作『パラノイア』は、民俗学者の小川霍翠が『月にいる美女』との恋愛の末、自死を遂げる物語である。


 パラノイアとは、妄想症のことであり、月には誰も居やしないというのに、妄想とわかりながら苦しみ死んでゆく。神経が衰弱しているところを、そんな夢を見たというそれだけのことで、妄想に落ちてゆく男の姿が哀れで切なく、愛読する人間は多いときく。



 壱加は窓から満月を見上げ、ため息をついた。彼女は前田家の令嬢ということや、末娘ということもあり、箱入りで少々世間知らず、また主観的なところがある。悪く言えば相手のことをかえりみずに自分の妄想だけでことを進めてしまう。現にこの恋がそうであった。


 征一が自分をどのように見ているかなどお構いなしに、告白して了承されたら、ということばかり考えている。


 しかしそれが天性のものである故に、まるで『月に恋をしている』ような実態だとは気がついていない。


 壱加はただ、『パラノイア』を耽美的かつ悪魔的な幻想小説のひとつとしか読み込めていなかった。さらに言えば『本当の恋』をしているのだという実感に浮かれ、そういう意味で霍翠と自分を重ね合わせていた。征一の書きたかったこととズレているとも知らずに。



 その頃、征一は雑誌へ寄稿する文章が書き上がった。昨夜一行目を掴んでから、一日で書けてしまったのだから早い。と言っても、原稿三十枚ほどの短編であるので一日で書けたところでなんら不思議でもない。いままでの征一があまりに遅筆だったのだ。


「征一、終わったか」


「なんとか脱稿したよ……クタクタさ……」


 脱稿すると、どんな話を書いたあとでもクタクタに疲れている。頭の中にある物語を文字に起こすというのは実はかなりの労力を使っているのだなと思う。


「今夜は満月だ、お祝いに月見酒といくか」


「大袈裟だよお朔。まあでも、悪くはないね」


 今日は酒と一緒に大福が出てきた。


「頭を使うと甘いものが欲しくなるって、昔どっかの誰かが言ってたからな」


「なるほど、そのとおりだね」


 征一は自分が昔言ったということも忘れて素直に感動した。こういうところが好ましいなと朔之助は思う。



「昔、『パラノイア』を書いたときは、こんなふうに誰かと月を見て酒を飲むなんて日が来るとは思っていなかったな……」


 不意に征一が口を開いた。


「どうしたんだよ突然昔話なんか始めて」


「いや、月を見れば嫌でも思い出すのさ、あれを書いていた頃を。お前さんも読んだろう?あんなに月の話をしておいて忘れられるわけがない」


「まあそうだと思う。なにせ『月に恋をした男』の話だからな」


「うん……お朔には、あの頃のことを話したっけか」


 征一は言いにくそうに大福を持ったまま言い淀んだ。


「いや、なにも聞いてないな」


 朔之助は興味がないような素振りで酒をお猪口に注いだ。


「あの頃は、僕も妄想症に取り憑かれていた。まだ母の幻想に雁字搦めにされていたのさ。いまよりもっとずっと、生きているのが苦しかった」


「……うん」


「だから、なんというか。まさか自分がこんなに生きながらえるとは思わなんだって話さ」


 朔之助は思わず吹き出した。


「生きながらえるとは、ってたった五年前の話だろうが」


「何言ってんだい、五年って大きいよ?」


「まだお前は二十五だろう? そんなに切羽詰まることはないんじゃねえか?」


「そうだけどさ、なんて言えばいいんだろう。お前さんに出会えて良かったなあと思って」


 征一は紙の上では会話ができても、口下手なところがある。朔之助はそれを理解しながら話を聞いているので、なんとなく言いたいことは伝わってきた。


 つまりは、いま苦しくないのは朔之助のおかげだと、感謝を述べたいだけなのだった。


 それにしても難儀な奴だなと征一のことを想わざるを得ない。母に虐げられ、家を飛び出してから約十年、未だに幻想に囚われ続け苦しんでいる。


 その証拠に、彼の小説には"母親"は出てこない。出てきたとしても恐怖の対象として描かれている。“女”というものがそもそも癒やしの対象としては出てこないのだ。それが悪魔的な魅力を纏っていると好む文学青年も稀にいるが、大衆向けの小説としては少し受け入れられないらしい。


 彼にとっての“女”は、自分から奪い、虐げ、罵り、痛めつける恐怖の塊なのだ。


 そんな征一が『母性の象徴』とも言われる月を描けば、こうなってしまう。そのことを深く理解して読み解くことができるのはおそらく、世界中でも朔之助だけであろう。朔之助しか知らないことが多すぎるのだから。


 いまでも征一は、生きるのが苦しいとたまに言い出す。そのときは朔之助がきつく抱き締めてやり、接吻をする。


『大丈夫だから』


という意味もあるが、最近は


『いまいなくなられては困る』


という意味が強い。


 もうかなりのところまで彼らは共に依存し合っているのだった。仮に征一がどこかへ行ってしまったなら、朔之助がおかしくなってしまうだろうことは間違いなかった。


『どこへも行かないで』


 そんな気持ちで征一を強く抱き締めた。

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