怨恨獣と五重奏曲
お汁粉サイダー
平水区の郁美
五月一日。天気は快晴。東京都・
普段は朝食なんてすぐに食べ終えてしまうのに、今日はまだ茶碗の底すら見えていない。
そうなっている理由は、彼女のすぐ目の前にあるテレビにあった。
今日は、「東京壊滅事件」の二十二周年。
東京の二十七区が、「
「郁美。今日は少し食べるの遅いんじゃない?」
台所での仕事を終えてきた母が、郁美の隣の椅子へ座りながら言った。
「いや、東京壊滅事件の特集がやってたら誰だって箸を止めるって。特に東京都民ならね。」
そう言うと、皿のおかずに箸を伸ばす。
「……しかしねぇ。ほんと、今の暮らしは平和だよ。二十二年前は、その辺に怨獣がウロついてたんだよ。」
テレビで怨獣の話題に差し掛けた時、懐かしむように母が言う。怨獣は人間に害を成す生物で、全人類から煙たがられたらしい。
「怨獣ねぇ。アレでしょ?あの、普通に人とか殺してたりしてたんでしょ?」
「そうだよ。だから、今とは法律だったりが全然違ってたんだよ」
「知ってる。義務教育で学んだし。なんだっけ?怨獣を駆除する仕事があったとか……」
喋りながら最後に残ったおかずと米を口に放る。
「怨獣殺し、だね。ま、昔の話だよ。――ほら、もう行く時間だよ。鞄持って!」
時計を見ると七時半。もう家を出る時間だ。郁美は席から立つと母から鞄を受け取り、ゆっくりと家の玄関へ向かい、家を出た。
平水区は、都市と自然が入り交じる近未来的な地区で、東京の中で最も緑が多いとされている。
歩道を通る人間は皆、温かく優しい風に吹かれる。郁美はこの通学路を気に入っていた。もう十七年間通っている道だが、毎日違う道を通っているように感じる。
気分が良いから、毎日鼻歌を歌いながら通学をする。その跳ねたメロディは周りの人間に聞こえるほど大きくなって、すれ違った通行人皆に鼻歌を伝染させた。
郁美はそれに気付いていた。郁美は自分の歌の上手さはプロ並……いや、それ以上だということを自覚していた。それ故に、伝染させた鼻歌に微笑みながら通学する。
「―――いーっくみっ!!」
突然、郁美の背後から抱きつく。
「ん、おはよ、ミコ。」
郁美はいつものことかと受け流す。
「おはよー、郁美!今日も相変わらずね!」
「まあね。アンタも毎日毎朝このテンション。いっつも元気すぎ。」
御子の周りにはいつも友達が四、五人いる、陽の中の陽。そんな彼女の親友に当たる人間が、郁美である。性格が対極であるにも関わらず、毎日楽しく会話する。
当の本人も、いつ仲良くなったかも覚えていないらしい。
「郁美、今日はついにあの日よ!」
あの日……郁美には心当たりがない。行事は中々に覚えている方だが、五月一日には何かあっただろうか?顎に手を当て眉間にしわが寄る。が…
「……そんなに大したことない行事でしょ。」
郁美は考えるのを放棄したように御子に言う。
「そんな事ないわ!だって今日は体力テストの結果が返ってくるのよ!」
「……あっ」
さっきまでの機嫌が一気に悪くなる瞬間の一言であった。
この御子の一つの言葉で、今日の郁美の学校のモチベーションが確定した。ウキウキとしている御子と真反対の郁美は肩に重りを乗せたかのような姿勢で歩いて行った。
――この自然に見惚れ鼻歌を歌っているとあっという間に午前授業が終わる――今日もそんな日であった。
昼休み。郁美にとってのこの時間は、「クラスの違う御子と再会して昼食を食べる時間」である。
中庭のベンチで膝上に互いに弁当を並べることまでがテンプレート化されている。が、今日は余計なものも置いてあった。
「見て見て郁美!私の結果!全種目十点よ!」
そう。体力テストの結果表である。御子のに書いてある結果はまさに異次元。運動能力のパラメータが綺麗な六角形をつくっている。恐らく……いや、絶対に全国一位の成績である。
――なんでそんななっがい金髪ぶら下げてんのにこんなに足速いんだよ――
「それに比べて、私のはなぁ――」
自分の結果表に一瞬目をやると、大きなため息を吐く。
「郁美のも見せて頂戴!」
「え、ヤだよ。もう知ってるでしょ。私の運動能力……ってあっ!返せ!」
郁美の手が緩んだのを見逃さなかった御子。すかさず郁美から結果表を奪い取る。
「郁美、今年はEランクなのね、、合計点は十八点……去年はギリギリDランクだったのに……」
ぐぅの音も出ない郁美。
「五十メートル走は十一・二秒、ハンドボール、五メートル、上体起こし、……三回!?うそでしょ!?」
そう。郁美の運動能力は皆無。ほとんどの種目で一点を叩き上げる。
パラメータだって大きさが違うだけで御子と同じ形をしている。
「あなたは、基礎体力の上昇を目標にした方が良いでしょう。特に頑張らなければいけないのが――」
「わーっ!読み上げるな!」
慌てふためく郁美を見るのは珍しいため、御子はご満悦。
いつかは御子と同じようにAランクを取ってみたいと思った時期もあったが、とっくのとうに諦めている。御子から取り返した結果表をふたつに折りたたんでまた大きなため息を一つ――
帰り道。いつも御子と二人で歩いている。今日は、郁美の機嫌が良くないのか、会話が少ない。そんな時こそ流れてくるのが郁美の鼻歌である。
「――♫―――♫」
隣から聞こえる旋律に、御子の心が安らぐ。こんなに歌が上手い人は今までに会ったことがない。そう再確認するほど深く聞き入っていた。
「―ねぇミコ。私さ、歌で稼いでいくのもアリかなって思ってるんだけど……どうかな?」
「えっ?急にどうしたの?」
「私さ、運動全然できないし、勉強もそこそこで、相対的に見て平均より劣ってると思うの。だから、自分の一番の特技の歌でこれからの生計を立ててみたいなって。……歌うのも好きだし。」
まさか郁美からこんなにも真剣な声が聞けるとは……
「郁美……。――いいんじゃないかしら?あなたは本当に歌が上手なんだもの!好きなことは極めるべきってお母さんが言ってたわ!」
急なことで少し驚いた御子だったが自分の親友に勇気を与えたい、という一心でぱっとこの言葉が浮かんだ。
郁美はゆっくりと御子の顔を見る。郁美の顔は少し赤くなっていた。が、御子はその事を何も言わなかった。
「……羨ましいわ、進路がそんなに早く決まって。そしたら大学とかも――」
―ふと、御子は話すのを中断した。御子の視線の先には空き地の草むらがあった。
「?どうした?ミコ。」
「さっきね、一瞬揺れた気がしたの。犬、かしら?犬がいたのよ!」
御子は草むらの前でしゃがみ込み、犬の姿を確認しようとする。
その後ろで御子を待つ郁美。
三十秒ほど待ったその時、もう一度ガサガサと草むらが揺れ、何かが御子の右隣から飛び出した。
「……やっぱり!犬だわっ!」
黒い毛並みの犬。二人に興味が向いているようで、じっと見つめている。
「珍しいわ!黒い野良犬なんて!」
犬好きの御子は少しづつ犬へ近づく。
(なんかちょっと可愛くないって言うか……不気味って言うか……)
「ミ、ミコ。そんなに近づかない方が……」
郁美は犬をよく見ていた。普通とは違う尖った耳の形。血液がそのまま入っているかのような瞳の赤色。少し口を開けた時に見えた二本の長い牙。冷や汗が出てきた。
「かっ帰るよ!ミコ!」
(もしかしてコイツって……テレビでやってた……)
「えー?もうちょっと見てたかったのに!」
しょうがなく立ち上がった御子。犬に背を向ける。その瞬間、後ろ足を踏ん張り大きく飛び上がり御子を襲う。
(やっぱり!)
「ミコ!逃げてっ!」
郁美の叫びに振り向くと、飛びかかる犬の姿が。
「――っ!」
さすがの瞬発力。ちらりと犬を見ただけで、もう一度背を向けて走り出す。自慢の長い金髪を五、六本噛みちぎられただけで済んだ。
しかし、犬は二人目掛けて走り出す。
途中で、店ののぼり、低い庭木、駐輪場の自転車までも噛みちぎり一直線に追いかける。
「郁美!なにあの犬!?」
「分かんない!っでもっ!多分だけど……怨獣……かもっ!」
御子の全速力に早くも息を荒らげながら食らいつく郁美。
「お、怨獣!?あれってもう居ないんじゃないの!?」
郁美も分って言っている。だが、それ以外この化け物の正体を決定付けるものは存在しない。
先頭を走る御子はとにかく人のいない所へ行こうと、通学路から大きく逸れながら、細い道へと逃げていく。
七百メートル走った頃だった。運動能力皆無の郁美はついに疲れきってしまい、足を止めてしまった。
「ちょっと郁美!頑張って!」
薄暗く、細い一本道。とうとう犬に追いつかれてしまった。御子は郁美の手を引っ張りながら走る。しかし不幸なことに、一本道に終わりが来て、塀の行き止まりまで来てしまった。
大きく息を荒らげる郁美は塀に寄りかかった。じりじりと距離を詰める。あまりの恐怖に郁美は腰を抜かし、行き止まりの塀に座り込んだ。
だが、御子は恐怖に屈しながらも郁美の前に出る。指先が微かに震えている。
御子は自然に下に目をやると、真下に鉄パイプが落ちていることを確認した。それをゆっくりとゆっくりと持ち上げ、両手で持ち、脚を開いて犬の前に立ちはだかった。
「ちょっ!?ミコ!?何してんの!」
「……わ、私が、時間を、かっ、稼ぐから……郁美は先に、……にっ、逃げて頂戴!」
声の震え方が尋常じゃなかった。
絶対にそんなことが出来るわけが無い…… ガクガクとしている膝を動かし、御子が鉄パイプを大きく振り上げ、犬を目掛けて振り下ろす。
――ゴンッ!
頭へ命中。鉄パイプの鈍い音が鳴る。
「……え?」
御子は信じられなかった。普通の犬なら倒れ込み、血が流れるはずの威力で叩いたはずだ。
鉄パイプは、犬の頭の形に丸く曲がっていた。そして犬は何事もないかのように
「グルルルル」と喉を鳴らす。
信じられない。
顔が青ざめた御子の手から鉄パイプが滑り落ちる。ゆっくり後ずさりして、もう為す術がない。すると突然、犬は御子の腹を目掛けて突進。
ゴッ、と低い音が鳴り、地についていた足が離れる程の威力で吹っ飛ばされる。
細い道故に側面の壁に額を強く打ち付け、血を流した御子を、郁美はその場で受け止めた。
「ミコっ!大丈夫!?ミコ!……なんだ……これ?」
御子の傷口に、血の赤色と、カビのような緑色が付着していた。
「ミコ!ミコっ!……だめだ……気絶してる……」
言葉通りの絶体絶命。犬にいつ喰われてもおかしくない――
「――こちら、怨獣殺し五番隊隊長。犬型怨獣発見。女性二人が襲われている模様。内一人重症。直ちに駆除を開始する。」
家屋の屋根から、細い道を上から見下ろしながら無線で連絡を取るスーツ姿の男が一人。背には大きな刀を背負っている。
無線を切ると、上から郁美達を再び見下ろした。その時、男は目を疑った。
(?何だ?怪我人を抱えてる方の女から黄色い光が……まさか……!)
「――♫ ―――♫」
郁美は、歌を歌っていた。黄色い光に包まれながら。この時の郁美の心の中では、こんな言葉を思い出していた。
「いいかい?郁美。本当にどうしようもなくなった時にはな、歌を歌うんだ。苦しかったり、辛かったり、泣き出したい時だったり。歌を歌うんだ。きっと、郁美に力を貸してくれるよ。歌には、計り知れない力があるんだ――」
誰から聞いたかも覚えていない。どこかで聞いたかも覚えていない。ただ、郁美の心の中にずっと留まっている言葉だった。
黄色い光は、郁美ごと御子を包み込むと、頭の傷口が塞がり、カビ色のアザが小さくなった。郁美は、自分がこの事をしているという自覚があったが、自分がなぜこんな事が出来ているのかが分からなかった。
歌を歌うのをやめると、黄色い光が消えた。
(私が歌を歌うと、傷が治るの……?)
御子の出血が止まり、安心したのも束の間。郁美の出していた光に慄いていた犬が止んだ光が止んだのを見て襲いかかる。
郁美は衝突を覚悟した。
その時、犬と二人の間にスタッとスーツの男が降りてきた。男は背の刀を手に持ち替え、鞘から銀色の刀身を抜き出す動作と同時に弧を描くように刀を振り上げた。
凄まじい風圧の中の一瞬のうちの出来事だった。犬は体の真ん中に線が入り、右半身と左半身がずれながら、少しづつ黒い粒子となって消えていった。
唖然。何が起こったのか分からない。目の前の事が信じられない。郁美はただただ男の背中を見つめるだけだった。
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