晴れ、ときどき冒険

@ALGOL2009

第1話 プロローグ

 心地よい目覚めの朝であった。


 一五歳になって初めて迎えた朝——そう、今日は彼女の誕生日なのだ。今年は暦のめぐりで偶然にも夏至の祭の日と重なった。


 二重の慶事に父王は優しくうなずき、昨夜はささやかな宴が催された。臣下たちは笑顔で祝意を口にし、若い騎士たちは競って彼女の手を押し戴いた。


 七歳になったばかりの妹姫ルシアナは抱きついてくると「お姉さま、お誕生日おめでとうございます」と甘えた。


 姉妹の母は不運にも早逝したため、幼いルシアナにとっては聡明で美しく、そして優しい姉姫が世界の中心である。父王の溺愛ぶりはいささか滑稽なほどだが、母の面影を色濃く引き継いでいるルシアナは后を亡くした父王にとってよき慰めでもあったろう。


 姉である彼女の方もまだまだ若年ではあったが、妹とは違う役目を負った身であり、いつまでも父王に甘えてはいられない自分を知っていた。


 いかに平穏に見えようとも、国を治める一族には常に難題が降りかかる。


 大陸の東に浮かぶ弧状列島のほぼ中央に位置するこの国は比較的穏やかな歴史を閲してきたが、国を取り巻く問題は一筋縄ではいかない。亡き母に代わって父王の側に仕えてきた彼女にはいわれずともわかっていた。


 国を治めるとは大変な難事であり、ひとたび不誠実な王が立てば国などたやすく傾くものなのだ。


 善王と慕われる父にも陰での苦悩は絶えず、忠臣たちも時に顔を曇らせる。花のように育てられた姫たちにもいつかその影が差す日がくるかもしれない。多くの民が夢見るような王女の幸せな一生などというものはおとぎ話の中にしか存在しないのだ。だからこそ——。


 自分は大急ぎで大人にならなければならない。これからも続く父王の治世を、その傍らにあって可能な限りお手伝いして差し上げなければ。


 いささか硬いその思いが今の彼女のひそかな決意でもあった。


 そうして一夜が明け、この国の第一の姫である彼女——クーリア・キルト・アリステアの運命の一日は幕を開けたのである。


     ***


 身支度を調え部屋を出た。付き従うのは侍女のヴァルナと従騎士のリーンである。ヴァルナは歳も近く、頭も回る娘なのでよい話し相手になってくれる。平民の出で街の事情に通じているところがクーリアのお気に入りだ。


 対してリーンは近衛隊から引き抜かれた女騎士である。従騎士といってもいわゆる見習い騎士のことではなく、クーリア姫ただ一人だけに従うという意味でそう呼ばれている。若いがその剣さばきを見込まれて抜擢された腕利きだ。


 王のへ通じる広い回廊の片側はそのまま城下を見下ろすバルコニーになっており、街の喧騒そのものは聞こえなくても人々の活気のようなものは伝わってくる。今日は彼らが待ちに待った祝祭の当日であり、クーリアにとっても特別な一日になるはずであった。


「いよいよですね、姫さま」


 ヴァルナの溌剌とした声も今日は一段とはずんでいる。


「私も姫さまの雄姿を楽しみにしております」


 女騎士の言葉に侍女が笑った。


「まあ、リーンさま、姫さまは戦にまいられるわけではありませんわよ」


「これは失敬、下々の話が私などの耳にも聞こえてきますのでね」


聖天せいてんの儀、実はわたしも楽しみで楽しみで」


 クーリアが小さく吹き出す。二人が話しているのは彼女がこれから果たすことになる夏至の祭の最も重要な儀式のことである。第一王女たる彼女が負う責任のひとつだ。国王がまつりごとの長なら姫は神官の長であり、祭祀の長でもあったのだ。


 夏至祭は他の多くの国々でも祝祭とされているが、長い歳月の間に様々な行事が習合され、夏至とはなんの関係もない秋の収穫祭や春の到来を祝う祭、はては雨乞いの儀式などまでが一緒くたになって由来も意義もはっきりしない祭礼になっている。


 神殿の学者たちはさぞ渋い顔だろうが、民にとっては祭の由来などどうでもよく、要は楽しければそれでいいのだ。


 街に活気があり、多くの人で賑わうその浮き立つ気分が喜ばしいのである。


 城下は数日前から華やかな喧噪に満ちていた。毎年この時期は祭の高揚した気分で大いに賑わうのだが、今年は例年にも増して人出が多い。


 それというのも、いつもなら神殿の巫女たちが行う「聖天の儀」を今年は神官長であるこの国の第一王女クーリア姫自らが行うという噂が人々の期待を煽っていたからだ。


 わずか十歳で神官長に迎えられた姫は類まれな霊力に恵まれた美しい少女であり、国王とともに人々の敬愛するこの国の象徴となっていた。


 普段は神殿や王宮の奥深くに佇む姫が人々の前に出て祭の最も重要な儀式を執り行うというのだからひと目でもその姿を、と誰しもが思ったのも当然だろう。


 そんな前人気もあって人々は今日のこの日を待っていたのである。


     ***


「では父上、支度もありますので私はこれで」


 第七四代ファーラム国王、ワルトナ・ゴドウィン・アリステア二世は鷹揚にうなずくと「よろしく頼む、神官長どの」と笑った。


 政の長は祭祀には立ち合わないのがしきたりである。それは祭祀の長に委ねられているからだ。


 クーリアは「おまかせください、陛下」とこちらも笑って王の間を辞した。公式の場でも勿体をつけない父と娘である。上司の供をして他国の王宮に出向いたこともあるリーンには肩肘を張らない王族一家の風通しのよさが好もしい。


「まあ、わが家は昔からああだから。お客さまがいらっしゃる席では母上はいつもはらはらしてらしたわ」


 どうやらリーンの内心が顔に出ていたらしい。女騎士は恐縮して「私は、その、おおらかな家風でよろしいかと……失礼いたしました」と頬を染めた。


 侍女がくすくす笑い、クーリアは二人をうながして馬車の待つ城門へと向かった。


     ***


 そうして数刻、神殿における一連の儀式は滞りなく進行し、も西に傾いた。


 残るは夏至祭の締めくくりともいえる「聖天の儀」のみである。普段は人もまばらな神殿だが、この儀式に限っては場外の広場が使われる。


 いつからそんな慣例が根付いたのかは不明だが、明らかに見物人を想定した措置であろう。集まった人々は期待を込めてその時を待っていた。


 やがて広場の一角にしつらえられた臨時の舞台に純白の神官服をまとった巫女たちが並んだ。都合九人。杖を持つ者、鈴を持つ者、天秤を持つ者、典礼用の剣を持った者もいる。彼女たちが手にするのは様々な天の恵みの象徴であろうか。


 そうして夏至の太陽が西に沈もうとするその時、神殿の門から現れたのは黄金の髪を美しく結い上げた一人の少女であった。


 居並んだ巫女たちの誰よりも若く、そしてその誰よりも高貴な雰囲気をまとっている。


 ほうっと一斉に人々のため息が漏れた。無数の光点がその身を包んでゆったりと渦を巻いているのである。一般人にも明瞭な霊光が見えるほど濃密な霊気をまとった人間などめったにいるものではない。


 ではあれが——。


 あれがこの国の第一王女にしてすべての神官の長たるその人なのだ。


 誰に告げられずともそう悟った人々は期せずして沈黙した。さっきまでの物見高い気分がしんと静まりかえってしまったのだ。


 舞台の中央に進んだクーリア姫は、手にした小さな円盤を胸の前に捧げ持つと目を閉じて祈り始めた。唇の小さな動きは古の祭祀の呪文、あるいは異言いげんの類であろうか。


「エレ・ツヴァウ・アザト・オルデラン・ミウミル・ハザ・ルミトゥ……」


 人々はその姿に引き込まれ、声もなく一人の聖女に見入っていた。やがて——。


 誰もが一斉に息を呑んだ。


 姫の頭上にいくつもの円を組み合わせたような文様が浮かび上がったのだ。差し渡しは人の背丈の十倍はあろうか。四重の円と幾何学模様、そして古代文字と思しき記号の列が金色の光の輝線で形作られていた。


「魔法陣だ」


「なんて大きな」


「美しい、こんなの初めて見た」


 沈黙を守っていた人々が一斉に感嘆の声を上げる。


 それは彼らが初めて見る大規模かつ精緻な魔法陣だった。儀礼用なので特になにかの働きをするものではなく、いわば派手な花火のようなものだということは誰もが心得ている。だが、これほどまでに壮麗で神々しささえ感じさせる黄金の魔法陣など誰も目にしたことがなかった。


 天の恵みを呼び寄せんとするクーリア姫の神秘に皆が瞠目し、本気で祈りの言葉を口にする者が続出した。さすがはわが国第一の姫、神官の長よ、という声がそこかしこで聞こえた。


 その時である。


 それまで彫像のように祈りの姿勢を崩さなかったクーリア姫が小さな悲鳴とともに足元を乱したのだ。


 よろめいてその場に倒れ込もうとするのを飛び出してきたリーンがすんでのところで支えたが、勢い余って二人ともその場に尻餅をつく格好になった。上空を見上げた姫の目が大きくみはられていた。


 その場の全員が一斉にどよめき、誰の目も頭上の「それ」に釘付けとなった。


 姫も、女騎士も、周囲の神官たちや見物の人々までが絶句していた。信じられないものがそこにあったのだ。


 クーリア姫の魔法陣の更に上空にもうひとつの魔法陣が出現していたのである。黄金の輝線で描き出されたそれは姫が生み出したものと全く同じ意匠を持っていた。鏡に映したように細部に至るまで同一だ。だが——。


「そんな、ありえない……」


 姫の震える声をリーンだけが聞き取った。


 出現したもうひとつの魔法陣はなにからなにまで姫のそれと同一だったが、ただひとつ、大きさだけが違った。


 巨大なのだ。


 おそらくは直径にして三倍、いや五倍はあるだろう。人々の頭上にのしかかるのではないかと錯覚させる巨大さである。


  姫のそれさえ例のない大きさだったのだが、これはもう想像を絶していた。たとえ儀礼用の幻像にすぎないといっても、これほどの規模のものを作り出せるなどとうてい信じることができない。


 誰もが声を失い、身動きさえできなかった。


 大小ふたつの魔法陣はそれぞれ逆方向にゆっくりと回転していた。間の空間には時折青い光が短く閃き、そのたびに陣の文様や記号が明滅する。


 その輝きが徐々に頻繁になっていくと異様な緊迫感が人々の心を締めつけた。


 そこに至って自失から覚めたクーリア姫の声が響いた。


「危険です、みんなここから離れて!」


 だが魅入られたように魔法陣を見上げていた人々はとっさに動けなかった。


 そして——巨大な魔法陣がまばゆいほどに輝き出すと小さな魔法陣は大きくたわみ、ひしゃげるようにして砕け散った。逃げて! という姫の叫びが届く前に巨大魔法陣の中央から光の柱が降り落ち、大地に突き刺さった。夕闇が一瞬真昼のようなまぶしさにかき消され、足下が大きく揺らいだ。


 その衝撃が人々を呪縛から解いた。


 悲鳴と絶叫、意味不明な怒号が乱れ飛び、人々は一斉に逃げ出した。もしここがひらけた土地でなかったら大変な惨状となったであろう。混乱はあったものの、さしたる障害物もない広場であったことが幸いして誰もが逃げ散った。残されたのはクーリア姫をはじめとする一部の関係者のみである。


 そしてリーンと二人して座り込んだ形の姫は別の理由で動けなかった。


 目の前に誰かがいた。


 光の柱が降り落ちたと思しきその場所に二人の人影が立っていたのだ。


 男と女、いや、もう少し若い。青年と少女、というべきか。


 少女の方が辺りを見回し、次いでクーリア姫と目が合うとこの場の混乱にそぐわないいささか呑気な声がこういった。


「あのう、すみませんが……ここどこですか?」


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