友情観
私には友達が居ない。
そう言うと人格を疑うような視線を向けてくる人々が居る。
そんな彼らに私はゴミを見るような視線を返してやる。すると、
「だからだよ」と牛乳を拭いた後の雑巾のように嫌な含みを持たせたセリフを置いて去っていく。
それがいつまでも心に残って臭っている。
友達が居ないと表現した私も悪いが、正確には友達の定義が分からないのだ。
学生時代には毎日つるんだ学友もいたが、彼らはいつ友になり、いつ友で無くなったのか、それともまだ彼らは友なのだろうか?
イヤ、そんな定義の前に前提として人を層別するような友達と言う言葉が私は嫌いなのだと、下の毛の発毛の発見と同時に気が付いたのだ。
友達と言う特別視は博愛の精神から外れ差別意識が生まれると思う。
「親友だよな」と宣う《のたまう》
後輩の妻が、別の後輩の妻を見て、
「あの人可愛い~友達になりたい~」と身をよじっているのを見たときは、人類よ彼女の罪を背負って滅びよと神に祈ったこともある。
右と言う概念が無ければ左も無い。
同様に私には友達が居ない、だからあの人は友達では無いと言う区別も無い。
友達の多い人間と、友達では無い人が居ない人間どちらにあなたはなりたいか?
世の中の常識を疑うことも必要だろう。
誤解の無いように言っておくが、相手に「私たち友達だよね」と笑いかけられれば、
「親友だな」と万金の笑顔で返す社会性が私にあることは伝えておく。
そして、皆が平等に幸せで有って欲しいと本気で思っている。
追伸 仲間や同士と言う言葉は素直に受け入れられるのよ。不思議と。
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