4-6

 初めて入るスポーツ科校舎は普通科のそれと全くと言っていいほど同じ造りだったが、まとわりつく空気は他人の家のように違う。それは木曽も感じているようだった。居心地悪そうに視線をさまよわさせている。


「なんていうか変な気分になるな」

「気持ちはわかるけど堂々としてろよ」

「それはわかるけど緊張するんだって」


 その声は誰かに聞かれていないかを心配していて、か細くなっていく。階段を下ってくる生徒たちとすれ違う頃にはほとんど聞き取れなかった。


 振り返り、ホッとしている木曽の背中を小突く。


「ほら。気にもされないだろ」

「セーゴの図太さがうらやましいよ。どうしたらそんな風になれるんだ?」

「BMXやってるからかな。怪我しない事ならだいたい平気になる。やってみたくなっただろ」


 わりと真面目に答えたのに、木曽は冗談と受けとめたみたいで頬を緩めた。


「スパルタすぎるだろ。メンタル鍛えられる前に心も骨も折れるって。セーゴみたいに」

「全然うまく言えてないから。ほら、もう屋上に着く」


 長い階段の終わりは籠った熱のせいで息苦しい。木曽が扉を開いたことで薄暗い空間に強い西日が差し込んだ。俺たちはその光の中に踏み出す。


 そこからの景色は事務棟の屋上と大して変わらないはずなのに俺は息を飲んだ。


 違いがあるのはひとつだけ。ここの西には視界を遮る校舎がなく、眼下にはどこまでも続いていると錯覚させられる水田があった。西日の光を吸い込み、さざ波が立つ様は大海のように思え、自分が立つ校舎が船のように感じる。


 そのへりに立っているのは小海だ。彼女は優しく吹く風に青いネクタイと髪を揺らされ、静かに帆高山脈を見つめている。


 足元には大きなスポーツバッグ。撮影機材を運ぶには良いカモフラージュだ。中に収められていた機材はすでにセッティングを終えている。


 小海は三脚に据えられたカメラから伸びるリモートスイッチを握り、何かを待っているように見えた。


 自然と一体になったような雰囲気のせいで声をかけてはいけない気にさせられる。見とれていると小海はゆっくりと俺たちに顔を向けた。


「こんなところにまで追いかけてくるとは思わなかったよ」

「小海先輩、どうして俺を置いていったんですか? 応募用の写真に細工までして」

「私がやったってわかってくれたんだね」

「どうしてそんな事をしたんですか?」


 その問いに小海は答えない。


「それはわかってくれなかったんだ。じゃあ、あの写真を見てどう思った?」

「どうって……それは……」


 俺がわかったのは写真を混入させたのが誰か、というところまで。撮ったのも小海だとは薄々気づいていたが、これで確信が持てた。それは木曽も同じで、正直に印象を言っていいか迷っている。


 尻すぼみになる言葉を小海が引き継いだ。


「つまらない写真、だと思ったでしょ。遠慮しなくていいよ。実際、そう判断されたから去年のフォトコンで選外だったし。でも、あれが私の撮りたい世界で、自信があった写真なんだ」


 自虐的に小海は笑うが、とても寂しい笑顔だった。


 見かねた木曽が力強く励ます。


「でも! 上田先輩の写真は凄かったじゃないですか! 俺、あんな写真が撮れる小海先輩を尊敬してます!」

「知ってるよ。ねえ、木曽君。ここから何が見える?」


 小海は両手をいっぱいに広げる。水田が海で校舎が船だとしたら彼女は映画のヒロインだ。そんなシーンを見た事がある。だけど映画と違い、彼女はひとりきりで風を受けていた。


 低く落ちた太陽が帆高山脈にさしかかり、山々が作る長い影は少しづつ広がっていく。数時間もすれば全てが闇に覆われ、夜明けと共に姿を表すだろう。それは毎日繰り返される光景で、俺が生まれるずっと前から、そして死んだあとも続いていく。


 この光景から俺が感じているのは生と死だ。そして木曽に見えているのものは異なる。


「何って、帆高ですよね。でも撮るなら朝の方が良くないですか? この時間だと逆光になって帆高の良さが隠れてしまいます」

「木曽君に見えているのは帆高なんだね。確かに朝日を浴びる帆高山脈は風景写真の定番だと思う。だけど私が撮りたいのはそれじゃないの」


 太陽は山に沈みつつあった。残されているのは真っ赤に染められた空と、その色を吸った水田だけ。帆高山脈は黒いシルエットだけを残している。


 俺の抱いたイメージで言うなら落日は死だ。赤い海と光を失いつつある空。そして立ち塞がるようにそびえる帆高は先を見通せない暗い壁に見える。この光景は死を体現していた。


 太陽は完全に隠れてしまう直前に強くかがやく。その瞬間、シャッターを切る音がした。


 小海はカメラに手を伸ばし、今撮ったばかりの画像を確認する。成果に満足できたのかわからないほど反応が薄いが、わずかに目を細めていた。


「やっと撮れた。これが私の世界。三年もかかっちゃた」


 手招きされた俺たちはカメラのモニターをのぞき込む。3インチ程度の小さい画面は決して大きくないが、そこに写る画像は視野が狂ってしまったみたいに広がって見え、現実以上に赤い。そして、このまま世界が終わってしまうような怖さがあった。


「木曽君、もう一度聞かせて。私の写真はどう?」

「先輩にはこんな風に見えていたんてすね。凄いです!」

「凄い?」

「帆高を撮るならどうやって引き立てるか考えるのが普通ですよね。だけど小海先輩はそびえる山を影にしてます。その分、こんなにも強く太陽のかがやきを写してるじゃないですか」


 木曽の目は画像の太陽と同じか、それ以上にかがやいている。心底感動しているが、小海は目を伏せた。そこに写る色は暗い。


「やっぱり、木曽君は太陽みたいだね。明るくて、まぶしくて、暗いものもまで照らしてしまう」

「小海先輩?」

「ねえ、木曽君。君が目を向けているのは光なんだよ。例えるならサッカーのフィールドで注目を集めている選手ってところかな。それは君の良いところだと思う。だけど私がいるのは影の中。誰も見ていないベンチで出場の機会をじっと待つ選手なの。君がいるとまぶしすぎて、つらくなる」

「そんな! 先輩が撮った上田先輩はあんなにかがやいているじゃないすか!」


 その言葉が、小海の影をより一層暗くする。


「そういうところよ。君がいると自分が光の中にいると錯覚させられる。たった一枚、スポットライトが当たっている写真を撮っただけで勘違いさせられる。でも、私がいる場所も、撮りたいものも、そこじゃない。この光景や散った花びらに埋もれていく松木城なの」


 せきを切ったように語る声はとても静かだ。だけど込められた思いは強い。


 何も言えない木曽に小海は微笑む。


「木曽君は私のそばにいない方がいいよ。きっと傷つけあうだけになるから」


 たぶん、小海はずっと言いたかったんだと思う。すっきりした顔をしていた。


 そしてカメラからリモートスイッチを外し、ついで三脚に固定していたネジを緩める。それらをひとつひとつ丁寧にスポーツバッグへしまい、ゆっくり肩に担いだ。


 そのまま立ち去るかと思ったが、俺の前で足を止める。


「木島平君だったよね。ここがわかったのは凄いけど、木曽君を連れてきてほしくなかったな。おかげで彼を傷つけちゃった。写真部を辞めるかも。あの写真で全部伝えられると思った私も悪いんだけどね」


 小海の視線につられて木曽に目を向ける。小海の拒絶が大きなショックを与えたのは間違いなく、呆然ぼうぜんと立ち尽くしていた。


 確かに木曽を傷つけた一端を俺が担っている。だけど悪い事をしたとは思えなかった。


「小海先輩、俺はこれで良かったと思います。曖昧に避けるぐらいなら、はっきり拒絶してやった方がいいです」

「それは君の場合だよね。私なら耐えられない」

「先輩こそ木曽を見くびってます。こいつは強い。今はショックかもしれないけど、数日もすれば立ち直るどころか、もっと強くなりますよ。俺が保証します」

「それなら良かった。私は木曽君を嫌ってるわけじゃないから。ただ、近すぎてまぶしかっただけなの」


 小海は木曽から目をそらし、階段室に消えていった。


 そのまま木曽はうつむいたままで時間だけがすぎていく。


 赤かった空は深い青で塗りつぶされていき、星が見え始めた。


 どんな言葉をかければいいかわからずにいると、木曽はパッと顔を上げる。


「悪かったな、セーゴ。時間取らせた上に嫌な思いまでさせて」

「人の心配してる場合じゃないだろ」

「良いんだよ。先輩が言っていたしな。嫌いじゃないって。確かに付きまといすぎたんだと思う。考えてみれば、知り合ってまだ二カ月だしな。これからはもっとゆっくり攻める」


 その言葉に俺は口をポカンと開けるしかなかった。自分でも間抜けな顔をしていると自覚しているが、木曽から見れば余程おかしな顔をしているらしい。肩を震わせて笑い始めた。


「笑わせるなよ」

「ポジティブすぎるだろ。頭大丈夫か?」

「要するに、少し押さえろって事だろ」

「そうだけど。いや、そうなのか? 違う気がする」


 俺まで木曽に毒されてきたのか納得しかかった。


「今度はちゃんと先に言うよ。ウザい時は言ってくれって。先輩からは教えてもらいたい事がたくさんあるし……」


 なぜか恥ずかしそうに言いよどむ。そんな木曽がますますわからなくなった。


「なんだよ。はっきり言えって。木曽らしくない」

「たぶん、俺は小海先輩が好きなんだと思う」

「は? あんな事言われたのに?」


 俺が小海に抱いている印象と真逆で驚かされた。木曽の人間性と距離感が苦手なのは仕方がないとして、あのやり方は気に入らない。嫌なら嫌と最初から言えばいいんだ。それを俺の友達にやったからか、余計にそう思えた。


 だけど木曽は覆い被さるように肩を組んでくる。


「わかってないな。愛ってのは与えるものなんだよ。セーゴにはまだ早かったか?」

「じゃあ、大人の木曽に聞くけどさ。そうやって何回撃沈したんだ?」

「あー! 聞こえない! ほら、俺たちも行こうぜ。ネクタイ返さないと。遅いって怒られそうだしな!」


 木曽が突然走り出したから俺は急いであとを追う。虚勢を張っているだけかもしれないが、そう見せようとしている木曽はやっぱり強いと思った。


 そして、その強さが本物だとわかったのは一学期の終わり、期末テストの最中。


 松木市フォトコンテストのリザルトでは小海の写真が入選しており、『陽光』というタイトルは間違いなく木曽に影響されていた。

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