2-2

 職員室はすぐそこだが遠いところにあった。それはあまり立ち入りたくない気持ちからくる精神的な遠さもあるが、物理的な意味合いが強い。


 事務棟の二階にあるので俺の教室から見えるところにある。だけど三階から一階まで階段で降り、トタン屋根があるだけの渡り廊下を使って事務棟へ。そして、また階段で上がらなけならない。


 頻繁に行き来する教師は大変だろうな、と他人事のように思いながら渡り廊下のコンクリを上履きで進む。


 つながっている先は家でいうところの勝手口にあたる場所で、来客を招き入れるエントランスと比べると使い込まれた空間に見えた。


 そのまま中に入り階段に足をかけたところで、管楽器の音色が上の方から流れてくる。事務棟には文科系の部室が多く、ブラスバンド部もそのひとつだ。奏でられるマーチのリズムは規則的で自然に歩みを合わせてしまう。そこにバタバタとした足音が加わった。それはマーチのリズムよりずっとテンポが早い。まるでノイズだと思いながら不協和音の主と階段の踊り場ですれ違う。というよりも、すれ違うつもりだった。


 青いネクタイをしている彼らは二人組で、腕には風紀委員会の腕章がある。それだけなら足を止める理由にならないが、そのうちのひとりがサッチだったから立ち止まってしまった。


 BMXに乗っている時のダボッとしたシャツにハーパンは見慣れているが、制服のブレザー姿は初めて見る。それだけの違いなのに優等生のような雰囲気をまとっている気がした。


 そんな彼女に声をかけようとしたが口を閉じる。学校では話しかけてくるなと言われたのを思い出したからだ。


 サッチは俺をちらっと見ただけで、何も言わずに通り過ぎようとする。だけど、もうひとりの風紀委員は足を止めた。彼は眉を寄せてにらみつけてくる。


「何だお前。じろじろ見てくんな、赤ネクタイ」


 いきなり棘しかない言葉を投げかけられたせいで反射的に言い返しそうになる。そうするより早くサッチが注意した。


高遠たかとう、一年生に凄むなんて恥ずかしい真似はやめて」


 それは俺が知っているサッチとは思えない口調だった。松木北高校の制服を着ているせいなのか、それとも風紀委員としての振る舞いなのかはわからない。少なくとも高遠と呼ばれた男には、その気概はなかった。サッチに向けて荒々しくつっかかる。


「俺に命令するな。だいたい、どうして下級生ってわかるんだ。もしかして知ってるやつか?」

「そうじゃない。二、三年生ならほとんどの顔を覚えてる」

「知らない顔だから一年って言いたいのか。だけど一学年だけで三百人いるんだぞ。……まあ、こいつはチビだから忘れないだろうけど」


 高遠は俺を見て鼻で笑う。いくら上級生でもめられっぱなしだと腹が立つ。今度こそ文句を言ってやろうと、ネクタイに指をかけて緩めた。そんな俺の怒りを感じたのか、高遠の目がすっと細くなる。


 しかし、またしてもサッチが俺たちの間に割り込んできた。


「高遠、先に行ってて」

「はあ? なんでそうなるんだよ。それから、俺に命令するなって言ってるだろ」

「私は彼に松木北高校の生徒として相応しい振る舞いを教える。校則違反は見逃せない」


 校則違反なんてしていない。そう思っているのは俺だけらしく、高遠も訳知り顔でうなずく。


「だったら俺も――」

「彼にそうさせたのは高遠よ。これ以上トラブルを大きくする気?」

「ちっ。わかったよ。その赤ネクタイにしっかり言っておけ。スポーツ科の生徒、特に風紀委員会には逆らうなってな」


 そして高遠は階段を下っていく。サッチはその背中が見えなくなるまで待ってから、やっと俺を見た。


「これでわかった? 学校で話しかけるなって言ったよね」 


 この場に俺たちしかいないせいか、サッチの表情も口調もよく知っているものになった。だけど弟を叱るような内容には納得できない。


「高遠って人が普通科を毛嫌いしてる事はわかったよ。それとも風紀委員会の全員がそうなのか?」

「スポーツ科全体がって思ってくれた方がいいかも。その逆も似たようなものね」

「それぞれの生徒がお互いの科を嫌っているとか、おかしいだろ」


 俺がおかしいと言ったのは二重の意味でだ。普通ではないという意味と、文字通り笑える意味で。


 その含みがサッチに伝わったのかはわからないが、真剣な顔で言った。


「それでも、これが松北なの。ここの生徒になったんだから覚えておいて。あとトラブルも起こさないで。それと校則も守って」


 さっきも言われたが、校則違反をしている自覚がない。説明を求めると、サッチは大げさにため息をついた。


「ネクタイはきちんと絞める事。生徒手帳を見てないの? ネクタイは緩めても外しても駄目。松北の生徒は身だしなみもできないって思われる事になるから。注目されない普通科にはわからないだろうけど」

「誰が見てるっていうんだよ」

「スポーツ科の生徒は学校の名前を背負って戦っているの。大きい大会になればメディアを通してみんなが見る。みっともない姿を映されたら迷惑がかかるってわからない? そうならない為にも普段からきちんとする習慣が大切なの」


 感情では反発したいけど、サッチの言う事は正しい。俺は渋々ネクタイを締めた。


「これでいいだろ」

「まだ駄目」


 サッチの指がすっと喉元に近づいてくる。思わず後ずさると、にらまれてしまった。


「動くな」


 首でも絞められるのかと思って身をかたくしてしまう。間近にきたサッチは姉のように柔らかい表情をしていた。そしてネクタイに少し触れただけで、すぐに離れる。


「これでよし。曲がってたらかっこ悪い」

「ありが――」


 礼を言う途中で階下から話し声が聞こえてくる。途端にサッチは風紀委員の冷たい仮面で表情を隠し、最後まで聞かずに階段を駆け下りだした。俺は後ろ姿を目で追うが、チラリとも振り返らない。


 きっとサッチの本質は何も変わっていないんだと思う。ただ立ち位置が変わっただけだ。二つの科の間ある壁なんて俺には関係ないし、そんなものに振り回されたくない。だけどまだ入学したてで何も知らないのも確かだ。どうしてこんな状態になっているのかすらわからないのに好き勝手に動くのは良くない。


 BMXと同じだよな。やれる場所はたくさんあるけど、どこにだってローカルルールがある。理解できないルールでも無視をすれば角が立つものだ。


 だけど納得したくない気持ちもある。そう思ってしまうのは自分が子供だからだろうか。


 そんな事を考えていたせいか、危うく階段を下りて帰りそうになる。呼び出されていた事を思い出して回れ右した。


 二階に上がり、職員室の扉を開ける。教室の倍以上広い部屋なのに机や物が多くて狭く感じた。教師は机の半分もいなかったが、遊んでいる机はなさそうで、どの机もノートパソコンが置かれている。


 肝心の教頭を探そうと思ったが、校長のように入学式で壇上に立っていなかったからどの人かわからなかった。仕方なく教えてくれそうな人を探す。というより南牧を探した。少し見回しただけですぐに見つける。近づくと、思った通り確認テストを作っている真っ最中だった。モニターに顔を近づけ、キーボードの上で指を踊らさせている。


 声をかけると慌てた様子でノートパソコンを畳む。


「テストに自信がないからって問題を見に来るなよ」

「そうじゃなくて、教頭先生って誰ですか?」

「そういえば呼び出しの放送あったな。新入生で呼び出されたのはお前が最初だ。第一号おめでとう」


 南牧は笑いながら腰を浮かす。そして室内を見回し、首を傾げた。


「いないな」


 呼び出した本人が不在なんてありえない。


「じゃあ、帰っていいですか?」

「駄目に決まってるだろ。すぐ戻ってくるだろうから待ってろ。あれが教頭先生の机だ」


 南牧の指が向けられているのは窓を背にした机だった。他の教師の机と違い、ひとまわり大きくて職員室を見渡せるように配置されている。教科書やファイルで物の置き場がない南牧の机と違い、ネームプレートしか置かれていない。


 いったいどんな人なのか尋ねようとしたら、雑に追い払おうとしてきた。


「ほら、もう行け。俺は忙しいんだよ」


 せめて心の準備ぐらいさせてくれてもいいじゃないか。そんな思いが言葉に棘を作る。


「わかりました。テスト作成がんばってください。あまり難しくすると恨まれますよ」

「俺だって愛される教師になりたいよ。写真部の連中も怒ってるだろうし、サッカー部の部長にも嫌味を言われるし、散々だ」


 そのぼやきが聞こえたのか、近くの席の男が立ち上がった。


「南牧先生、すみません。きつく言い聞かせておきます」

「いえ、ドタキャンしたのはこちらなんで。練習には顔を出さないんですか?」

「急ぎの仕事があるので後で行きます。もっとも技術的な事はコーチ任せですが」


 話の流れからするとサッカー部の顧問だろう。顔を見た事がないのはスポーツ科の教師だからか。両科の生徒間に交流がないから教師もそうかと思ったが、そうではないらしい。サッカー部顧問は南牧に同情的だった。


「それにしてもタイミングが悪かったですね。急な出張では準備もできていないでしょう」

「その通りですが、そこまで悲観してません。教頭先生が別件で行けなくなった代理なので」

「というと?」

「恩を売れるのでボーナス査定に期待です」


 南牧が親指と人差し指で丸を作る。そして二人で笑いだした。俺がいるのを忘れていそうだったので話に割り込む。


「少し待ちますけど、戻ってこなかったら帰ります」

「そうしてくれ。あ、今の話だけどな」

「教頭先生には言うな、ですよね」

「頼む」


 失礼します、と頭を下げて教頭の机に行く。背後では二人の話が再開されていたが、テスト作成はしなくていいのか? まあ、教師である前にただの人間だ。息抜きも必要だろう。


 教頭の机には本当に何も置かれておらず、ネームプレートと、つながれていない電源ケーブルがあるだけだった。という事はノートパソコンもしまっているらしい。まだ見ぬ教頭は几帳面きちょうめんな性格をしていそうな気がする。


 しかし、すぐ隣のキャビネットの上は雑に見えた。バインダーが置かれているだけだったが、挟んである紙束の一番上は外れそうなぐらい斜めになっている。しかもボールペンが床に落ちていた。


 拾ってキャビネットの上に置きながらバインダーを見る。それは校用車の予約台帳

だった。一番上の紙は全部埋まっていて、最終行の使用目的にトレラン部遠征と書かれている。その紙をめくると二枚目の先頭は登山部だった。俺が推測した通りだったけど、ここまで当たっていると自分に才能がある気がしてくる。そのまま視線を下ろしていくと最後の予約は南牧で、予定日が明日だった。


 つまり、予約をするために紙をめくって記入する時に一枚目がずれてそのままなのだろう。そしてボールペンを落としたのに気づかずに行ってしまった。という事は教頭が席を離れたのはその前か。几帳面な性格ならボールペンを放置するはずがない。


 そんな事を考えながら用紙をながめていると教頭の名前である富士見で取られた予約が多いと気付いた。トレラン部と登山部がバッティングした前日には二回も予約しているぐらいなので、南牧が言うように忙しい人なんだろう。


 そんな人が俺に何の用があるのか。ますますわからなくなってきた時に声をかけられた。


「木島平君ですね。初めまして。教頭の富士見です」


 振り返ってみて驚いた。気難しそうな人をイメージしていたのに、そこにいるのは目尻の下がった温和そうな顔立ちの女性だった。歳は母さんと同じ、いや、少し上か。五十ぐらい?


 実は優しく見えるだけで厳しい人かもしれない。そんな思いが俺の姿勢を正した。


 全身が緊張しているのが伝わったのだろう。富士見は柔らかい笑みのまま俺を導く。

 

「そんなに固くならなくていいのよ。こちらへどうぞ」


 案内されたのは職員室の一角。パーティーションで囲われた場所には折りたたみの会議卓とパイプ椅子があった。富士見は書かれたまま放置されたホワイトボードを消す。


 もう少し待たせるわね、と言うとすぐそこにある給湯室に入っていった。


「お茶でいいかしら」

「はい」


 給湯室から食器がこすれる音が聞こえた。それに富士見の声が混じる。


「足の調子はどうかしら? 入試で面接した時には引きずっていたけど、痛みはない? 確かBMXで大怪我したのよね」

「はい。違和感もないですし、脚力も戻ってます」

「たった一年で元通りなんて若いわね。歳は取りたくないわ」


 ふふっという笑い声とともにお茶の香りが漂ってくる、それには心を落ち着かせてくれる優しさがあった。しかし担任にすら話していないBMXをやっている事を知られている居心地の悪さまでは取り除いてくれない。


 そして富士見はトレーに湯飲みを二つ乗せて戻ってきた。


「どうぞ。お茶菓子は出せませんが」

「お構いなく」


 返した言葉が適切ではない気がして視線が泳いでしまう。それを富士見は見逃してくれず、また柔らかくほほ笑んだ。


「安心したわ。もっと大人びた子だと思っていたから」

「えっと、俺……自分の事を誰からお聞きになったんですか? ひとりしか心当たりがありませんが」

「無理にかしこまった話し方をしなくていいのよ。私が話したいのは取り繕っている君じゃなくて、普段通りの君だから。それと質問の答えは……そうね、誰から聞いたと考えているのか教えてもらえるかしら」


 当然、サッチしかいない。同じ中学出身の生徒もいるが、BMXで怪我をした事を知っているやつはいないはずだ。


御代田みよた彩千さち、ですよね」

「どうして彼女だとわかったのかしら」

「校用車の件を教頭先生に確認すると言っていましたし、その時に聞いたとか? もしかして風紀委員会と関係ありますか?」


 点と点を結び付けただけの推測だったが、その答えに富士見は満足した様子だった。


「頭の回転が速いのは聞いていたとおりね。そうよ。私はそこの顧問もしているの」

「教頭先生自らですか?」

「ええ。風紀委員会はスポーツ科の生徒だけだから。そんな組織が普通科校舎に出入りしたら角が立つでしょ。でも私が後ろだてになれば少しは活動しやすくなる。そういうわけで彼女ともよく話すのよ」


 そういう事か。サッチと富士見のつながりに裏付けは取れたが、俺を呼んだ目的は依然として不明だ。


「それで、呼んだ理由を教えてもらえませんか?」

「君と話したかったから、と言ったら怒られそうね」

「え?」


 たったそれだけの事で呼び出したのか? 忙しいのにわざわざ? 疑問ばかりが膨らみ言葉を失う。富士見は困惑する俺の目を見すえたまま指を組む。


「教頭の仕事は校務の管理ですが、その中に生徒も含まれると考えています。生徒全員の内面を把握できるまで対話するのは難しいですが、せめて言葉を交わすぐらいはしたい。木島平君を呼んだのもその一環だと思ってください」

「わかりますが、どうして自分ですか?」

「御代田さんから話を聞いたからです。校用車の件は見事でした。限られた情報から正確に見抜けた君に興味を抱くな、という方が無理があるでしょう」

「あれは……たまたまわかっただけです」


 そうとしか言いようがなかったが、富士見は首を振る。


「きっかけは偶然かもしれませんが、重要なのは結果です。君は結果を残しました。おかげで私は御代田さんに叱られましたよ。記入の確認をするのならバインダーごと持っていくべきでしたね」


 サッチは教頭相手でも物怖じしないのか、と感心しつつ頭を下げる。富士見のいうところの結果に注目すると、済んだ事をほじくり返しただけだからだ。温和そうな富士見だから怒ってはいないはずだと思い顔を上げる。その期待は当たっていて柔らかい笑みを浮かべていた。


「気にしなくていいですよ。でも、やっぱり惜しいわね。君という人材を遊ばさておくのは」


 ただ話したいだけとは思っていなかったから、そう言われた事に驚かなかった。だけど、惜しいとはどういう事なのか。


「何かさせるつもりですか?」

「君の話を聞いた時は風紀委員会に入ってほしいと思いました。そうなれば松木北高校は、より秩序ある学び舎になるはずです。ですがスポーツ科ではなかったので諦めました」


 いくらなんでも買い被りすぎじゃないか? しかし、それよりも疑問が生まれた。俺が普通科だからスポーツ科の生徒だけで構成されている風紀委員会には入れられないと言っている事だ。それともうひとつ。教頭という立場の人が二つの科の関係を知っていながら手を打っていないのはなぜか。


「普通科の生徒が風紀委員会にいると問題がありますか?」

「ごめんなさい。そう捉えられても仕方ない言い方でしたね。風紀委員会の顧問としては歓迎したいけど、困るのは君の方だから。きっと四面楚歌しめんそかになるだろうけど入ってもらえるかしら」


 なるほど。もし入ったら今のメンバーは良い顔しないだろう。特に、サッチと一緒にいた高遠って男はボロクソに言ってくるに決まっている。好き好んでいばらの道を進む気はなかった。


「お断りします」

「ええ」


 富士見は湯飲みに口をつけてから腕時計に目を落とす。


「いけない。そろそろ行かないと。木島平君、今日はありがとうございました」

「いえ」


 俺は立ち上がり、富士見も席を立つ。それと同時に窓の外が明るくなった。いつの間にか空を覆っていた雲が薄くなり、ところどころ途切れている。映像映えしそうな見事な天使の梯子はしごだった。


 見上げながら思った。木曽は残念がっているだろう。この景色の下で写真が撮れなかったのだから。

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