Lemon

平 遊

第1話

「ありゃ、降られちゃったのかい?」


 店の中に入ったとたん、カウンターの奥から大将の声が飛んできた。

 グレーのコートに点々と着いた染みを、目ざとく見つけたらしい。


「はい、今ちょっと前に降り出してきちゃって」


 古くからあるこの大衆居酒屋は、駅から住宅街までのちょうど中間くらいにあり、安くて旨いと地元の人間からは好評で、夜の時間帯や週末などは混雑をしている事が多い。

 ただ、今は平日の夕方。

 平日のこの時間帯によく待ち合わせをしていたな、などと思い出しながら、月代はいつものカウンター席に腰を下ろした。


「はい、お通しと生絞りレモンサワー」


 すぐに大将が、生絞りレモンサワーとお通しをカウンター越しに2人分テーブルに出してくれた。


「え?」

「陽ちゃんの分は、俺からのサービスだよ」


 言いながら、大将はぎこちないウィンクを月代に向かって投げかけてくる。

 そのウィンクをクスクス笑いながら受け取めると、月代はありがたくいただくことにした。


「大将、いつもありがとう」


 大将は、月代の兄、陽太がもう二度とこの店を訪れる事は無いと分かっているはずだ。

 そしてそれは、月代も同じ。


 大将のサービス、陽太の分の生絞りレモンサワーとお通しを隣の席に置き、月代は自分のグラスを陽太の分のグラスに軽く合わせた。


「お疲れ様、陽ちゃん」


 窓の外は、ガラス越しにでもはっきりと水の線が見えるほどに、雨が激しくなっているようだ。


「陽ちゃんて、雨男だよね。また、雨が上がるまでここで雨宿りかなぁ」


 確かに、今朝の天気予報では、夜の時間帯に局地的な雨が降る可能性があるため、折り畳みの傘をお持ちくださいと告げていた。

 だが、月代の鞄に、折り畳み傘は入っていない。


「まぁ、いっか」


 さして気にする様子もなく、月代は半分に切られたレモンを付属の器具を使って果汁を絞ると、グラス中に注ぎ込む。

 酸味と苦みのまじりあった香りが鼻を刺激するのを待ち、ゆっくりとグラスの中身を喉の奥へと流し込んだ。

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