言葉より多弁な君の一部

伏見 悠

Case1 犬飼陸

「おはよー!」

「あ、おはよう犬飼く、ん……」


隣の席の犬飼くんはいつも笑顔で話しかけてくれる。少し癖のあるふわふわした髪と、見上げなければならないほどの高い身長。勝手に犬のように、それもゴールデンレトリバーみたいだなとは思っていた。

思っていたけれど、それは比喩的なものであったはずなのに。

振り向いた先にいた犬飼くんの頭に、普通にはないものがあった。


「あれ、まだ寝ぼけてるのかな……」


目をぎゅっとつむってから彼をもう一度視界に入れてもそれは消えてはいなくて。

そう認識した瞬間、頭が高速で回り始める。


なんでそんな犬の耳みたいなの付けてるの!?

やっぱりおかしいよねどういうこと!?


そう口にしたくとも頭はまだ混乱しているのか、口は意味もなく開いて閉じることを繰り返す。


「どうしたの?」


どうしたのはこちらの台詞で、本来顔の横にあるはずの耳も元からないかのように姿を消している。

それからやっと口から溢れ出たのは、たどたどしい言葉であった。


「そ、それ、どうしたの?」

「え、何かおかしいとこあった?」


犬飼くんは自分の制服や髪、顔を触って異常がないかを試している。

髪なんかはぐちゃぐちゃにする勢いで触っていたけれど、その耳のようなものには触れるというよりも、何もないかのように貫通していったのだから目を疑う。

そうしている間にもその耳はぴくぴくと動いていて、見た目だけは本物の動物の耳のようだった。


「ちょっと髪が跳ねてるかも? 鏡で見てみて」


試しに鏡を渡して反応を見てみようと、机に置いたままだったカバンから鏡を取り出す。


「え、ほんと? ありがと」


ニカッと笑って鏡を受け取ると、髪をちょいちょいと触っていたが、どこが跳ねているのかわからない様子だった。

そして頭にある違和感の塊も犬飼くんには見ていないらしい。


「あれ?どこ?」

「えっと、ちょっと触るね」


わからないのも無理はない。触って確かめるためにもそう言ったのだから。


乱れた髪の、耳がある部分をそっと撫でてみたが、そこには耳ではなく髪の感触しかなかった。繰り返し撫でてもすり抜けるだけ。


やっぱり目でもおかしくなったのかな……

自分でも知らない願望でもあったのか、幻覚が見えるようになったのか、頭を抱えそうになるのを我慢する。


「あ、ありがとう」


ひとしきり触って納得はいかないものの満足はしたため、髪から手を離した。頬をほんのり赤く染めた犬飼くんは、はにかんで笑っていた。


***


体育の後、こうして廊下を歩いていても犬飼くんの他に不思議なものが見えることはない。


なんで犬飼くんだけなのか。

そんな疑問が頭に浮かんでいた。


教室でも犬飼くん以外に耳を生やした人などはおらず、授業を受けている際には、隣に座る犬飼くんを盗み見ていた。

夜更かししたのかは知らないが、うとうとしている彼の頭には依然として動物の耳らしきものが。

そしてその耳はぴくぴくと動いていた。


眠そうな犬飼くんを見るのは初めてではないのに、動物の耳らしきものがあるだけで可愛らしく見える。

授業中でありながらその姿に心は癒されていた。


しばらくして、うたた寝していた彼の腕が机に当たり、消しゴムが私の足元に転がってきた。拾って差し出すと、ぱたんと耳を後ろに倒した犬飼くんが手のひらを上にして待っていた。


これ逆だったら完全にお手をする犬だったのにな!


少しだけ悔しく思いながらその手に消しゴムを置いた。


「ありがと」


小さくそう呟いた彼の耳はずっと倒れたままだった。


そんなことを思い出しながら歩いていると、肩に手を置かれたため振り返る。

振り返った先にいた犬飼くんが、浮かべていた笑顔を心配そうな表情に変えて顔を覗き込んできた。


「大丈夫? 元気ない?」

「大丈夫! 元気だよ」

「そう? なんかぼーっとしてない?」


納得していないみたいでじいっと見つめられる視線に何か見透かされそうで、耐えかねて歩みを進める。


「ちょっと疲れちゃったのかも」

「そっか」


隣に並んで他愛ない話をしながら歩いていると、ふと犬飼くん越しに鏡が目に入った。


そこには今日で少しだけ見慣れてしまった動物の耳らしきものはなく、いつも通りの犬飼くんの姿が写っていた。


「え!?」

「え、なに、なんかあった!?」


私の声に驚いて犬飼くんが辺りをキョロキョロと見回しているが、あいにく私は鏡と実物を何度も見比べていて気にする余裕はない。


鏡には普段の犬飼くんがいて、目の前には動物の耳らしきものが生えた犬飼くん。

目に入るふたつのものが一致しなくて頭はパニックを起こしていた。


「みみ……」

「え?耳?」


言葉を拾ったのか鏡を見て顔の横にある耳を触っているが、私には鏡越しでなければそれを目にできない。


何かにいざなわれるように、無意識にも手を伸ばして未だに耳を触る彼の手に触れた。


「わっ!?」


ほんの一瞬触れた感覚がした瞬間、飛び退いて距離をとられた。犬飼くんの動物の耳はぴんと立って顔は赤い。


「え、ごめん……」


予想外の行動と表情をした犬飼くんを見つめて呆然とただ立ちすくむ私を、犬飼くんも目を見開いて見つめている。


「お、俺!先に行くね!!」

「あ、ちょっと!」


止まっていた針が動き出したように、固まっていた犬飼くんは私の返事を聞くことなく走っていってしまって、咄嗟に出た手は行き場をなくしていた。


「そんなに驚かせちゃったかな……」


***


それから先ほどの出来事がなかったかのように代わり映えのない時間が過ぎていった。

結局犬飼くんと同じような人は見つけることができなくて、謎は深まるばかり。やはり幻覚が妥当なところかとため息が出そうだ。


1日の終わりを告げるチャイムが鳴り、各自帰り支度を済ませていく。

一足先に済ませたらしいリュックを背負って、犬飼くんはいつものようにこちらを振り返って笑っていた。


「また明日!」

「うん、また明日ね」


今度は私の返事を聞いて頷いてから、犬飼くんはドアへと歩いていった。

私は彼がドアの向こうに消えるまで、未だにある動物の耳と後ろ姿をなんとなく見送っていた。


次の日、犬飼くんの頭にあった耳はなくなっていた。それに安堵する一方で、耳を後ろに倒した姿が頭をよぎってもう一度見たいとも思う自分がいるのだった。

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