通り雨
通り雨、という言い回しはレトロで風流だが、近ごろはゲリラ豪雨と言った方がわかりやすい。なんでもいい、とにかくこの、急に降ってきた雨に、
「あれ、ほのかちゃん?」
反射的に顔を上げた。傘を傾けた若い男がたたずんでいる。げ、と内心でほのかは後退した。あいつだ。ひょろっとした体つき、くせのある茶色い髪の下できらめく、丸く人なつこい瞳。まずまず整った顔立ち。間違いない。4組の
どうして、日曜日の午後にまで、こんな男と顔を合わせなきゃならないのか。
「制服とは全然イメージ違うね。そういうのもカワイイよ」
にっこり。さすがは
「それはどうも。今まで何人くらいの女の子にそう言ってるのか知らないけど」
吐息まじりに、精一杯の嫌味を言ってやったが、その程度ではナンパ師をへこますことはできない。
「あはは、一言もない」
ほのかは舌打ちをこらえた。
「ほら、送っていくから、おいでよ」
麗人は暗い色彩のチェック柄の傘を、小さく振ってアピールした。けっこうよ、と蹴飛ばしてやりたかったが、雨脚は強まってきて、木の下では心もとなくなってきた。自宅までは、走って帰るには少々距離がありすぎる。ほかの知り合いが通りかかってくれる気配はないし、こう言ってくれる顔見知り(友人じゃない!)の目の前で友だちに電話するのはさすがにためらわれる。
「……ありがと」
気分は降伏宣言だ。みじめに濡れたワンピース姿で、ほのかは麗人と至近距離で並んで歩くはめになった。
「急に降ってきたのに、よく傘持ってたわね」
「ああ、これ? この前、外出先に忘れて帰っちゃったんだ。今取りに行った帰りなんだよ。近道しようと思って公園通ることにして、正解だったな」
さりげなく麗人が体を寄せてくる。とっさにほのかは遠ざかろうとした。
「濡れちゃうよ」
「あ」
悔しい。ほのかは傘の下に留まらざるを得なかった。もし肩を抱いてきたらひっぱたいてやることに決めた。こういう軽い男は嫌いだ。だからほのかは、学校でも麗人とは挨拶以外口をきかないことにしていた。だいたい木坂麗人という男は、学校中の女子に手当たり次第声をかけているというし、不特定多数の女子とデートしているらしいし……ほのかの友人にも、麗人とデートしたことがあるという子が数人いる。こんないい加減な男のどこがいいのか、ほのかにはさっぱりわからない。
ちらっと、麗人を眺めた。明るいグリーンを基調としたファッションでまとめている。シャツにネクタイ、ベストにスラックス。学校でよく見かけるタキシードほどではないが、まあフォーマルとカジュアルの中間くらいの雰囲気に、上手に着崩している。よく見れば、ひとつひとつはたいして高級な品々ではなさそうだ。高校生だから当たり前かもしれないが、着こなしがうまいのは確かだろう。同じくらいの年ごろで、こういう格好をしている男子はまず見かけない。
「いや、そんなに見つめられちゃ照れるなあ」
「見つめてないわよ!」
ほのかはつい怒鳴りつけて、視線をそらした。ちらっとのつもりで、しげしげと観察してしまったようだ。なんでよ、とほのかは、顔を熱くしてしまった自分を叱りつけた。
「ほのかちゃん、なんか悲しいことあったの? それとも、そんなにオレが嫌い?」
いちいちカンに障る男だ。
「そうよ、あたし、あなたみたいな軽薄な男って嫌い」
「そりゃ残念だ」
傷ついた様子も見せず、麗人は笑った。
「ちなみに、ほのかちゃんの好きなタイプってどんなの?」
「そりゃ、優しくて真面目で、あたしのことだけ大事にしてくれて……」
脳裏を横切るさっきの光景。だめだ、思い出しちゃ。ほのかは片手で唇を覆い、口ごもった。
「そうかぁ。確かにオレは駄目だなぁ。どの女の子もみんな大事だから」
あっけらかんと麗人は認めた。なんなのよこの男。ほのかはいっそう腹が立ってくる。
「ところで、家まででいいのかな? 何か用事だったの?」
「ちょっと散歩よ」
「いつもここ通るの?」
「まあ、通学路だしね」
「そうか、オレももうちょっとこの道チェックすることにしよう」
「なんでよ」
「決まってるじゃない、きみと仲良くなりたいから」
うわあ。ほのかは目まいがして、額をおさえた。これはひどい。聞きしに勝る女好きだ。
「気分悪いの? 大丈夫?」
「大丈夫よ。べつにあなたと仲良くならなくても差しさわりないし」
「オレの方があるんだよ」
「なんで」
「だって、こんなチャンス、なかなかないもの。ほのかちゃんのこともう少し知りたいし、オレのことも知ってほしいし」
「あなたのことならよくわかってます」
「そうかなあ」
「ナンパで女好きってことがわかってれば十分でしょ」
「ナンパはともかく女好きってのは、オレだけの特徴じゃないけどね。あ、ナンパもか」
「うるっさいわね、ああ言えばこう言う!」
「それが楽しいんじゃない、おしゃべりって」
ほのかは大きく息を吐き出した。麗人が一向に動じないどころか、いつのまにか自分の方が彼のペースに巻き込まれていることに気がついて、急激に疲れたのだ。憎たらしい。何か困らせてやりたい。
「ね、木坂くんはどんなコがタイプなの」
「うーん、カワイイ子はみんな好きだからなあ」
「じゃ、嫌いな子っていうのは、かわいくない子?そんな子に会ったことある?」
「ん、まあ、なくもないかな」
「たとえば?」
たとえばミサコとか。いつもひとりでぽつんとしている暗そうな女子を、ほのかは意地悪く思い浮かべる。ミサコは友人が少なそうで、ひとりでいることが多いが、無視や嫌がらせといったいじめに遭っているわけではない。いじめとかいうつもりではないが、正直なところほのかにとって、ミサコは気が合うとは思えない相手だった。挨拶とかちょっとした世間話くらいはしているつもりだけど、それじゃだめなのかしら。
けれどほのかが口に出す前に、麗人は軽く考え込んで、答えた。
「そうね、いじめとか仲間外れとか、そういうことをする子は、心がカワイイとはいえないよね。顔がかわいくても、もったいないと思う」
ほのかは唇だけをわずかに動かして、麗人を見やった。彼の表情はなんら変わらず、相変わらず微笑を浮かべている。具体的な個人名を出さなくてよかったと安堵する一方、この人けっこうシビアに見てるなあ、とも思う。
「だけど……どうしても、嫌いなコって、人生のどこかで必ず出会うわよ」
「そりゃそうでしょ」
麗人はくすっと笑って、明るく答えた。
「人間だもの。嫌いな人や合わない人は必ずいるさ。そう思うのは間違いじゃないし、生きているなら当然のことだよ。だけど、それを表に出さない、人としての礼儀を守るっていうのは、それこそ人間力の勝負、じゃないのかな」
「人間力?」
「まあ、なんて言うのが適当か知らないけど。誰しも、嫌いな人はいるよ。だけどいじめをしない人だっていくらでもいるもの。自分のあまりよくない感情をコントロールして周囲にまき散らさないって、大事なことだと思うけどな。そう言っても、オレなんかいくら取り繕っても下心が丸見えだって、よく言われるんだけどね」
麗人の笑い声がはじけた。ほのかははたと口をおさえた。つられて吹き出してしまったことに気づいたのだ。
やっぱりこいつ、油断できない。
「好みじゃない子って、内面の話なの? 見た目は? ミサコみたいな……」
話を戻そうとして、ついうっかりミサコの名前が口をついてしまった。あっと思ったが、麗人は深く解釈しなかったようだ。
「ミサコちゃん? きみのクラスの? ……そうね、うちの制服はあの子にはちょっと野暮ったいよね。もうちょっと明るい、ブラウスとかフレアスカートなんか着て、髪の毛を少し切るか、前髪上げると、びっくりするくらい似合うと思う。いっぺんデート誘ってみようかなあ」
麗人のにやけ顔に、ほのかは二の句が継げなかった。こいつはミサコを、そんなふうに見てるんだ。少し驚いたし、奇妙にほっとした気持ちもある。確かに軽薄な男だけど、セロファン並みのペラッペラ加減でもなさそうかな。ほのかは非常に勝手な判定を下した。
「ねえ、なんでそんなにナンパなの」
はじめて麗人は、軽く困惑した表情になった。
「なんでって、ねえ。性格かな。見るからに女の子大好きでしょ、オレ」
「まあね。……失恋したこと、ある?」
「数知れないよ。当然でしょ」
麗人に笑顔が戻った。
「オレね、別に恋愛感情がなくなってもいいの。女の子って、話してるだけでも、一緒にいるだけでも楽しいのよ。オレが声かけてる子、彼氏持ちもけっこういるよ。ぜひとも乗り換えてほしいとは思ってないよ。あ、でも乗り換えてくれたらやっぱ嬉しいな」
ほのかは靴を見下ろして、クスクス笑った。
「……木坂くん、ゴメン」
「んー?」
ほのかに合わせ、麗人も脚を止めた。
「八つ当たり、しちゃった」
「やつあたり? なになに?」
「……失恋しちゃったの、さっき」
「……そうなの?」
「うん」
ほのかにはひとつ上の学年に、片思いしている先輩がいた。入学してから一目ぼれして、ずっと目の端で追いかけていたけれど、話しかける勇気はまるっきりなかった。その先輩が、ある女子生徒と付き合っているという噂も聞いてはいた。木坂麗人に関する噂はある程度本当だと思う一方で、先輩の噂は信じたくなかった。そしてついさっき、たまたま見かけた。先輩と、例の女子が、私服姿で並んで歩いているのを。噂の通りだという説得力にあふれた様子で。
雨が降り出す直前のことだった。
「ゴメン」
なんで、こんなやつの前で。そう思ったが、もう止められなかった。ほのかはしゃがみこんだ。あのとき声にも出せずに抱え込んでしまったものが、あまりにも重くなりすぎていた。ぼろぼろと涙がこぼれて、止まらなかった。部屋に戻るまで我慢するはずだったのに、悔しさが嗚咽になってあふれてしまう。しゃくりあげて、ようやく涙腺も落ち着いて、ふと視線を上げると、間近に麗人の顔があった。麗人は自分もしゃがみこんで、傘を差しかけながら、ほのかが泣きやむのを待っていてくれたのだった。
「……ごめん、なさい」
ほのかが立つと、麗人も体を起こした。洒落た黒のハンカチを差し出してくれたが謝絶する。
「……雨、やんじゃったね」
しばらく歩いてからほのかは気が付いた。
「ここでいいよ。傘、いらなくなっちゃったし」
「ま、いいじゃないの。こんなところでほのかちゃん放り出せないよ」
麗人は傘を差したまま、ほのかの隣を歩き続けた。泣き顔が見られないようにと気をつかってくれているのかもしれない。ああ、こういうところがナンパ師なのかと、不意に納得がいった。
……ミサコ、ゴメン。あたし、ミサコにも八つ当たりしちゃったんだね。
「ありがと。うち、ここなの」
マンションの入り口を指して、ほのかは言った。なんとなく、もう少し一緒にいてほしい気持ちもあったが、それが麗人の術中なのだろう。
「そう、じゃ、ここで」
意外にあっさり、麗人は傘を閉じた。
「ごめんね、みっともないところ」
「とんでもない。またいい男に出会えるといいね」
「そんな気はしないわ」
「駄目だよ。いつか必ず出会えると思っていれば、出会えるものだから。ほのかちゃんカワイイもん。もう出会えないと思っていたら、本当にチャンス逃しちゃうよ」
麗人はにっこりと、歩き出しながら手を振った。
「それまでのつなぎのデートなら、いつでもお相手するよ」
「お断りします」
「まあそう言わずに。気が変わったらいつでも言ってね」
つい、ほのかは吹き出して、手を振り返した。
夕日が雨雲を追い払いはじめた。たそがれた光が、アスファルトにぶつかって、きらめきながらこぼれ落ちる。
なんて言うんだっけ。そう、通り雨。あの男には、ゲリラ豪雨よりも似合う呼び名かもしれない。
〇
「遅かったな」
言葉の割に怒った様子もなく、黒川
「ちょっと予定外のデートが入っちゃってね」
「なんだ」
あからさまに興味をなくした顔で、黒川はさっさとウーロン茶の缶を開ける。
「デートにしちゃ健全な時間に終わったな。食っちまわなくてよかったのか」
「女の子はね、心をつかむことの方が大事なんだよ」
「さいですか」
熱のない口調で応じた黒川に、麗人は急いで開けた紅茶の缶を差し出す。
こつん、と缶同士がぶつかり合った。
「では、始めますか」
「明日の昼飯、学食のAランチ杯、3本勝負な」
「よっしゃ!」
ふたりの男子高校生は、その日どの出来事よりも真剣な表情になり、座卓の両側に腰を下ろしたのだった。
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