日常乖離と、その現実性について

チャガマ

俯瞰風景

「なんの本を読んでいるの?」


 目の前に座る彼女が僕にそう聞く。彼女は大学で出会った先輩だ。いつも冷静で、それでいて柔らかい雰囲気を持っている。


 僕達はデートでカフェに来ていた。デートをしているのに本を読むなんて、普通の人が聞いたらあまり良い印象を持たいないだろうけど、僕達にとってはこれが普通だ。だから、注文したホットコーヒーが来るまでの間、僕は本を読んでいた。


「納屋を焼く」

「納屋を焼く?」

「そう。納屋を焼く」


 僕達は淡々とやりとりした。隣で財布の豊かそうなおばさま達が歳に似合わない甲高い声で話している。

 僕達の座っていた窓際の席には、陽光が微かに入り込んでいた。一筋の明かりが僕の開いている本の上で揺れ動いている。


「どうして納屋を焼くのかしら?」

「さぁね。僕にもわからない」


 僕のホットコーヒーと彼女のアイスカフェオレが運ばれてくる。若い女性店員はピクリとも頬を動かさず、すました顔で伝票を置いていった。


「じゃあ、どんな時に納屋を焼くと思う?」

「そもそも納屋を焼かない」

「仮に、よ」


 そこで、僕は初めて本を閉じて考えた。僕ならば、どんな時に納屋を焼くのか。


「その納屋を使わなくなった時、かな」

「え、普通」

「普通で結構だよ」


 そう言って僕は本を開いた。ホットコーヒーが湯気をたてている。まだ手をつけていない彼女のアイスカフェオレの氷が静かに音をたてた。

おばさん達は携帯を見せあって何やらはしゃいでいる。後ろではおじさんがカウンター席で眠っていた。


 僕の読んでいる小説の中では、登場人物が納屋を焼く理由を聞いているところだった。


「私なら」


 彼女が言って、アイスカフェオレに初めて口をつけた。


「退屈な時に納屋を焼くわ」

「刺激が欲しいの?」

「そうね。今にも納屋を焼きたいぐらい」


 僕は溜息をついて、本を閉じた。


「悪かった」

「近くに焼く納屋がなくて良かったね」

「本当に」


 そうは言ったけれど、僕達には話す事がなかった。僕が好きなものは本で、彼女が好きなものは僕にはわからなかった。好きなものがわかっていても、その話題をここで振るべきなのかは、きっとわからなかっただろう。

 もちろん、僕は彼女のことが好きだった。でも、僕は共通の話題がなければ話すことができない。だから、僕はいつも本を読んでいた。そうすれば、彼女が何を読んでいるのかを聞いてくれるから。


 僕は少し動揺したまま、彼女のカフェオレについていたガムシロップに手をつけた。


「ガムシロップって、何からできているんだろう?」

「さぁ、何だろうね」


 何かを確実に間違えたことだけはわかる。ただ、ガムシロップで会話をつなごうとした自分の事が、僕にはとても面白く思えた。特に話すこともないので、僕達はガムシロップの話を続ける。

 ガムシロップの原材料、起源、何故コーヒーとセットになっているのか……。たわいもない話だった。意味もない話。


 でも、不思議と僕達は楽しんでいた。こんな会話をしている僕達、を僕達は俯瞰して面白がった。今思えば、これもいつものことだ。


「それで、あなたはガムシロップを使う人なの?」

「いや、僕は使わない。コーヒーはブラックが好きなんだ」

「大人なのね」

「幸いにも、味覚だけはね」


 僕は麦酒が好きで、ビターチョコが好きで、雪印のミルクコーヒーが嫌いだった。

 そんなやり取りを二往復ほどして、僕達はまた黙ってしまった。手元に残っているのは飲みかけの冷めたコーヒーと、納屋を焼く本だけだ。


「納屋を焼く」

「どうしたの?」

「いや、納屋を焼くなら、どうやって焼きたいかなって」


 自分でもよくわからなかったが、隣のおばさん達が声をやや潜めて僕達の会話を聞いていそうなのが面白かった。後ろの寝ていたおじさんも眠るふりをして密かに耳を傾けているような気がした。彼女も恐らくそれに気がついていたのだろう。


「ガソリンとライターで焼くのかしら」

「え、普通だな」

「燃やし方なんて何でもいいわ」

「でも、僕は」


 僕は冷めたホットコーヒーを飲み干す。


「手榴弾で爆発させて焼いてみたい」

「焼く前に粉々ね」

「納屋は焼くより、破壊する方が性に合うよ」


 僕達は笑った。僕達は、僕達を笑ったし、僕達の会話を聞いているかもしれない周りの客達を笑った。おかしかった。全てがヘンテコでおかしかった。まるでドラマの撮影を急に始めてしまったかのようだ。


 その後の僕達に会話は必要なかった。周りの物事全てが面白おかしくなってしまったからだ。誰かが入っているトイレに入ろうとしている背の高い男性が現れるだけで面白かった。


 僕達は手を繋いで店を出た。そこから、僕達は変な話を一切しなかった。家に帰った頃にはガムシロップの話なんてちっともしなかったし、何故ガムシロップの話をしたのかさえ忘れていた。


 でも、彼女と居ると時々ガムシロップの事を思い出す。

 そして、僕達はまた変なことを話している、と感じる。

 すると、何もかもが、ヘンテコになって、僕達が僕達を覗いて、笑っているのだ。

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