第6話 雪の日のように
「――――――…………アデレードッ!」
「……んぅ?」
しぱしぱと瞬き、新妻アデレードは
部屋は明るく、眩しく、高貴な深紅は鮮やかで――そう、見えたのは、ベッドを覆い囲う天蓋だった。
日本の病院でもない、ハルスヴィードの邸宅でもない、この色は。
(あれ? ベッド……天蓋……? あれ? わたし)
ぎしり、と寝台の軋む音がして、着衣のセドリックが顔を覗かせる。彼の綺麗な青紫の瞳には、ひどい焦りの色が見てとれた。
アデレードは、いつのまにやら、大きなベッドの上に寝転んでいた。
彼女には触れないまま、目があうと、セドリックは表情をわずかにゆるめる。
「よかった……。気がつきましたか」
「?」
「返事が、なくて……っ、――いえ、すみません、取り乱してしまい」
今の表情もかっこいいなぁ、と。頭の片隅が、まだ微睡みながら惚気る。
彼に困った顔をさせるのは本意ではないのに、なぜだろう、身のほど知らずな愛おしさがあふれて止まらない。
彼との――とても幸せな夢を、見ていた、気がする。
「……あ、の……わたくし……?」
「身体を起こせますか、アデレード」
「は、はい」
おどおどと起き上がり、アデレードは辺りを見回す。夫婦の間は、彼とアデレードのふたりきりのようだった。
セドリックは白い夜着を纏っていて、アデレードも純白のナイトドレスを着ている。初夜の儀を控えた新郎新婦らしい恰好だ。ちゃんとしている。
「わ、わたくし……あの……あ……」
「アデレード、私を見て、ゆっくり呼吸してください」
「ん……」
言われた通りに、アデレードは数度、深呼吸をした。
彼女の痩せた胸はのんびりと動き、呼気の熱は遠慮がちにセドリックのもとまで届く。
緊張と困惑を映した真っ赤な瞳は、きらきらと、確かに生者の輝きをもっていた。
「……殿下……」
「…………もしや、おねむでいらっしゃるのでしょうか」
「えっ、と?」
ぐるぐる、もたもたと混乱の海から抜け出せないアデレードに、セドリックはどこまでも優しく声を掛けた。
「扉を叩いても返事がなく、失礼を承知で入りましたら、あなたがベッドの上に倒れていました」
「……まあ」
「まだ、指の一本も触れてはおりません」
「そうだったのですね……それで……」
ぼんやりとしていた頭が、だんだんと動きだす。自分の状況を理解していく。
アデレードは顔を蒼くした。
「あっ、も、申し訳ございません! 夫を迎えるべき妻が、ま、まさか、初夜に寝落ちを……っ!? ひ、ひとりで、先に寝てしまって……妻の務めを……あぁ……」
「結婚式でお疲れだったのでしょう。私こそ、長くお待たせしてしまい、すみません」
「殿下が謝られることではございませんッ!?」
思っていた以上に大きな声が出て、アデレードは我ながらびっくりする。
さくらんぼ色の瞳を動揺に彷徨わせ、ぱちぱちぱち、と瞬く彼女に、セドリックも驚いたような顔をした後、色っぽく囁いた。
「では、始められますか、アデレード」
「な……」
にを、とまでは口にしなかった。
何を始めるのかは、アデレードとて、聞かずとも分かっていた。
「あの……あぅ……」
頬や耳、首筋がカッと朱色を帯び、恐怖に支配されたわけでもないのに瞳が熱くなる。
前もって想像していた時より、アデレードは怯えていなかった。
でも、いざ、その時を前にすると、もう乙女でもないくせに恥じらいをおぼえてしまう。
まるで初心なふりをしているようで、自分では制御できない心の動きが憎くて、いたたまれない。
「アデレード。私の指に、触れられますか。お見合いの日のように」
「で、きます……きっと……」
「それでは、指や手から、触れあってみましょう。どうか無理はなさらず、ね」
ふたりの間を埋めるシーツの上に左手を置き、セドリックは「どうぞ」と小首を傾げた。
その顔の良さに、声の甘さに、アデレードはクラッとくる。思わず肩を揺らしてしまう。
「アデレード?」
「いえ、すみません、ふ、ふれます……」
「はい」
ちょんっ、と。アデレードはセドリックの薬指の爪に触れ、すぐに離した。
アデレードの爪より大きく、それでいて優美な、整った形をした爪だった。
「殿下の、御手は、大きい、ですね……それに綺麗で……」
「おや、褒めてくださるのですか?」
「あっ、つい、口走って……申し訳ございません……」
「私もあなたと喋りたいから、もっと褒めてくれてもいいのですよ?」
「……からかっているのですか?」
「可愛いですね」
「からかっているのですね……」
もう一度、と爪に触れてから。アデレードは、指の腹でセドリックの指を撫で、それから手の甲を撫でた。
アデレードの手よりは逞しい、でも、遠い記憶の中の兄の手よりは滑らかな夫の手。
「……殿下……」
「どうか、私の名前を呼んでくださいませ」
「セドリック様……?」
「はい、アデレード」
セドリックは、にっこりと嬉しそうに笑って。「ありがとう」とこぼす花の笑みに、アデレードはキュンとときめいた。心の中の小アデルも黄色い声を上げている。
「……口づけることは、できますか」
「セドリック様の、指、に?」
「ええ」
「してみます」
アデレードは、ドキドキと彼の手を持ち上げて――セドリックも彼女の動きに合わせて動いてくれて――その薬指に、ちゅう、ちうと口づけた。
「アデレード……怖くない?」
「はい、平気です」
「……で、は、そのまま、口に」
「このように?」
「――ッ」
指先を咥えてみると、セドリックが息を呑む気配を感じた。
はしたなかったかしら、いやらしかったかしら、とアデレードは恐る恐る、彼を見上げる。
「……?」
「……アデレード……アデル」
セドリックはどこか苦しげな顔をして、「よくできました」と子どもを褒めるように呟いた。
まだ、彼の方からは触れてこない。
「セドリック様……? やっぱりお嫌でしたか?」
つ、と細い銀糸をひいて、アデレードの唇とセドリックの指とが離れる。
「そもそも、わたくしなんて、触れるのも憚られるような穢――」
「いいえ。あなたは何も穢れていない。嫌ではない。……どきどきしました」
「……セドリック様も……どきどきするのですか? わたくし相手なのに? あっ、性病はないので……検査はしておりますので……そこは安心していただいて――」
「私がどきどきするのは、そういうことじゃない、アデレード」
「?」
本気で意味が分からず、アデレードは「???」と大きく首を傾げた。兄の前でするような甘えた仕草だが、本人に甘えた自覚はない。
彼女の中は、またもや『わからない』で満ちている。
「アデレード」
細く、細く息を吐き、セドリックはアデレードの顔を見つめた。彼女の白い睫毛に縁どられた赤の瞳が、真摯に彼を見つめ返す。
「はい……セドリック様」
「独りよがりの遠慮は却って失礼になると考えて、あなたに言いたい。よろしいですか」
「ど、どうぞ……?」
セドリックは、アデレードが咥えた指を口元へと持っていき、彼女の唾液を拭うように――いや、妻の涎蜜を味わうように、己の唇を指でなぞった。
しっとりと濡れた唇で、彼は告ぐ。
「あなたを優しく抱きしめたい。あなたの髪に触れて、甘やかしたい」
「……は、い……」
「私は、アデレードのことが、とても可愛い」
熱烈な視線で彼女を射抜きながらも、彼は、まだ、触れてこない。
「可愛いんですよ。アデレード。こうならなくても、ずっと、あなたが可愛くて仕方がなかった」
「ず、っと……?」
「はい。ずっと。アデレードは……初めてお会いした日のこと……覚えていますか」
今のアデレードなら、覚えている。初めて『セドリック様』を見た夢のことも、ゲームのことも。
初めて『彼』と出会った、この世界でのことも。
「えっと……わたくしが七つの時の……?」
「はい。私は十二でしたね。……もう、十三年になります。私たちが、出会ってから」
アデレードとサミュエル第二王子が婚約を交わしたのは、ふたりが七歳の時のことだった。
セドリック第一王子は、当時、十二歳で……一人目の婚約者を亡くしたばかりの頃だった。
(わたくしは……『アデレード・ハルスヴィード』は……ある意味、生贄、だった)
――十三年前。
サミュエル王子の相手選びと婚約は、兄王子の最初の婚約者の不審死をうけ、当初予定していた時期よりも幼い頃に行われた。
その裏事情について、ハルスヴィード侯爵夫妻はおそらく今も知らないが、転生者であったアデレードは当時から知っている。そのことは、セドリックも、きっと――
「…………あの話を、今、なさいますか、殿下」
「あなたが許してくださるのなら、願わくは」
ふたりの間に、きつく張りつめた沈黙が降りる。
夜着の白が、シーツの白が、ふたりを見守りながら煽った。
(殿下……セドリック様…………)
やがて静寂を壊したのは、アデレードの方だ。
こうすれば、きっと、伝わる。進める。そう信じて、彼女はベッドをぎしりと鳴らした。
「……ん」
彼の湿った唇に、自分の唇を、拙い仕草で押しつける。
「……っ、あ」
セドリックは小さく肩を震わせて、声を漏らして、ついにアデレードを抱きしめた。
「――っ、アデレード……」
「……いかがでしたか? 『敵』の唇の味は」
「もっと……欲しい……」
「…………どうぞ」
今度はセドリックから口づけて、ふたりはまた、ぎこちなく唇を重ねる。
「せどりっく、さま」
「好き、です。アデレード。――あなたのことが、好き」
セドリックは頬を真っ赤に染めて、ふにゃりと笑って、アデレードを大切そうに抱きしめて。
かつての、幼い時分の雪の日のように。ふかふかの白雪を纒って遊んだ日のように。
ふたりは、夫婦のベッドの上に倒れ込んだ。
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