第4話 お嫁にもらってくださいますか
どうしよう! どうしよう! と心の中で小さなアデレードが暴れている。
涙は忘却の彼方を旅しているのに、今すぐにでも泣きわめいて馬車の床を転がりたい。そう、小アデルがぎゃんぎゃん騒ぐ。呼吸が変になりはじめる。急降下。
(駄目、駄目、落ち着くのよ、アデレード)
あの事件に遭ってから、ときどき。アデレードの精神は、こうして幼子のようにもなってしまう。
彼女の大人の心に構わず、勝手に退行してしまう。泣けない体に子どもの心が押し込められたようで、頭の中もぐちゃぐちゃになる。
『――大丈夫だ、アデル。深呼吸して、ほら。いい子』
雑踏に放り込まれたような幻聴が響く、頭の中。
兄の声を思い出して、彼の手をとる想像をする。ゆっくり呼吸する。
ふぅー。はー。過呼吸にならないように、汗まみれにならないように。嘔吐しないように。
「アデル? 大丈夫?」
セドリック様に会う『今日のアデレード』が、これ以上みにくくならないように。
「……お、お母さま」
なんとか呼吸を整え、胸元を掴みすぎないようにと気を遣った手指を震わせながら、アデレードは泣きそうな声で母を呼ぶ。されど涙は一滴もこぼれない。
「うん? どこか苦しい? どうしたの?」
「今日のわたくし、ちゃんと可愛い? 綺麗? 変じゃない……?」
アデレードが自覚してしまった、大変なこと。
それは己の容貌の劣化だった。
セドリックとアデレードは、なにも、今日が『はじめまして』な訳ではない。
この世界でも、アデレードはセドリックに幾度となくお世話になっている。
かつては彼の弟王子の婚約者だったこともあり、顔を合わせる機会はそこそこあった。貴族学院にも一年は共に通っていた。彼が最上級の六年生、アデレードや弟王子が一年生だった時のことだ。
尊きセドリック様がアデレードなんかのことを記憶に留めてくれているかは分からないが、今より健康だった頃の彼女を見たことがあるのは確かである。
骨が浮き出た手に、痩せた胸。
その変化が、前世の闘病生活の記憶と被った。
せっかく結い上げてもらった髪を崩してはいけないのに、己の髪色を見たくなる。ここは異世界だと実感したくなる。
昔と比べられないかしら、失望されないかしらと、アデレードは久しぶりに乙女らしい心配をしていた。自分の容貌の変化に怯えていた。
(なんて、もう、乙女とは名乗れないのかしら。処女じゃないから……)
涙の流し方はやっぱり分からないまま、胸はツキツキと痛くなる。セドリックのことを考えると、胸が苦しい。この苦しみだけで死ねそうなくらいに。
(まあ、そんなふうには死ねないのだけれど。わたくしは『悪役令嬢アデレード』なのだから)
あの事件と婚約破棄の後からは、ぜんぜん考えることもなかった。むしろ頭から追いやっていた気もする、大好きなセドリック様。
父から縁談のことと彼の名を聞いた時、つい真っ先に『呪い』のことを考えて頷いた。自分の死ぬ時期を決めるために利用できると浅ましく考えた。
それなのに、こうしてお見合いの時が迫ってくると、前世の『彼』への恋心が息を吹き返したかのようになる。今世の想いとつぎはぎになって蘇ったかのようになる。
第二王子の妃となるべくして育てられていた時には、ただ焦がれて、憧れていただけのつもりだったのに。未来の義兄でしかなかったはずなのに。
いずれ断罪される悪役令嬢に転生したと分かっていても、だからこそ、ハルスヴィード侯爵家の娘としての責務を果たすために抗い続けていたのに。
(この世界の貴族の娘らしく生きて、育てられてきたのに。どうして今になって政略結婚の準備にときめいているの? わたしったら)
ドレスをくしゃくしゃにしてしまわぬよう、両の手を宙に浮かせる。まだ震えていて、手汗がひどい。じっとりしている。気持ち悪い。こんなふうに体液をべたべたにする自分は嫌いだ。
「大丈夫。とっても可愛くて綺麗よ。アデル」
「ほんとうに? とても可愛くて綺麗?」
「もちろんよ。お支度、よく頑張ったわね」
そうだ、アデレードは、とてもとても頑張ったのだ。急に上がったセドリックとの縁談のために、時間の無いなか、いっぱい頑張った。
屋敷の外にいる想像をしただけで嘔吐や過呼吸を起こしかねない体に鞭打って、どうにかこうにか、今ここにいる。
「うん……。頑張ったの……」
弱々しく頷くと、母の優しい声がした。
「アデル」
「はい、お母さま」
「お母さまは、アデルのことが大好きよ」
「わたくしも、お母さまがだいすきです」
母は清潔なハンカチーフを取り出し、アデレードにそっと手渡した。アデレードは汗に濡れた手を丁寧に拭い、ハンカチーフをぎゅっと握る。ドレスの身代わりになった薄布は、しわしわのくしゃくしゃになる。
「大丈夫よ、アデル」
「うん。おかあさま」
かた、かた、かた……。馬車が止まる。お城に着く。
***
ふたりのお見合いの会場は、王宮の奥まったところにある小さな部屋だった。
倒れないように、吐かないように、飛び降りないように……と心の中で唱えながら、アデレードは淑女の礼をする。我が母よりうんと若い女王陛下と、第一王子のセドリック殿下に。
(ちゃんと……、ここまで、こられた)
微笑みを目指した曖昧な表情を浮かべ、襲いくる吐き気やら何やらに耐えつつ。彼女はお行儀よくちんまりと椅子に座る。進んでいく話を理解できないままに頷く。
ちらりと見たセドリックの表情は美しく物憂げで、もう死んだはずの心もドキリとさせられた。やっぱり息を吹き返したのかもしれない。蘇ったのかもしれない。
こんなにも彼の近くにいられたのは、いつぶりのことだろうか。今は、それもわからない。どきどきする。明日や明後日なら分かるかもしれない。でも、日々、いっぱいのことが難しい。
「――じゃあ、アデル。気をつけてね。具合が悪くなったら、すぐに殿下に申し上げるか、倒れるかして。ひとりでどこかに行ってしまっては駄目よ」
「はい。お母さま。肝に銘じておきます。がんばってきます」
仰々しく母と分かれ、娘はお見合い相手と庭園に出る。あとはお若いおふたりで、の時間だ。
アデレードは手首に太幅の絹リボンを巻き付け、うんしょと結び、その端っこをセドリックに託した。
「では、よろしくお願いします、殿下」
「はい、ハルスヴィード嬢」
セドリックは恭しくリボンの端に触れ、指に巻き付け、人に触られるのが怖いアデレードに触れないエスコートをした。
ゆっくりと、のんびりと、犬と飼い主みたいに繋がって、ふたりは庭園を歩いていく。真面目に滑稽な姿をやっている。
「ハルスヴィード嬢、手首は痛くありませんか」
「へいきです」
「何かありましたら、すぐにお伝えくださいね」
「はい。ありがとうございます」
一国の王城ともなれば敷地は広く、ひとくちに王宮庭園と言っても、大小様々いろいろな趣のものがある。ふたりがいるのは、こぢんまりとした薔薇園だった。
(セドリック様、おやさしい。お花、きれい)
丁寧に枝葉を切り揃えられた生け垣に、異世界仕様のきらきら薔薇が咲いている。金の粉やお砂糖をまぶしたように煌めく深紅の花びらは、お祝いの苺ケーキみたいだった。
「殿下、薔薇が、きれいです」
「そうですね、ハルスヴィード嬢。きれいな花だ。香りもいい」
「でも、お花は、いつか散っちゃうから寂しい、です」
「人も儚いものです」
他でもないセドリックの唇からそう言われると、その意味は、より重かった。
「そうですね」
セドリックは、これまでに、のべ六人の婚約者を亡くしている。
六番目の『聖女』さえも彼の婚約者になった三日後には息絶えたことから、セドリックは今や他国からも『呪われた王子』と噂されていた。
そのうえ、この国の王子たちは、もう父母も亡くしている。今の女王は、彼らにとっては継母だ。
ウェズルファルドにおいては、若い子のみを遺して王が崩御した時、その妃が間を継ぐことになっている。王子が王に相応しくなるまでの繋ぎの女王。
二十五歳の第一王子であるセドリックがまだ国王ではなく、王太子でもなくなったのは、ひとえに彼を襲う『呪い』のせいだった。
前世で乙女ゲーム『呪いに抗って恋をする』をプレイしていたアデレードも、残念ながら攻略対象たちの『呪い』の黒幕は知らない。
『セドリック様』と『ヒロイン』が死の呪いを乗り越えて幸せになる姿は何度も見届けたが、全攻略対象とのエンディングを回収して黒幕に辿り着くところまではプレイできなかったからだ。欲と病に負けた。
「アデレード・ハルスヴィード侯爵令嬢」
「? はい」
あらたまった様子で、硬い声で名を呼ばれ。ぼんやりとゲームや呪いのことを振り返りつつ薔薇を眺めていたアデレードは、ゆっくりセドリックを見上げた。
彼の青紫の瞳は美しく、また何かを憂いている。
「ハルスヴィード嬢は、子どもは、欲しいのですか」
セドリックの言葉も、とてもゆっくりしていた。これは大事な話だ。
先ほどの両家顔合わせ会では話を理解できなかった、ほんわかと頭の弱いアデレードでも分かる。
「……欲しかったです」
これまで幾人もの婚約者を亡くしてきた、不躾者からは『婚約者殺し』とさえ言われる悲劇の王子と、悪事を重ねた挙句に暴漢に襲われて心を病んだ、まともな縁談を期待できない醜聞まみれの侯爵令嬢。
「失礼ながら、侯爵家から、もう長くないかもしれないと聞いています」
「ええ」
身も心も強張らなかった。淡々と頷けた。
この調子では、『アデレードお嬢さま』は、いつか衰弱してしまうか、未遂で終わらなくしてしまうか。
侍医の言葉に母や父は憤っていたけれど、その通りだ。アデレードは死んでしまう。それも自ら命を絶ってしまう。
だからこそ、選ばれた。もう長くない女だったから。
「先立つ不実をお許しくださいね」
「ハルスヴィード嬢」
どうせ妻を死なせてしまいそうな貴い男の血を残すため、どうせ死にそうな女を番わせてみる。
これは、そういう
ゲームの『セドリック様』は、アガコイの開始時点で、七人の婚約者や妻に先立たれた、という設定になっている。
アデレードが彼と結婚すれば、彼女は七番目、彼が看取る最後の女となる。
サカコイの終わりですでに死ぬことを決められたアデレードが、いつのまにやら、彼に嫁いでから死を選ぶ。とうに天へと召されてしまった六人は救えずとも、前作の悪役令嬢がひそかに続編の過去モブになれば、七人目の犠牲者を新たに生まずに済む。
それは、きっと、いいことだ。
「わたくしも、家族を、つくってみたかった……」
彼と繋がっていない手をお腹に添え、アデレードは呟く。嘘ではない。
前世から、花嫁に憧れていた。
子どもだって、欲しかった。
こんな身でも。
(わたくしの心が強ければ、この運命を変えられたのかしら。すべてはこの心の弱さのせいかしら)
アデレードだって、抗おうとした、逆らおうとした、でも無理だったからもう折れた。
『アデレード様、どうか――』
はて、あれは、誰だったか。もうひとりの馬鹿が。
運命に逆らおうとする誰かさんが居た気もするけれど、顔も名前も思い出せない。雑音混じりの声しかわからない。
あの婚約破棄の夜に、アデレードの心は決壊した。記憶もバラバラになった。
「……ード――ハルスヴィード嬢……大丈夫ですか」
「? なにか?」
まずい、ちょっと意識が飛んでいた。
ぱちぱち、とセドリックは二度の瞬きをし、温かい声で言う。
「気分はお悪くありませんか」
「へいきです。ありがとうございます」
「すみません、いきなり、子どもの話など」
「いえ、大事なことですから」
アデレード・ハルスヴィードは、いつのまにやら自害する。その運命はどうせ変わらない。
「殿下」
「はい、ハルスヴィード嬢」
「わたくしは、あなたの隣にいなくても、きっと死にます」
「……はい」
くい、と、ふたりを繋ぐリボンがわずかに引っぱられた。彼の中を渦巻く感情が伝わってくるようだった。
「わたくしが死ぬのは、あなたのせいではなく、わたくしのせいです」
半歩分、セドリックに近づいて。アデレードは深呼吸する。
「ぼんやりしているけれど、弱いわたくしだけれど、お嫁にもらってくださいますか」
「私で、いいのですか。私の妻に、なって、くれるのですか。あなたが」
「はい」
覚悟を決めた。
「この縁談、おうけします。セドリック殿下」
セドリックの銀の髪が、風に揺れる。薔薇が匂う。この香りは、嫌ではない。
「ありがとうございます。――アデレード」
あ、名前だけで呼んでもらえた。と。それだけで彼女の胸はときめいた。
リボンを伝い、恐る恐る、彼の左の薬指に触れてみる。
こんなどうしようもない女に、セドリックは笑ってくれた。
「幸せにします」
「はい、殿下――」
こうして、アデレードとセドリックは結婚することになった。
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