第2話 心はあの日に死んだのに、


 嫁入り支度の終わらない夏の始まり、アデレード・ハルスヴィードは病んでいた。


 支度は永遠に終わらないまま、先に命が尽きるのだとばかり。


(そうだ、今日なら)


 ふらり、どこか遠くにいきたくて飛ぶ。落ちる。


 これは――まだ彼のお嫁さんではなかったある日のこと。


 落ちる。

 落ち、

 る。


 ――心はあの日に死んだのに、どうしてこの心臓は今も動いているのだろう。


 わからなかった。アデレードには、もう、何も。


 いっそ、あの時に殺してくれていたら。思い出すたびに希う。


 アデレード・ハルスヴィードは、もう処女ではなかった。


 事の最中には、まだ死にたくないのとか助けてくださいとか許してくださいとかごめんなさいとか嫌とかやめてとか叫んだり泣いたり喘いだりしたのに、今では叫びも涙も何も出ない。


 もしかすると、この抵抗の記憶も妄想かもしれない。あるいは、ゲーム画面の中に見た場面絵や、よく知るシナリオから来る幻想なのかもしれない。


『――アデレードは、無様に犯され、心を壊してしまったそうだ。』


 声や涙を出して抵抗しながら辱められるのと、為す術もなくおとなしく暴かれるのとでは、どちらがより無様らしいだろう。


 貞操や純潔といった曖昧かつ絶対な資格も、侯爵家の娘としての矜持も、今のアデレードには無い。


 あとは死ぬだけ。

 このゲームのシナリオ通りに。

『いつのまにやら自害』するだけ。


 ああ、でも――まだ、死、ねなかった。



「アデル……っ!」

「…………ご、めん、なさい……お母さま……」


 屋敷のバルコニーから飛び降り、しかし今日も死ねなかったアデレードに、娘よりやつれた顔をした侯爵夫人が寄り添う。


 自分が落ちる先を見ようとすることもなく、誘われるように、数時間前に落ちたアデレードは生け垣の中へと突っ込んだ。


 結果、彼女は、細枝に肌をやわらかく裂かれ、引っ掻かれ、傷をつくっただけだった。今この瞬間までは、薬を飲まされて眠っていたのだった。


「……ごめん、なさい…………」


 ごめんなさいお父さま。ごめんなさい。

 ごめんなさい。ごめんなさいお母さま。

 ごめんなさいお兄さま。ごめんなさい。

 ごめんなさい。ごめんなさい。……


 最近のアデレードは、ごめんなさいとありがとうございますばかりを言う。

 まるでそれ以外の言葉を忘れたかのように。


 アデレードは、両親やきょうだいに愛されていた。

 彼女も、家族を愛し、敬っていた。


 アデレードは、侯爵家の次女だった。

 姉は隣国の皇太子に嫁いだ。


 アデレードは、母国の第二王子の婚約者だった。

 王子は彼女を嫌った。


 高慢ちきなお嬢さま。絵に描いたような悪女――アデレードは、自らの立ち居振る舞いゆえに恨まれ、憎まれ、どこぞの雇いの暴漢に襲われた。


 その後の婚約破棄も、断罪も、何もかも、前世でプレイしていた乙女ゲーム『運命に逆らう恋をする』のシナリオ通りに。


 ――どう藻掻いても、シナリオは変わらなかった。


 アデレード・ハルスヴィードには、前世の記憶がある。

 日本という国の平成の世を生き、大学生の時に不治の病だと診断され、二十代の半ばを越えることなく命を落とした。


 白い病床で彼女を慰めたのは、Web小説やスマホゲームだった。


 満足に恋もできず、憧れの結婚もできず、死んでいくだけの身となった前世の彼女は。

 ファンタジックな恋愛物語に救われた。


 けれど、そんな彼女の今世は、前世でプレイしていたゲームの悪役だった。


 これがWeb小説でよく見た転生ね、と冷静でいられたのは初めだけ。

 彼女はゲームの強制力に翻弄され、大きな力に心を無視され、物語どおりの悪虐な振る舞いと悲劇の展開を課せられた。


 家では彼女らしくいられた彼女も、社交界や学園では悪女に一転。その変貌っぷりを心配した両親は、アデレードを精神の医者に診させた。


 結果は、なんともなかった。


 遠方から幾人の名医を呼び寄せても、結果は異常なし。ただ、彼女の性格が悪いだけ。


 そういうことに、なっていた。


『――どんなアデルのことも、お母さまは大好きよ』

『アデルも、人間だ。思春期の女の子だ。複雑な気持ちを抱くこともあるよな。ああ、大丈夫だよ』

『もしも、万が一、おまえに何かあったら。俺が一緒に逃げてやってもいい。跡継ぎ問題なんて、どうとでもなるから。な?』

『お母さま。お父さま。お兄さま――』


 家族の温かさが救いだった。


 愛されている自覚があった。

 大切に育てられた記憶があった。


 だから、みんなの可愛い『アデレード』を、穢したくなどなかったのに。


 失敗した。

 シナリオ通りに乱暴された。


 彼女は、何から何まで、世界の理に抗えなかった。


 悪役令嬢のシナリオの最後の一文――『いつのまにやら自害していた。』


 この終わり方も、きっと変わらない。

 もう、頑張れない。


 ここまで来たら、もう無理だ。


 あとは死ぬだけ。

 そのうち終わるだけ。


 優しく悲しむ母の顔を見ると、男の人が怖くて顔も合わせられない父や兄からの手紙を読むと、揺らいでしまうけれど。


 ――もっと長く生きてあげたい。

 ――死にたい。

 ――生きていることが恥ずかしい。

 ――死にたい。

 ――死にたい。

 ――もっと、長く、みんなと、


 心はあの日に死んだのに、どうしてこの心臓は今も動いているのだろう。


 心はバラバラに壊れて戻らないのに、どうして呼吸できてしまうのだろう。


 いっそ殺してほしかった。


 死にたくないなんて願わなければよかった。


 殺されればよかった。


 もう殺して。


 殺して。殺して。


 でも、悪役令嬢の最期は『自害』と決まっている。

 アデレードは、自ら死ななければならない。


 それもまた運命だった。


(ああ、死にたい)


 悪役令嬢アデレードは、今日も願う。


 お薬のせいで動けないので、もう、今日は死ねない。動けない。


(明日は死ねるかな)


 そんな日々の繰り返し。繰り返し。繰り返し。


 この体は生きているのに、もう、これは生きているのか死んでいるのかよくわからない。


 ぜんぶ難しい。


(死にた――…………)


 

  ***



 夏の終わり、晩夏のある日。


(そうだ、今日なら――)


 前世の九月一日は自殺者の多い日だったので、アデレードも、今日なら死ねるかもと決行した。

 けれど、


「……アデル」


 今度は兄に見つかって死ねなかった。


「お兄さま……」


 誰かにバレた四度目の自殺未遂だった。


 部屋着の薄いドレスは血と水に濡れ、浴室の床にはナイフが転がっている。アデレードの痩せた左手首には、深い切り傷ができていた。


「アデル」


 彼女の心を殺す事件が起きたのは、貴族学院の卒業を間近にした今年の三月のこと。アデレードが屋敷に引きこもっている間に、季節は春から夏に化けていた。


 前世と違う植生に興味をもっていた彼女は、草花が好きだったはずなのに、今年の春は何も見た記憶がなかった。この夏は、飛び降りて死に損なった時に、異世界仕様の紫陽花や向日葵を見た。……たぶん。


 半年という月日は、死にたいと思いながら生きるにはとても長い。

 でも、何もできずに半年が過ぎたと思うと、その流れは速すぎる。


「お、おに、おにに」

「大丈夫だ。アデル。怖くないよ」

「に、に――」

「ゆっくりと息をして。……そう、上手だ」


 無駄に生き延びるだけで、何もできなかった六ヶ月だった、と。そう自らの脳裏に刻んだアデレードは、しかし、多少の変化を遂げていた。


 たとえば直近の変化なら、父や兄と面会できるようになった。家族の顔を見ただけなら、どこぞの悪い男の醜悪な顔を思い出さなくなった。


 もともとは、当たり前に会って話せていた彼らだ。健全だった頃と比べたら、なんとも悲しい状況。それでも、紛れもなく、これは今の彼女の進歩である。


「め、ごめ、ごめん、なさい。……また、わたくし、は」

「謝らなくていい。アデルは何も悪くないよ」


 触れあうことのできない愛しい兄は、震える彼女に優しく言う。さりげなく刃物を回収し、ただのアデレードのために跪く。


 かつて『未来の王子妃であるハルスヴィード侯爵令嬢』の護衛騎士に任じられていた彼は、彼女が攫われた事件の責任を負わされ、職をなくしていた。


 悪役令息エドワード・ハルスヴィードは、主人公ヒロインを穢す謀略に失敗し、手違いによって最愛の妹を暴漢に犯させてしまう――それはゲームのシナリオ通りの悲劇で、この世界でも『表向きには』そうなっている。


 アデレードは、純潔も、兄も、守れなかった。

 ふたりとも、シナリオ通りの『愚かな悪役兄妹』に堕ちてしまった。


『俺が何もしていないってことは、アデルがわかっていてくれたらそれでいい』

『でも、おまえを守れなかった責任は一生背負う』

『ごめんな、アデル。……愛してるよ』


 その日のエドワードは非番だったから、彼に責任などあるはずもないのに。彼は、すべての濡れ衣を着せられただけなのに。


(この世界を、大好きだったゲームを、わたしはどこまで嫌いになるの……?)


 前世の心を支えた大切も、今を生きる人生も、何もかも。


 世界を操るシナリオが、めちゃくちゃに壊してしまった。


「エディお兄さま……わたくし、もう……っ」


 どく、どく、と血の流れる手首が痛い。

 毎日、毎日、痛くて死にたい。ずっと苦しい。


「ごめんな、アデル。つらい思いをさせて、ごめん。本当にごめん……。でも、もうちょっとだけ――居てほしい」


 求めることは変わらないのに、兄は、もうアデレードに『生きて』とは言わない。


 彼女にとって『生きる』は地獄だと、優しい兄は気づいてしまったのだ。


「…………また、死のうとして、ごめんなさい……」


 兄は無言で頷き、近づくでもなく離れるでもなく、メイドや女医が来るまで妹を見守った。


 彼女は虚ろな目を天井へと向け、息をするように呟く。


「きたなくなって、ごめんなさ」

「アデルは、汚くない。今も、昔も、俺の可愛い妹だ」


 エドワードの力強い声が、血の匂う浴室に虚しく響いた。

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