死にたがりエンドの傷物悪女は不治の病と夫に嘘吐く

幽八花あかね

第1話 死ぬなら、幸せな瞬間に

 どうせ死ぬなら、幸せな瞬間に終わりたかったな――と。

 指先すら動かせなくなった、前世の最期に感じた虚しさが、ふと胸を揺らめいた。


(死にたくなかった)


 不治の病に侵され、ほろほろと自由を失い、命の灯が消える寸前。

 いつか、いっそ生まれてこなければよかったと悔いたはずの人生の終わりに、前世の彼女は馬鹿らしく願ったのだ。


(まだ、まだ、もっと――!)


 願えども、体は心を置いてゆく。心はむくろを通り抜けてゆく。生は終わり、尽きゆく。


 なんて――


(あの日、あの時、あんなことを願ったから……)


 そんな前世の死を回想し、今世の彼女は天に問う。


(二度目の人生が始まってしまったの?)


 そう、彼女は今、二度目の人生を送っていた。


 乙女ゲーム『運命に逆らう恋をする』に登場する悪役令嬢――アデレード・ハルスヴィードとしての人生を。



 ***



 王家の直轄地、森の奥にそびえる離宮。


 いばら姫が眠るお城のように、その宮は魔法の薔薇の木に囲まれていた。花の赤色は森で死した魔獣の血を啜ったからだと囁かれ、不届き者を刺す棘には毒が宿るとも噂される。


 宮に許されなければ入れないし出られない。病弱なお姫様や厄介な王子様を幽閉するにはうってつけの鳥籠。


 森に夜の帳が下りた時、宮はさらなる怪しさと妖しさを纏い――その内臓からギシギシと骨が軋むような音を立てたり、きゃあっとか、ぎゃあっとか、あんっとかいう不思議な腹の音を鳴らしたりする。森の離宮は、生ける建物だ。


 そこに住まう、生きた貴婦人。若き夫人。

 アデレード・ハルスヴィードも、夜中に変な音や声を聞いて眠れなくなることは度々あったのだが……。

 彼女は引っ越し前から幻覚の類に悩まされてきたので、あれやこれやは幽霊のせいなのか自分のせいなのか何なのか、いまいち分からない日々を過ごしていた。


 あの地獄の日から、彼女の何かは、麻痺したまま。目を覚まさない。時が止まったまま。ずたずたに破壊され尽くしたものは、元には戻らない。


「――アデレード? どうしました……?」


 ベッドの上で名を呼ばれ、ハッと我に返る。


「あ……」


 ふたつの宝石の瞳がアデレードを見、こぼれた長髪が彼女の肌をくすぐった。


 夕闇やタンザナイトのような青紫色の瞳。

 清らかな河のように輝く銀糸の髪。


 彼の銀の髪と、彼女の白い髪とがふわりと交わる。


 彼女に声を掛ける今日の男は、乙女の叫びを無視するいつかの暴漢幾人かではなく、妻を慈しむひとりの夫であった。


 彼の名は、セドリック。姓はない。

 このウェズルファルド王国の第一王子だ。


 とある事情により王太子の座を追われ、哀れにも『傷物悪女』をあてがわれ、こうして『幽霊屋敷』の離宮へと厄介払いをされている。


「あ……えっと……」


 アデレードはさくらんぼ色の瞳で彼の顔を見つめ、いや、見惚れ、もにゃもにゃと口ごもった。


 かれこれ一ヶ月は一緒に暮らしているのに、まだ慣れない。困っちゃうくらい、かっこいい。もう、生きている間に慣れることはないのかもしれない。


 一生ときめいていられるなら幸せだな、とも、最後まで好きなのは苦しいな、とも思う。


 柳の眉に、長い睫毛。すっと鼻筋が通っていて、唇の色形も良くて、いつもキスは優しくて……。キリッときらきら輝かしい。


(セドリック様は、お美しい……お綺麗……わたしとは違って)


 眩しさに抗うように目を細めても、ちょっぴりの涙に視界が揺らいでも。彼の美しい色は褪せずに彼女へ届き、前世で見た場面絵を脳裏に蘇らせた。


 前世の最期、最後に『彼との物語』をプレイした時から、二十年以上の月日が経っても。生まれ変わっても。

 スマホの温もりとともに感じたものが、まだ、彼女の中に残っている。


(不自由になっていく世界で、あの病室で、彼は、わたしの光だった)


 かつてスマートフォンの画面の中で見た二次元の彼が、同じ三次元のひととして現れ、生き、隣にいる――きっと彼らが日本に出現したのではなく、自分がゲーム世界の中に生まれ直したのだと分かってはいるが――それでも未だ夢のようだった。


(もしかすると……ほんとうに、とても長い、長い、夢なのかもしれない)


 痛みも、苦しみも、生々しく現実的だったけれど。こんな幸せは、まさに夢のようだから。


(叶うなら、彼と一緒の世界に骨を埋めたい。この世界に溺れたい……)


 視界の端に見える特徴的なミルク色の髪が、もしも黒髪に戻ってしまったら。もっと悪いことに、髪を失った病床の頃に戻ってしまったら。


 想像して、たまに怖くなる。


「もしや、傷が痛みますか?」

「え……っと、あ……、いえ、平気です」


 彼が憂いているのは、アデレードが『傷物』と呼ばれる所以になった破瓜の傷のことではない。


 彼女が処女を奪われ喪ったのは半年以上も前のことであるし、先月結婚した彼に抱かれるのも、今宵が二度目だ。


 銀の睫毛が伏せられ、青紫の瞳に影を落とす。彼は彼女の左胸の横にゆっくりと手を触れた。


 そこには、塞がったばかりの痛々しい傷の痕がある。


「……殺しておけばよかったかな」

「ご冗談を」


 セドリックが殺意を仄めかした相手は、アデレードではない。ふたりを襲った刺客のこと、のはずだ。

 ……たぶん。


 アデレードは、恐る恐る、彼の頬へと手を伸ばす。つ、と指先で触れ、ゆっくりゆっくりと撫でていく。ぎこちなく、でも、精いっぱいの愛おしさをこめて。


「ん……アデレード?」

「あなたが、手を汚されることはありません。返り血や涙に濡れる必要も、ありません。誰も……殺さないで」


 ――あなたは、続編ゲーム『呪いに抗って恋をする』の攻略対象だから。あなたは死ねない。

 ――わたしは、このゲーム『運命に逆らう恋をする』の悪役令嬢だから。わたしは殺されない。


 何をしたって、変わらないのだから。

 逆らえる運命など、悪役令嬢にはないのだから。


「お優しいのですね、アデレード。ああ、可愛い」


 セドリックは、言って、アデレードを優しく抱いた。


 そんな最中に妻が何を考えているのか、彼には知る由もない。


(――本気で愛されてはいけない。これから一年……いえ、十一ヶ月以内に……わたしは、死ななければならないのだから。彼の心に傷を残してはいけない)


 夫にも告げていない秘密だが。

 悪役令嬢アデレード・ハルスヴィードは、もうじき死を遂げる運命にある。

 病死でもなく、事故死でもなく、他殺でもなく――自殺によって。


(叶わない願いを抱くのは、やめなさい。アデレード)


 自らに言い聞かせる。もう無理なのだと。


 病には侵されていない今の人生でも、彼女の心は枯れてしまった。ゲームシナリオという名の強制力は、彼女をズタズタに壊した。


 アデレード・ハルスヴィードは、『自害』する。

 その末路も、絶対に、変わらないのだ。


「愛しています、アデレード――」


 今宵の彼女は、ベッドの上で、彼とのお見合いの日のことを思い出した。


 違う形で出会っていれば、なんて、どうしようもない妄想が脳裏を駆ける。



『――おうけします。セドリック殿下』


 あの日の答えが、彼女の死期を限定した。


 アデレードの死ぬ時を『いつのまにやら』から『一年以内』に決めたのは、彼女の意志と新たなゲームのシナリオだ。


 事件の半年後にもたらされた縁談。

 元婚約者の兄王子との結婚。


 七人の女に先立たれた過去をもつ、続編攻略対象ヒーロー――そのひとの、七番目の相手になることによって、


『ありがとうございます。アデレード』


 彼女は死ぬ。

 そう、死ぬのだ。




 ***




 一年後の世界に、彼女はいない。

 アデレード・ハルスヴィードは死を遂げた。


 ひどく幸福な結婚生活のなかで。


 愛する夫と、娘のそばで。


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