閑話 ボストン・テリア3

この世界で襲われないために何か対策がないかとトリンは医者に尋ねているが、ツガイをつくる以外に完璧な対策はない。

ツガイ持ちに手を出すのは犯罪だ。きちんと法律に定められていて、裁くことができる。けれど、ツガイを持たない者に対しては無理強いしないというあいまいな法律しかない。魅惑的な匂いは相性がいいことと同義だ。つまり同意を得ているとみなされる。襲われたとしても、匂いが嫌がっていないと主張されれば相手を批難することも難しい。


だが彼女はツガイを持ちたくないという。

反撃できる力のないトリンは、襲われたらなすすべがない。

医者が諭すけれど、彼女は小さく唸るだけだ。

まったく納得できないと渦巻く怒りの匂いとともに、伝わってくる。拳も強く握りしめて、必死で何かに耐えている。


一方的に奪われて、ありもしない淫乱という不名誉を押し付けられて、それでも誰にもすがらない彼女はどこまでも高潔だ。甘やかされた要素はどこにもない理知的な焦げ茶色の瞳の奥には不屈の怒りがある。なのに、彼女の匂いは本当に脳髄が痺れるほどに甘いのだ。


「わかった、俺が貴女を護ろう」

「え?」

「もとから今回の召喚には反対だった。異世界からツガイを連れてくるなど、誘拐ではないか。一方的に奪われて何一つとして望みが叶わないなどということがあってはならない。殿下も今は頭に血が上っているだけでいつかは気づくだろうが、それまでは俺が貴女を護る。だから、貴女は好きなことをするべきだ」

「番わなくてもいいの?」

「ツガイは無理強いしてなるものではないからな」


きっぱりと彼女に告げれば、シェットランドシープドックの方がひどく慌てている。


「将軍、いったい何を言い出したんだい!? 番わないで傍にいるなんて、かなりの拷問だろう」

「なぜ拷問なのよ?」


きょとんと医者に問う彼女は本当に可愛い。

誰かを可愛いと思う感情も初めての気持ちで、浮ついた気持ちがもっと大きくなった。

彼女は少しも理解できていないことが匂いでも伝わってくる。

だから、医者はしっかりとくぎをさした。

彼女に、というよりは自分に言い聞かせてくる。


「匂いのわからないトリンには絶対に理解できないだろうけれど、好みの匂いの傍にいれば発情する。ずっと飢餓感に苦しめられる地獄のようなものだ」

「問題ない。俺もツガイには興味がなかった。この年で独身で恋人もいないのがその証拠だろう」

「それは今まで匂いに反応しなかったからだろう。こんなにいい匂いが傍にいて、反応だってしっかりしているくせにやせ我慢するんじゃない」


やせ我慢であることはわかっている。医者が言うように、好みの匂いを感じたことのなかった頃ならいざ知らず、彼女の匂いや甘い声に反応してしまう今の自分に彼女を自分のツガイにできない辛さは想像するだけで困難であることは理解できる。

だが、自分の辛さがなんだというのだ。

先ほどから彼女から感じる匂いは苦しくてせつない。怒りもやるせなさも何もかもを飲み込んで耐えている。


「殿下たちを止めることができなかった。彼女を元の世界に帰すこともできず、辺境伯へと送られることも止められない。ならば、せめて好きなことくらいはさせてやりたい。それがなけなしの償いだ」


だが覚悟を決めた自分に対して、彼女は裸になれときっぱりと告げたのだった。

さすがに断りたいがそんな空気でもない。

そういえば最初から洗いたいと言われていた。

それほどに自分を犯罪者にしたいのだろうか。医者がいる前で襲って欲しいのかと思うけれど、彼女の感情は少しもそんな匂いはない。むしろ使命感に燃えている。

本当に、純粋に仕事なのだろう。


というか、仕事が好きなのだなと諦める。

諦めながら裸になるのもなんか違うと思うのだけれど。


だが、彼女に髪も体も洗われてしまった。すっかり、きっちりと。

態度や表情には絶対に出ていないと思うけれど、彼女が息もかかるほど近くにいる。そして体を撫でてくれる。うっとりするほど心地よい力で筋肉をもみほぐすようにほぐしてくれる。

これでどうして興奮せずにいられるというのか。


だがそれをあっさりとばらそうとする医者には湯をかけて黙らせた。

彼女が警戒したらどうしてくれる。

触れるだけで、理性を吹っ飛ばしそうなほどに興奮する変態だと思われたら、今後は一緒にいてくれないかもしれない。


想像するだけで絶望的な気持ちになった。


とにかく、魅惑的な匂いに甘い声に、なにより魔法のような手をもって天国を見せてくれるトリンの傍を離れることなど決してないとだけ心に誓うのだった。

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