閑話 ボストン・テリア1

「どういうことだ、この娘が私のツガイだと?」

「で、殿下……これは何かの間違いでは?」

「だが、魔法陣に出現した」

「し、召喚の失敗はしていませんぞ! 失敗すれば、誰も現れないはずですからっ」


魔法陣が描かれた床に座りこんでいるトリンを囲むように見下ろしているシベリアンハスキーとダックスフント、パグが顔を突き合わせるように話している。それぞれこのハウンダーヴォ国の王太子、宰相補佐官、魔導士長だ。

五十年に一度の祭事である王太子のツガイとなるトリンを召喚するために、地下の召喚の間に集められている。自分だって、この国の将軍職についてはいて、それなりの地位がある。ただ、戦争で生きて帰ってきただけであるという運の良さも相まっているだけだという思いもあるので、地位をひけらかすような振る舞いはできないけれど。


喧々囂々言い合う三人をよそに召喚されたトリンは静かに周囲を見回している。

艶やかな黒髪を後ろに一つで結わえて、こげ茶色の瞳をひどく理知的だ。自分たちより背は低いけれど、子供というほど小さくはない。けれど、小柄の部類には入るだろう。成体であることは間違いがなさそうだ。

文献には混乱し泣き叫ぶとあったけれど、冷静に状況を見極めようとしているようにも見えた。だが彼女からの蠱惑的な匂いは、茫然としている感情も伝えてくる。


しかし、彼女にまとわりつく複数の匂いは強烈だ。

そのおかげで、目の前の三人はとても混乱していて、混沌とした状況を生み出している。

これまで召喚されたトリンが、淫乱だったことはない。


彼女についている匂いは本当に雑多で、何人も相手にしていることは簡単にわかる。この世界では複数の相手をする者にはクズだと見なされるので、さすがに彼女を王太子の相手とするわけにはいかない。


「まさか仕事のしすぎで、寝落ちしたの?」


トリンがぽつりと言葉を落とすと、その場の全員が口を閉ざした。

先ほどまで言い争っていた三人が、不自然なほどにぴたりと静かになる。


「お、お前は、異なる世界から来たのか?」


王太子が恐る恐る声をかけているが、かなりの覚悟を必要としている。必死さが匂いから伝わってくる。


「異なる世界?」

「ここはハウンダーヴォ国、私は王太子だ」

「え、シベリアンハスキーなのに、王太子? ハウンダー? はわかんないけど、そういう設定なのね。よくできた夢だわ」

「夢ではなく、お前は私のツガイとしてこの国に召喚されたのだ」

「はあ?」

「言葉は通じるのに国の名前も知らない、王太子と聞いても無礼な態度を改めることもない――やはり、文献通りではないか?」

「ですが、この娘は……」

「ああ、外れだ。これほど複数の者を侍らしている淫乱が私の唯一のツガイのはずはない」


喉の奥で唸り声を上げながら、苦々しげに王太子は告げる。

彼女の匂いはとても蠱惑的で、惹かれる。だというのに、すでに複数を相手にしていてとても自分のツガイと呼べない。そんな苦渋の葛藤が王太子の匂いからは発せられている。

だが、トリンは目の色を変えて、怒りをあらわにした。


「はべ? 淫乱?! ちょっと待って、どういうこと――?」

「不愉快だ、どこへなりとも連れていけ」

「これほどの淫乱ならば、西の辺境伯のもとへ送り込んではいかがです。十八番目の愛人に毛色の変わった娘を差し出してみれば、喜ばれるかもしれませんよ」

「そうだな、好き者どうし気が合うだろう。準備をしろ、契約条項の書き換えは済んでいるか?」

「ええっ!?少々お待ちください、これがあれだから、それがそれで――」


王太子に命じられて魔導士長は用意していた魔法陣を慌てて修正している。本来ならば、王太子との婚姻のためのものだが、相手を書き換えるとなると時間がかかるのだろう。だが苛立った王太子に急かされて魔導士長の肩が震えた。


「早くしろ!」

「ひえっ、はい、これでよろしいかと……」


魔道士長が差し出した魔法陣を王太子は引ったくるように奪って、トリンに突き出すように掲げた。


「この者との婚姻を認める」

「はあ?」


返事をしなければいいのだが、トリンは声をあげた。魔法陣が光って消えたのを確認して、さすがに焦る。契約成立だ。


「二度と、私の目の前に現れるなよ。顔を見せるな」

「ちょ、何を勝手なことを――っ」


王太子の言葉を受けてすかさず言い返そうとしたトリンの腕を思わず掴む。

言い放った瞬間に、王太子からは激しく後悔している匂いがしているが、匂いに疎いトリンには伝わらないらしい。この場ではきっと売り言葉に買い言葉で、状況は悪くなるに違いない。王太子は潔癖ではあるが、どちらかといえば情に厚い。異世界から自分だけのトリン――救聖女を召喚したのだから、大切にしたいと零していた。今はすでに複数を相手にするような淫乱なトリンが相手だったことが衝撃でまっとうに思考が働いていないだけだろう。落ち着いて冷静になればまた考えが変わるかもしれない。

だが、その前に宰相補佐の提案で、辺境伯との婚姻が成立している。この国では婚姻は家の継承であってツガイほど優先されるものではないが、王太子が他家とつながりのあるトリンを囲うのはさすがに外聞が悪い。

彼女の状況が悪化する前に、さっさと離させたほうが双方にとって有益だ。


「い、痛っ」


召喚の間から連れ出せば、掴んだトリンから声を上げられる。かくいう自分もあまり冷静ではない。非力なトリン相手に力を入れすぎていたことを反省して指の力を緩める。けれど、離すわけにはいかない。

匂いから混乱していることはわかる。彼女も落ち着ける場所をと考えて、長い廊下を無言で手を引いて連れていく。


「待ってって、こんのバカ力! 痛いってばっ」


文句を言われると不思議ということを聞きたくなる。彼女の蠱惑的な匂いと甘い声には従いたくなるのだ。それどころか、今すぐに跪いて撫でてもらいたい。彼女に甘えられるなら何をしてもいい。

いや、おかしい。これまで三十年間生きてきて、こんな感情を抱いたことは一度もない。ツガイになりたいなんておこがましいことは言わない。ただ傍にいられるだけで満足だ。いややはり時折触れてほしい。彼女の指が自分に触れるところを想像するだけで、下半身がぞくりと疼く。


自分はいつからこんな変態になり下がったんだ!?


救聖女のための部屋へと連れてこられて、ほっとする。

椅子に座らせれば、トリンはこれみよがしに掴んだ腕をさすっている。だが彼女からは疑いの匂いしかしない。それほど痛くはなかったのだろう。

だが強く混乱している匂いはする。だから、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。


「かつて王族のツガイを召喚した際に、やってきた娘の話が文献としてまとめられていた。混乱し夢だと叫び、泣き喚いて元の世界に返せと暴れて大変だったそうだ。現実が受け入れられるまでは、しばらく滞在できるように部屋を与えられている。貴女の場合は、辺境伯との婚姻が契約として成立してしまった。すぐに辺境伯の元へ送られるかもしれないが」


王太子が婚姻を結ばせたくせに、撤回することはあるだろうか。

後悔をあれほど匂わせていたけれど、やはり彼女は辺境伯のもとへ送られる可能性が高い。なにより婚姻は魔法契約である。破れば、彼女自身の安全が脅かされる。

では自分はどうだろう。ただ辺境伯に嫁ぐ彼女を見送ることしかできないのか。


「婚姻?」

「あの場で婚姻契約書の魔法にかけられている。本来は王太子と結ぶ筈だったものだが、相手が辺境伯に書き換えられている。逃げることは契約違反で最大級の罰は死だ。軽くても五体満足でいられることの方が少ない」

「了承なんてしてないわよっ」

「返事をしただろう、何を答えようとそれで了承と捉えられる」

「何よそれ……」


茫然とした彼女から思わず目を伏せる。だが近づく気配に視線を戻せば、トリンがたおやかな腕を伸ばして、そっと自分の頬を両手で挟んだ。

そうしてまじまじと見つめてくる。なぜか目の上の傷をじっと見つめている。


「小泉さんちのアルファくん」

「は?」

「この目の上の傷、どうしたの」

「傷?」


右目のこめかみに抉れたような古傷は確かにある。


「これは訓練時に剣の柄が当たって――」

「ボストンテリアは病気になりやすいの。鼻の上の皺の間に皮脂や涙がたまっていないかチェックして、皮膚炎になっていないかも見極める。肌の状態を確認してから、体質にあったシャンプーを選んで……」

「は?」

「余計な老廃物はしっかりとシャンプーで洗ってあげること。歯磨きも大事。うん、口の中は綺麗だね」

「あが?」


トリンは少しも躊躇することなく口角を上げて歯の状態を確認すると、小さく頷いた。


「シャンプーできる環境はここにはないのかしら。とにかく洗ってあげる。気候は過ごしやすいみたいだけれど、だいぶ肌が荒れてるわ」

「ま、待ってくれ。俺を洗う!?」


触ってほしいとは思ったが、体を洗われるなど冗談ではない。

ツガイ相手ならまだしも、なんの関係もないトリンにそんなことをすれば立派な犯罪者だ。露出狂でもあるまいし、常識を疑われる。


「病気を見過ごすことはしないわ。トリマーはなにもカットして整えるだけが仕事じゃないの。もちろん治療は獣医にお任せするけれど。というか、医者はいるのよね?」


だが鬼気迫る様子で怒涛のように話すトリンの瞳はとにかく据わっていたことだけは間違いなかった。

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