序章 

序章

トリマーの美生は都心にある小さなペットサロンで働いている。

店長と同僚は三人のこじんまりとした職場は、わきあいあいとしていて人間関係で困ったことはなかった。

店長の次にベテランになる先輩の林、その次に美生だ。立場的には頼りになる先輩と慕ってくれる可愛い後輩に囲まれている中堅という位置ではあるが、板挟みになったりしたことはない。友人たちによく聞く職場の嫌がらせや働く環境に文句はなく、どちらかといえばのびのびとやらせてもらっていた。


そんな職場の繁忙期は夏前の暑くなる前の頃だ。

毛をカットして少しでも涼しくなるために、やってくるペットたちでサロンの予約は満杯。時間外営業をして働いている。深夜の帰宅もしばしばで、時には早朝勤務も入る。はっきり言って激務だ。それでも好きなことを仕事にしているので、毎日は充実している。


時刻は夜の8時になる少し前。

壁にかかっている時計を眺めて、美生は休憩室にやってきた後輩の本条にお茶を淹れた。


「お疲れ様、チム君もすっかり慣れたね」

「お疲れ様です、ありがとうございます。最初は愛嬌はあるけど興奮しちゃって大変でしたけどね。よくわからないところで攻撃されたりしましたっけ。今はすっかり可愛いこですよ」


本条はお茶を一口飲んで、にっこりと笑う。

7時に予約の入っていたアメリカン・コッカー・スパニエルのチムは、人懐っこくて知らない場所や人にも物おじしない社交的な子だけれど、とにかく好奇心旺盛でじっとしていることが苦手だ。最初は林がサポートに入って本条と二人係でカットしていた。今ではすっかりスイニングカットに慣れた本条が上手に対応している。


「美生先輩は8時過ぎに予約入ってましたよね」

「うん、佐藤さんちのミリンちゃんだね。鋏の音を怖がるから、バリカン用意

しとかなきゃ。さっきも使ったやつの掃除をまだしてなかったな」

「今日だけで5頭もカットしてましたけど、大丈夫ですか? 先輩、今日20日連勤だって言ってませんでしたっけ」

「私、体力だけはあるからね!」


腕まくりしてこぶしをつくるふりをすれば、本条が明るく笑う。


「さすがペットバカ仕事バカの先輩らしい。私ももっと体力つけよっと。先輩は大型犬担当してすっごく体力使うのに、ほんと凄いですよね。でもこの前の騒動みたいなのは勘弁してくださいよ」

「あはは、ごめんー」


美生は以前に25日連勤をして電池が切れたように意識を失ったことがある。

子供が電池切れして突然寝落ちするように職場で眠りこけて丸1日まったく目を覚まさなかったのだ。目覚めたら職場ではなく見知らぬ天井を見上げていたときの衝撃は計り知れない。本気で何が起きたのかわからなかった。そこが病院のベッドの上だと後で教えられても理解できなかった。

救急車まで呼ばれてしまったが、たんなる睡眠不足だとわかって、方々に叱られた。病院からは林ともども叱られたのだ。


「優しいこが多いから、それほど体力は使わないよ。だから、まだまだ大丈夫」

「それは先輩だからですよ! どんな狂暴な子だって、先輩の前では可愛い子になり下がって。飼い主さんだっていつもすごく驚いているじゃないですか」

「そうかな?」


確かに本条が言うように、ここにくるペットたちは一様に大人しい。とくに美生が担当する大型犬たちは賢いこが多いと思う。

無駄に吠えたり威嚇したり暴れたりしない。

飼い主たちが皆驚くほどだ。


「おーい、美生。ミリンちゃんが来店してるぞ」

「あ、今向かいます」


休憩室に顔を出した店長が、美生を手招きした。

それに返事をして腰にまきつける仕事道具が一式入ったポーチを掴んで、一歩足を踏み出した途端に、かくんと地面が無くなった。


「へ?」

「え、先輩!?」

「おい、美生っ」


焦った二人の声を聴きながら、なぜか美生は真っ黒な穴の底へと落ちていた。

え、あの店の床が抜けたの?

なんて欠陥住宅!と憤ったところまでははっきりと記憶に残っている。


目を開けた時に、いろんな犬種に囲まれた途端にあ、夢かと確信したのだった。

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