現在① 憎悪、そして暗躍 弐

 その夜、自宅マンションに戻った由利恵は、ベッドに寝そべったまま、ぼんやりとペンダントを見つめていました。

「これが、強い力を持っているですって・・・?」

そうつぶやいた次の瞬間、

「馬鹿馬鹿しい。ただのペンダントじゃないの」

ペンダントをテーブルの上に放り投げました。

「最近、開運グッズとか多いものね、パワーストーンとか。全く、そんな物で願いが叶うなら誰も苦労しないわよ。もっとも、それを少しでも本気にした私も、どうかしてるわよね・・・」

 自嘲気味にそう言いながら、由利恵はそのペンダントを、もう一度手にとりました。良く見ると、黒いメダルの表面には模様が彫り込まれています。文字のようにも見えるその模様が、メダル全体を埋め尽くしていました。中心にある赤い宝石が、部屋の照明を反射しいるのか、淡く光っているように見えます。

「デザインは、悪くないわよね?ちょっと着けてみようかしら」

 由利恵はペンダントを着け、鏡の前に立ってみました。

「ふうん。割と良いじゃない。こんな物をただでもらえるなんて、得をしたと言うべきかしら?」

 その時です。

(・・・)

「えっ?」

どこからか声が聞こえました。由利恵は思わず周りを見回しましたが、もちろん誰もいません。

「気のせいかしら?」

(違うわ)

「えっ!?」

気のせいなどではなく、今度ははっきりと声が聞こえました。

(私の声が聞こえる?)

「だ、誰!?どこにいるの!?」

(鏡を見なさい)

「え・・・?きゃあ!!」

 由利恵は恐怖の叫びを上げました。何故なら、鏡の中の自分が、こちらを見ていたからです。

「な、なに・・・?」

(浮かれている場合じゃないでしょう?何のために、そのペンダントを与えられたと思っているの?)

「何のためって・・・」

(憎い相手を殺すためでしょう?そのための力じゃない)

 由利恵は、怯えながらも鏡の中の自分にこう反論しました。

「確かに、あいつらは憎いわ・・・。でも、まさか、本当に殺すなんて・・・」

 由利恵は、鮎美と琴子を心から憎み、軽蔑しきっています。しかし、本当に殺して良いとは流石に思いませんでした。

「私は良く、冷たい女だと言われるし、それは本当だと思う。けど、人を殺して良いなんて思ってないわ・・・」

(・・・・・・)

「それに、そんな事、許されるはずが・・・」

鏡の中の由利恵はため息をつきました。

(あなた、それで良いの?)

「え・・・?」

(あなたの憎しみって、その程度なの?)

「・・・・・・」

(あなたの失ったものは、そんなに小さいものなの?)

「それは・・・」

(忘れたの!?あなたは仕事だけでなく、最愛の男性まで奪われたのよ!!) 

「!!」

 その言葉に、由利恵は激しく動揺しました。

(祐樹はあなたを捨てて、他の女の元に走ったんじゃないの!!)

由利恵は呆然となり、その場に座り込みます。そして、彼女の脳裏に、その時の事が、嫌でも思い出されるのでした・・・。


 学校から去ったその日の夜、由利恵は、自宅マンションにいました。彼女は何をするでもなく、ベッドに横になっています。

その時です。携帯電話に着信がありました。着信音から、その相手が誰なのかすぐに分かった由利恵は、喜び勇んで電話に出ました。

「もしもし、祐樹!?」

『・・・そうだよ・・・』

 電話の相手は男性で、由利恵の問いに静かにそう答えました。

男性の名は『大久保祐樹』。彼は優秀なビジネスマンで、由利恵の恋人でもあります。彼の声を聞いた瞬間、由利恵は思わず涙ぐんでいました。冷徹な由利恵も、さすがに今日の事で傷心していたので、恋人からの電話はとても嬉しいものだったのです。

「今、あなたの声が聞きたいと思っていた所なの・・・」

『僕も、君に聞きたい事があって電話したんだ・・・』

「なに?聞きたい事って・・・」

『う・・・うん・・・』

 祐樹は、由利恵とは全く正反対の性格をしていて、優しく、思いやりにあふれ、穏やかな性格をしています。彼は学生時代にラグビーをやっていて、好きな言葉は『一人はみんなのために。みんなは一人のために』でした(もっとも、由利恵はそれを、きれい事と一笑にふしていましたが・・・)。

 そんな彼でしたが、深く由利恵を愛し、大切にしてくれました。電話から聞こえる彼の口調にも、それが表れています。しかし、今は何故か、その声に陰りを感じて、由利恵は少し不安を覚えました。

「ど、どうしたの?何か言って・・・」

 祐樹以外には見せないしおらしさで、由利恵は懇願しました。それでも、祐樹はなかなか言葉を発してくれません。彼は、何か話すのをためらっているようです。

 やがて、祐樹は意を決したのか、こう切り出しました。

『君のクラスの生徒は、やはりイジメを受けていたそうだね・・・?』

「え?」

『それに、君はそれを無視していたそうじゃないか・・・』

由利恵は息をのみました。

『どう言う事なんだ?僕が聞いていたのと、話しが違うじゃないか・・・』

 自分のクラスの生徒が自殺未遂を起こした例の問題を、由利恵は「イジメではなく、家庭内の問題や、将来への不安に因るもの」だと、祐樹に説明をしていました。

由利恵もやはり一人の女性。恋人には嫌われたくない一心で、このような嘘をついていたのです。そしてそれを、祐樹は何の疑いも無く信じ、問題の解決のために尽力しているであろう恋人の身を、心から案じてくれていました。

「な、何を言っているの?」

由利恵は、この期におよんで、まだ嘘をつき通そうとしました。

「一体、何の事・・・?」

『今日、テレビを見ていたら、君の事を話していたよ・・・』

「!」

『ずいぶん、ひどい事を言われていた。君を教師失格、いや、人間失格だって・・・』

「う・・・」

『でも、そう言われても仕方ないんじゃないか?』

「え・・・?」

『生徒を守るべき君が、逆に見捨てるようなまねをすれば、非難されるに決まっているだろう?』

 祐樹の声は震えていました。それが怒りによるものか、それとも悲しみによるものかは分かりません。しかし、恋人のそんな声を初めて聞いた由利恵は、

「ごめんなさい・・・。私、あなたに嘘をついていたわ・・・。そうよ、テレビで言っていた事は、多分、全部本当よ・・・」

観念して、事実を語ろうと決心しました。

 由利恵は、今までの経緯を祐樹に話しました。イジメがあった事。それを考えがあって黙認した事。でも、結局は誰もそれを理解してくれなかった事。ですが、彼女は祐樹にだけは自分を理解してもらいたいと思っていました。

「所詮、この世は弱肉強食よ」

『それは、そうかもしれないけど・・・』

「だから、私は私なりに、その子が自力で解決してくれると期待していたのよ・・・」

 鮎美や琴子に言っていた事とは、話の内容が微妙に違っています。本来、由利恵はほとんどの生徒に期待などしてはいません。本心では、全ての生徒は、学校と言う小さな世界を構成するための『取り換えのきく部品』としか思っていませんでした。由利恵がここで『期待』と、心にも無い言葉を使ったのは、自分が生徒想いの教師なのだと、祐樹にアピールしたいからです。

『そう、なのかい・・・?』

 その事に祐樹は気付かず、納得しかねるようでしたが、真剣に由利恵の話しを聞いています。それに安堵した由利恵は、よせば良いのに、傲慢としか言いようの無い持論を語り始めました。

「私の期待に答えられず、自分に降りかかった火の粉を、自らの手で振り払えないあの子がいけないのよ。そんな事では、これからますます悪くなっていくこの世を、生き抜く事は出来ないわ」

『え・・・?』

「あの子が自殺を図ったのも、その弱さが原因なのに、どうして私が・・・」

『もう良い・・・』

由利恵の話を遮るように、祐樹はそう言いました。その声は、まるで苦痛に耐えているかのように、重く聞こえました。

「え・・・!?」

『もう良い。良く分かったよ。君は・・・』

「祐樹?」

『君は、教師失格だ』

「!」

思いもかけない恋人の言葉に、由利恵は絶句しました。

『よく、そんな事が言えるな。君は生徒の・・・人の命を、一体何だと思っているんだ!?』

 祐樹は叫び、その声は由利恵の心を落雷のように打ちました。

「ち・・・違うの・・・。そうじゃ、なくて・・・」

今さらながら、由利恵は自分の迂闊さを悔やみました。

『何が違うって言うんだ?君は本当なら、その生徒を守らなくちゃいけないんだ!!』

「あなたまで・・・燻士と同じ事を言うの・・・?」

『燻士?あぁ、君と仲の悪い先生の事か。その人の方が、正しいじゃないか』

「!!」

『その人の方が、立派な教師だよ』

「・・・・・・」

『その人の、せめて半分でも、生徒を大切にする心を君に持ってもらいたかった・・・』

「祐樹・・・私は・・・!」

 すがる様な気持で、由利恵は言葉を続けようとしましたが、またも祐樹の言葉によって遮られてしまいます。そしてそれは、決定的な言葉でした。

『別れよう・・・』

 由利恵は、頭の中が真っ白になりました。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

『僕は・・・君の事を心から・・・』

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

『だからこそ・・・君を、許せそうにない・・・』

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 由利恵は、放心したようになって、祐樹の言葉を聞いています。

『・・・さよなら・・・』

 そして、電話は一方的に切られてしまいました。それから数分後、由利恵はベッドに突っ伏すと、涙が枯れ果てるまで、号泣したのでした・・・。

 その後、由利恵はマスコミの追及を逃れるため、そして、傷心を癒すために、海外旅行に出かけました。旅行先のホテルで、友人とメールのやり取りをしていた時です。日本では、例の騒ぎはもう治まったと言われ、由利恵はとりあえず安心しました。しかし、次に送られてきたメ―ルの内容に、彼女は激しく心乱されました。

 何故ならその友人は、尋ねられてもいないのに、祐樹の事を報せてきたからです。

「せっかく、忘れようとしているのに・・・」

それでも、やはり気になって、由利恵はメールを読んでしまいます。そこには、祐樹に新しい恋人が出来たと書いてありました。

「な・・・何ですって・・・!?」

 驚愕する由利恵は、しかしメールを読むのを止める事が出来ません。頭では止めたいと思っても、目が文章を追ってしまうのです。

 メールには、祐樹が同じ会社の年上の女―嘉山雪子と言うらしい―と交際していて、しかも、その女はバツイチの子持ちだとありました。休日にはその女の子供を連れて、三人で遊びに行っているらしく、その姿はまるで、本当の家族のようだったと書いてあります。

「バツイチの子持ち・・・?何でそんな女と・・・!?」

 ショックを隠しきれない由利恵でしたが、さらに読み進めていくと、驚きが怒りへと変わりました。そこには、二人が付き合いだしたのは、由利恵が日本を発ってすぐだったと書いてあったのです。

「何よ、私と別れておきながら・・・!?」

怒りのために、由利恵は目眩をおこしました。

「祐樹・・・。それが、恋人だった私に対する仕打ちなの・・・?私は・・・私はそんな罰を受けなければならないほど、悪い女なの!?」

 由利恵は号泣しました。いつまでも、いつまでも・・・。

彼女は傷心を癒すどころか、更なる心の傷を負いながら、数日後、帰国したのでした・・・。


(どう?思い出した?)

 鏡の中の自分に声をかけられ、由利恵は我に返りました。顔に手をやると、いつの間にか、涙を流しています。

「あぁ、祐樹・・・。どうして、どうしてなの・・・?」

(ひどいわよねぇ。あんなに愛し合ったはずなのに。あなたと別れたすぐ後に、他の女と付き合いだすなんて)

 言葉は同情的ではありますが、鏡の中の由利恵の顔には、嘲るような笑みが浮かんでいます。

(あなた、随分とバカにされたものねぇ)

「いやぁ・・・」

(きっと今頃、彼はその女と仲良くしているんでしょうねぇ)

「やめて・・・」

由利恵は両手で耳をふさぎましたが、それでも、自分を嘲笑う声は聞こえてきました。

(そして、二人であなたを笑っているのかも・・・)

「やめてよぉ!」

(もしかして、あなたと別れたのは、本当はその女と付き合うためだったのかもね)

「やめてって言ってるでしょう!!」

由利恵は叫びました。

「そんなはずない・・・。そんなはずが・・・」

力無くつぶやく由利恵に、鏡の中の由利恵は容赦なくこう言いました。

(でも、それが現実よ)

「・・・・・・」

(あなたは軽蔑され、疎まれ、排除された)

「・・・・・・」

(もう、あなたの味方は一人もいない。全ての人間は敵なのよ)

「敵・・・?」

 由利恵は顔を上げました。その顔は憔悴しきったように生気がありません。対する鏡の中の由利恵は、悪意のこもった笑みを、その顔に浮かべています。

(そうよ。人は所詮、自分が一番可愛いの!口ではきれい事を言いながら、本当は他人なんてどうでも良い。自分さえ良ければそれで良いと思っているのよ!)

「・・・・・・」

(それなら、あなたが自分の心の赴くまま行動したって良いじゃない?何を遠慮する事があるの?)

「・・・・・・」

(殺しなさい!自分の心の赴くままに!!)

「でも・・・そんな事が出来るはずが・・・」

(だから、そのための力だと言っているでしょう?ペンダントの力を身にまとえば、恐れる物は何ひとつ無くなるわ)

 鏡の中の由利恵は、より一層、邪悪な笑みを浮かべました。

「身にまとうって、どうやるの・・・?」

(簡単な事よ。ただ、呪文を唱えるだけ)

「呪文・・・?」

(嘘だと思うなら、私の後に付いて言いなさい。『・・・・・・』ってね)

「えぇ。『・・・・・・』唱えたわ・・・えっ!?きゃあぁ!!」

 呪文を唱えた途端、ペンダントから黒い触手のような物がほとばしりました。そしてそれは、由利恵の体に巻き付いていきます。

「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 由利恵は混乱と恐怖の叫びを上げました。

「助けて・・・助けて祐樹・・・」

 最後に弱々しい声でそう言うと、由利恵の意識は、深い闇の中へと沈んで行きました・・・。


 仕事帰りの若い女性が、帰宅するために夜道を歩いています。彼女は携帯で、自分の幼い娘と話しをしていました。

「他の人の仕事を手伝っていたら遅くなっちゃって。ごめんね、先におばあちゃんとご飯食べちゃってね」

『ううん。ママが帰ってくるまで、あたし待ってる』

「でも、おなかペコペコでしょ?」

『でも待ってる。だって、ママと食べたいんだもん!』

「分かったわ。すぐ帰るから待っててね」

『うん!あ、それとね』

「なあに?」

『ゆうきおじさんは、今度はいつ来てくれるの?』

「祐樹さんなら、次の日曜日に来てくれるって」

『本当?わーい!』

「さやかちゃんは、祐樹さんが好きねぇ」

『うん!ゆうきおじさんだーい好き!だって、優しくて、かっこいいもん!』

女性はくすりと笑いました。

「祐樹さんも、さやかちゃんの事、大好きだって言ってたわよ」

『それじゃ、ママとあたしはライバルだね』

「こら!変な事を言うんじゃないの」

『あはは!ママ照れてる~』

「もう、違うわよ。それじゃさやかちゃん、またあとでね」

『うん。気をつけてね、ママ』

 携帯を切ると、「まったくもう」と言いながら、女性―嘉山雪子―は優しい笑みを浮かべました。

 やがて、雪子は人気の無い橋の上を通りかかりました。そのまま、何気なく川を見下ろした時です。

「あら?」

 暗い水面に、何か黒い物体が浮いているのを発見しました。最初は大きなゴミか何かだと思ったのですが、それはゆらゆらと動いたかと思うと、急に「バシャッ!!」と音を立てて川の中へ沈んでしまいました。

「なにあれ?今、動いていたわよね?それに、沈む時に見えたのは、尻尾みたいだったわ・・・」

雪子はじっと水面を見つめます。

「やだ・・・。もしかして、飼われていたワニでも逃げたのかしら?」

「違うわよ」

「は?」

後ろから声をかけられて、雪子は振り返ります。

そこには、整った顔に陰鬱な表情を浮かべた、見知らぬ女性が立っていました。

「・・・あの、どちら様ですか・・・?」

雪子の質問には答えず、逆に、

「嘉山・・・雪子さんですね・・・?」

と、その女性は尋ねてきました。

「え?はい、そうですが・・・」

 そう答えながら、雪子は、

(こんな人、知り合いにいたかしら?)

と、首を傾げました。

 その女性は、由利恵でした。お互いに面識が無いはずなのに、何故か、由利恵だけは雪子の事を知っているようです。

「そう・・・。あなたが・・・」

「あの、失礼ですがどちら様でしょうか?」

「・・・・・・」

「あの・・・?」

 何も答えないこの見知らぬ女性に、雪子は、何か不気味な物を感じました。しかもそれだけではなく、自分に射るような視線を送ってくるこの女性に、雪子は危険な何かを感じ始めていました。

「あの、用が無いなら、私はこれで・・・」

雪子が数メートルほど歩を進めた時、再び由利恵は口を開きました。

「あなたがさっき見たのは・・・」

「え?」

「もしかして、これかしら?」

「あ・・・あなた、さっきから何を言って・・・!」

そう言って雪子が振り返ったその瞬間、

ザクゥゥゥゥゥ!!

彼女の体は、何か鋭い物に刺し貫かれていました。

「・・・・・・?」

 最初、雪子は自分の身に何が起きたのか、理解する事が出来ませんでした。しかし次の瞬間、激痛が彼女を襲います。

「う、うぐぅ!?」

 呻き声を上げて、雪子はその場にくずおれました。腹部に目をやると、黒い、槍のような物が突き刺さっています。

「これは・・・?」

「ふふん。バカな女・・・」

 声のする方に目を向けるとそこには、

「あ、あぁ・・・!ば、化け物・・・!!」

ワニとも、トカゲともつかない怪物が、赤く光る目でこちらを見ていたのです。

「私の恋人を奪った上に、化け物呼ばわりするなんて・・・。ホント、失礼な女ね」

 くぐもった声で怪物は笑うと、雪子に刺さっていた槍のような物―それは、長さ10メートル程もある尻尾でした―を、勢い良く引き抜きました。その行為はさらなる激痛を雪子に与え、彼女は目をかっと見開くと、口から大量の血を吐き出し、腹部と背中の傷口からも血が噴出しました。

 薄れ行く意識の中で、雪子は愛する娘の笑顔を思い出していました。

(帰らなくちゃ・・・。さやかが、おなかをすかせて、待っているんだから・・・)

 雪子は立ち上がろうとしました。しかし、もはやピクリとも動く事は出来ません。ただ、唇だけがかすかに「さやか」と動き、そして、それきり動かなくなりました・・・。

「悪く思わないでね。悪いのは、人の恋人を奪ったあなたなんだから」

 絶命した哀れな雪子を、驚いた事に、怪物は後ろ脚で立ち上がって見下ろしています。そして、怪物の口が、雪子を嘲笑うように大きく開かれるとそこには、

「くっくっくっ・・・」

邪悪に歪んだ、由利恵の顔があったのです。

 血の臭いが広まって行く中、怪物と化した由利恵は、いつまでも冷酷に笑い続けていました・・・。


 嘉山雪子が殺害されてから、二週間がたちました。

 警察は、被害者の財布がそのままだった事から、犯人は通り魔か、怨みを持った者の犯行と断定。さらに、数ヶ月前にトンネル内で起きた女子中学生殺害事件(潤が犠牲になった事件)との関連も、合わせて調べていました。

 しかし、どちらの事件も目撃者がおらず、また、二人の被害者の間に接点が無い事、犯人の物と思われる遺留品が発見されていない事、そして、殺害方法が一致しない事などから、捜査は難航しているようでした。

 当初は世間を騒がせていたこの事件も、時が経つ内にいつしか忘れ去られ、最近では関係者と付近の住民を除いては、誰の口にもその話題が出る事はありませんでした。

 そんなある日の事、アリスと鮎美は、いつものように一緒に下校していました。

「ねえ、アッちゃん!今日も私の家によっていく?」

「う~ん。今日はパス!」

「え~、どうしてぇ?今晩はアッちゃんの大好きなサバ味噌にしようと思ってるのに~」

 すねたようにそう言う鮎美に、アリスは苦笑しました。

「こらこら、勝手に私の好物を決めるんじゃないの!まぁ、確かに、あんたの作る料理はどれも美味しいけどさ。でも・・・」

「?」

「今日はちょっと、体の調子が・・・ね」

「あ・・・」

 アリスの言葉に、鮎美は思わず自分の口を押さえていました。何故なら・・・。

 地の底深く、あるいは、別の次元の中に人知れず存在していると言われている、人外の世界『魔界』。その魔界の中でも、最大の勢力を誇っているのが、アリスの祖国である『邪竜王国バイン』。その国の、美しくも恐ろしい女王の名は『ファフネー・バイン』。彼女は、アリスの母でもあります。

 女王ファフネーは、金髪に白い肌、金色の瞳をした美女ですが、その正体は黒い翼を持つ邪竜でした。彼女は、千年前に起きた大きな戦い『バイン戦役』において、苦難の末に最後は勝利者となり、そのまま女王となりました。そして、圧倒的な力と冷酷さ、そしてカリスマ性によって、バイン国に現在まで君臨し続けています。

 そんなファフネーも、かつて一度だけ、心から人を愛した事がありました。その相手は、ジムと言う名の心優しい人間の青年でした。彼は、ファフネーを残して死んでしまいましたが、二人の間にはアリスが産まれました。

 人間と邪竜の混血児であるアリスは、人間離れした身体能力と生命力を合わせ持っていますが、ただ一つ、弱点と言える物があります。それは、太陽の光でした。

 もともと、魔界の住人は程度の差こそありますが、太陽の光を苦手としています。それはアリスも例外では無く、彼女の場合、ある程度の耐性はあるものの、長く日光を浴び続けるとダメージが蓄積し、やがて『発作』を起こしてしまうのです。

 以前なら、毎晩のように発作を起こしていたアリスですが、一度体を休めるために魔界に帰った事と、そして何よりも、最愛の少女、鮎美と一緒にいられる幸福感からか、最近では発作が起きない日が多くなっていました。それでも、時には発作が襲って来る日があり、そして今日あたり、アリスはその発作が起きるような気がしていました。

「だからさ、残念だけど、今日はやめとくよ・・・」

「うん、仕方ないよね・・・。でも、大丈夫?」

 鮎美は、アリスが発作を起こす事を知っていますし、その場に居合わせた事もあります。その時のアリスは、苦しそうに呻きながらも、自身が何か、別の者に変わってしまうのを、必死に抑えているように感じました。

「大丈夫!そんなに心配しないで」

「心配しちゃうよぉ!それに私、アッちゃんが苦しんでるのに、何もしてあげられない・・・」

「鮎美・・・」

いつしか、鮎美の目には涙がにじんでいました。

「ねぇ、アッちゃんの体は治す事はできないの?」

「う~ん。病気じゃなくて、体質だからね」

「そう、なんだ・・・」

 鮎美は、悲しそうな顔をしてうつむいてしまいました。それを見ていたアリスはくすっと笑うと、

「元気出しなさいよ、鮎美らしくないわね!私は、あんたの笑顔が好きなんだからね。私が心配なら、笑って励ましてよ!」

そう言って、鮎美の頭を撫でました。

「まったくもう、アッちゃんたら、子供扱いしないでよ」

と、唇を尖らせる鮎美でしたが、すぐに笑顔になりました。

「そうそう、それで良いの。あんたは、笑顔が一番似合ってるよ!」

そして、二人は声を上げて笑うのでした。

「あ!アッちゃん見て。お花がいっぱい咲いてるよ!」

「本当だ、きれいだね~」

二人の歩く先には公園があり、そこには花壇があります。

「アッちゃん、行ってみようよ」

「うん」

 アリスと鮎美は、手をつないで公園へと向かうのでした。


第四話完 第五話に続く

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