悔いなき人生を

西山鷹志

第1話 離婚届

主な登場人物

浅井(あさい)洋輔(ようすけ)、60才 妻早苗(さなえ)56歳(旧姓野沢)長男孝之(たかゆき)28歳 長女香織(かおり)26歳 洋輔の隠し子、大輔(だいすけ)17歳 斎藤(さいとう)幸造(こうぞぅ)(漁師) 久留米(くるめ)陽子(ようこ)(孝之の婚約者)


悔いなき人生を

  

 時は東京スカイツリーが建設中で既に高さ三九八メーターまでになり、第一展望台が出来上がった二千十年七月頃。開業まではあと一年半先の二千十二年になると言う。


 男と女ってどうして、こうも人生観が違うのだろうか? 俺の名は浅井洋輔 六十才になって今回ほど思い知らされた事はなかった。

 俺はやはり古い人間なのだろうか、それとも世の中が変わり過ぎたのだろうか?

 俗に云う団塊世代の人間、それが今の俺に当て嵌まる。

 もう俺は社会に貢献出来ない企業戦士なのか、老兵は黙って消え去るのみ……か。

 

 俺は半年前に定年を向かえ、多くの社員から惜しまれて退職した。と、自分では自負しているが退職した今は確かめようもない。もしかしたら『小うるさい奴が退職して、せいせいした』そう思っているかも知れない。いや余計な詮索はよそう、少なくても会社に貢献したのだから。他人がどう思うがそう思っている。

 自分でもやり遂げた自負があった。退職時の役職は常務まで上り詰めたが本来なら嘱託で残れる筈だった。しかし世の中は不況の波に晒され、状況から見ても自ら身を引くしかなかった。


 大学を卒業して直ぐに今の会社に就職、そしてキッチリ定年の六十才まで勤め上げ三十八年の歳月が過ぎた。その間に恋愛もしたし結婚もして子供も二人にも恵まれた。既に住宅ローンも終わっている。

 その子供達も独立し、今では妻の早苗と二人きりの生活となった。

 これからは自分の為、妻の為、旅行に趣味に没頭出来ると思い込んでいた。

 悠々自適とまでは行かなくても、俺の人生はそう悪くないと思い込んでいた矢先の事だった。

 あの温厚な早苗がいつでもなく、厳しい表情を浮かべ俺に話があると切り出した。

 住み慣れた十畳の畳の和室のテーブルの中央に一枚の紙が置かれてあった。それは離婚届の用紙であった。既に妻の早苗が署名欄には既に署名捺印が押されてあった。


 俺は眼が飛び出るほど驚き、その用紙と早苗の顔を交互に眺める。

 これはテレビドラマか? それとも冗談なのか? だがどちらでもなかった。

 今まで見た事もない表情を浮かべ早苗の顔は青ざめ覚悟を決めた顔をしている。俺は早苗と結婚してから三十年間の生活を数秒の間に思い浮かべていた。

 やっぱり俺も、巷で囁かれる家庭を省みなかった企業戦士の一人だったのだろうか。今更、早苗になんて言い訳すれ良いのだろう。恐らく今の妻にどんな弁解がましい事を言っても無駄だろう。早苗の顔はそう物語っている。


 なんと云う事だ。これが企業戦士として三十八年働いて来た結果なのだろろうか。

「今の君に何を言っても無駄だろうね。結局三十年一緒に暮らしても、君の事が何も分かっていなかった俺だ。もう夫としての資格はないだろうね。最後に三十年間ありがとう」

 早苗の性格は知り尽くしている。だから引き留めることは出来なかった。何故だ、どうして? 未練がましい事を言っても無駄だろう。

 会社に貢献しても妻には貢献出来なかった。家族の為に身を犠牲して働いて来たと言った処で自己満足でしかない。もはや潔く妻を送り出してやる事が最後の優しさだ。

 早苗は目に涙を浮かべ、俺が署名捺印するのを食い入るように見ている。やがて離婚届を受け取り部屋から出て行き、別の部屋で旅行用カバンになにやら詰めているらしい。その日の夕方には家を出て行った。そして最後の言葉が


「長い間ありがとうございました。貴方も残りの人生を楽しんでください」

 俺はそれに対して何も答えなかった。だが残りの人世をどう楽しめと言うのか。

早苗が家を出て間もなく張りつめていた心が折れた。俺はワインを取り出し瓶のまま一気飲みした。何て様だろうか、情けなくて泣けて来た。数ヵ月後、俺は財産を整理して子供達にも事情を話し、家を売り払い東京スカイツリーが見える小さなアパートへ引っ越した。家と土地を売り払ったのだから大金は残っているが、離婚すれば財産分与が待っている。そして浅井家も滅んでゆくのか……妻を失い半分の財産も失い初老の男に他に何が残っているのだ。


 子供達はそれぞれ独立し、別な所に住んでいるが二人共もまだ独身、今さら子供達を心配しなくても立派な大人。俺達の離婚についてとやかく言わなかったが、離婚しても親子関係は変わらないからと言う。

 これから一人旅に出ようと思っている。幸福とは何かそんなものがあったら、また出会えるなら人生も捨てたものじゃないだろう。今は良く捉えるなら肩の荷が降りた感じもする。でも人生はこれからだ。何も弱気になる事はない。俺は第二の人生を歩く、そしてまた新しい生活を築くさ、出来ない事はない俺は古い人間だが企業戦士だもの。


つづく


 

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