開けてしまった密室

飯田太朗

一、化学部と園芸部

化学部 SIDE麻生花純

 県立時宗院じしゅういん高校は、神奈川県公立高校の雄として名をはせている。東京大学には毎年二桁単位で入学するし、その他にも国公立なら京都大学、一橋大学、その他旧帝大。私立だと早慶、他中堅私立は固い、そんな学校だった。だから夏休みの夏期講習や冬休みの冬期講習の辺りも手厚いサポートをしてくれるし、自習室は冷暖房完備で使い放題、図書室にだって自習机が大量にある、そんなガチガチの進学校だった。

 そういう学校にありがちなのが、校則が緩く「生徒の自主性を重んじる」という名の下無法地帯が展開されること。我が時宗院高校もその例にもれず、学年一位の秀才が金髪頭の不良もどきだったり、女子も制服の白シャツをピンクやブルーに置き換えたりと、やりたい放題だった。一応制服、というか時宗院高校で言うところの「標準服」について規定はあって、男子は学ランに黒ズボン。女子は黒か紺のプリーツスカートに白シャツ、ハイソックスということになっている。もっともただの「標準」なので着崩している人はたくさんいる。先生の感覚としても、朝会や全校集会といったオフィシャルな場面でのみ標準を守ってくれればそれでいいという考え方のようだ。

 ただ勉強に優れている反面部活はどうしても弱く、部活動で青春を味わうには少し物足りない。どの部も皆不完全燃焼気味である。

 そんな生徒たちによって考案されたのが兼部制度だった。一人で複数の部活に所属できる。私は化学部一本だけど、友達には家庭部とダンス部を兼部していたり、サッカー部とフットサル部を兼部したりしている。映画研究部なんかは兼部人気ナンバーワンだ。

 勉強はガチガチだけど、その他は自由。そんな高校が、時宗院高校。


 夏休みは忙しい。

 特に、私たち時宗院生にとっては。

 突き刺すような日差しの下、日傘を傾け気温を確かめる。学校の敷地に入ってすぐ広がる、日差しを受けたコンクリートが、太陽の熱を反射し、足を、靴の中を、じりじりと熱する。こんなの堪ったもんじゃない。すぐにセミナーハウスに入らないと。私は鉄でできているんじゃないかというくらい熱いローファーをせっせと動かして日陰を目指した。こんな酷暑の中練習をする外部活の人たちは、きっと何か違う生き物に違いない。

「DMSO、入ったぞ」

 午前十時からの化学の夏期講習が終わった後、担当の島田先生に呼び出された私は、その場で飛び上がりそうなほど喜んだ。DMSO! 別名ジメチルスルホキシド! 

「やった! これで生物部と共同で……!」

「お前なぁ。細胞の培養研究なんて大学でやるような内容だぞ」

 島田先生は呆れている。私は両手を前で結ぶと丁寧に返した。

「それについてはもう話したじゃないですか、先生」

「東京大学のオープンキャンパスでそういう実験についての言及があったんだろ? だからって自分たちでやろうとするかな、普通……」

 これだから時宗院生は。と島田先生はため息をついた。まぁ、先生は最近この高校に赴任してきたばかりだから、私たちの無茶苦茶ぶりについていけないのも分かる。

 細胞の培養研究。文字通り、細胞片を培養してその観察を行う実験だ。ここで重要になるのが「細胞が増えたことをどうやって確認するか?」である。そこで登場するのがさっきのDMSOこと、ジメチルスルホキシドだ。

 ジメチルスルホキシドは細胞への透過性が非常に高い薬品である。早い話、塗り薬みたいに塗れば細胞壁を透過して、細胞の中に成分が浸透する。このジメチルスルホキシドに紫色の染料を溶かし、細胞を浸すことで細胞に色をつける。培養実験を行った後、この色がついた細胞の数を数え、実験前より増えていれば成功。そんな研究。

 私たち化学部は、この研究を生物部と共同で行うことになっていた。別に動物の細胞の取り扱いについて生物部が強かったから、というわけではなく、シンプルにこの研究に興味を示したのが、私の友達の加佐見かさみ典代のりよちゃんだった、というだけのことだ。彼女は私と一緒に東京大学のオープンキャンパスに行き、私と同じく感銘を受けた。そうして一緒にあの時聞いた研究を再現してみようと思い立ち、この実験に至ったわけである。

「薬品庫に搬入されたんですか?」

「ああ、十時頃に。今日の夏期講習は何時までだ?」

「三時です! あ、でもお昼休みに見に行っていいですか?」

「いいけど、扱いには注意が必要だから勝手にいじるなよ。お前らのその研究だって俺が立ち会うっていう条件でOK出たんだからな」

「はい! 気をつけます!」

 私はその場でぴょんぴょん跳ねそうになるのを我慢して、次の英語の講習を受けに行った。過去完了形に関する問題集を解く回だったのだけれど、頭の中が外の地面みたいに熱くなって集中できなかった。

 だから二十問中十二問、間違えた。いつもなら間違えないような内容。しっかりしなくちゃ。二年生の夏。受験はもう少し先だけど、準備は早いに越したことはない。

 講習が終わると、私は教科書や問題集を抱えて廊下に出た。お昼休み。お弁当を食べて、それから薬品庫に行かなきゃ。


花純かすみ、嬉しそうな顔してるね」

「頼んでいた薬品が届いたの」

 私はにっこり応える。

「実験ができそうで」

「前話してたやつ? やったじゃん」

 と、私の正面に座っていたゆかりが、気だるげに微笑む。

「花純ずっとやりたがってたもんね」

 学校の食堂で。金髪ロングの縁が、三百円のペペロンチーノをフォークでくるくる巻きながらため息をつく。

「あたしさぁ、最近頼彦よりひことうまくいってなくて……」

 頼彦こと加川頼彦くんは縁の彼氏だ。縁は二組、頼彦くんは六組。遠距離恋愛ー、なんて縁は笑っていたけど、遠距離恋愛の定義ってどこから? 

「頼彦くんと何かあったの?」

 と私が訊くと、縁は堰を切ったように話し始めた。

「いやさ、この間頼彦の部屋で勉強会あったんだけど、休憩中に急に抱き締められたわけ」

 その言葉にドキッとする。

「そのままキスされそうになってぇ」

 すごいな、縁はオトナだ。

「まぁ、嬉しかったっちゃ嬉しかったんだけど、ほら、簡単な女って思わせたくないじゃん? だからちょっと身を引いたの。そしたらそれがショックだったみたいで……」

「冷たくされたの?」

「うん……」

「そっか」

 私は経験がないから何とも言えない。

 そもそも男の子にそんなに興味がわかない。彼らは理系が多いから、そのことだけちょっといいな、って思う。女子の中で理系が浮くというわけではないのだけれど、やはり自分と同じ系統の人間が多い集団というのは羨ましい。それに男子同士なら、好きな教科のことで男子と話していても、他の女子から疎まれることがない。人間関係もシンプルそうだし、来世は男がいいな、とは少し思っていた。

「ねぇさー、花純の髪かわいいー」

 唐突に話題が変わる。まぁ、女子あるあるというか、日常茶飯事。普通の女の子、というのはこういうふうに目に入ったものに対し反射的にコメントをする生き物のようなのだ。私はこの手の話題の急展開についていくのが難しいけど、縁はその都度丁寧に話してくれる。

「いやさ、あたし頼彦の好みで金髪にしてっけど、これ痛むのよ。トリートメントはしてるんだけどさー。花純の綺麗な黒髪見てると染めなきゃよかったかなーって思うよねー」

「私は、遊び心が足りないだけだよ」

「えー、そんなことないっしょ。今度だってすごい実験するし。先生ビビッてんしょ? あんたのやる実験に。しかも空手とかやってるし。そんな大人しそうな見た目で」

 まぁ、そういう意味では遊び心は……あるのか? うーん……。

「あ、そうだ。花純今度服買いに行こうよ。あたし花純のセンス好きー」

「え、結構ダサいよ。私のセンス」

「んなことないって。花純の選んだ服評判いいよ? 何ていうか、清楚に見えるんだって。こんな私でもだよ? すごいって」

「そうかな……」

 お弁当をつつく。まぁ、ファッション誌見るのは好きだけどね。

「『目の前のことほど見えていない』って、古文の中岡ちゃん言ってたじゃん?」

 古文の中岡先生。髪の毛にピンクのメッシュが入った、推定五十代の先生。

「私も見えてないのかなぁ。意外と清楚ファッションが似合う女だったり?」

「そうだよ、きっと」

 私はミニハンバーグを食べながら微笑む。

「縁、スタイルいいからなんでも似合いそう」

 すると縁がニヤッと笑った。

「あんただって脚、綺麗じゃん。この間体育の時通りかかった男子がチラ見してたよー?」

「やめてよ」

 私はスカートを押さえる。

「そんなんじゃないって」

「花純は気になる男子、いないの?」

 ガールズトーク。これもちょっと苦手。

 けど縁は、分かってくれている。

「……なぁんて話、あんたは苦手か。でもさ、うちら華の女子高生じゃん? これからきっといっぱいときめくよ。気になる男子いたら、言いなね。応援するからさ」

「うん」

「あ、でも頼彦はダメだかんね」

「分かってるよ」

「それ以外は取り放題」

「私じゃ無理だよ」

「何言ってんの。眼鏡外してみ」

 最近目が悪くなったので眼鏡をかけている。裸眼でも、教室の真ん中くらいからなら黒板は見えるのだが、後ろの席からじゃちょっとしんどい。

「ほら、かわいい」

「そんなことないよ」

「この魅力に気づかないとは、うちの男子の目も節穴だね」

「はいはい」

 私はお弁当を食べ終わる。

「恋ってどんなのだろうなー」

 心の中だけの言葉のはずだったのに、うっかり口に出してしまう。やっぱり縁が、嬉しそうに飛び付いてきた。

「花純ー! 恋がしたくなったか! うんうん、お父さんは嬉しいぞ!」

「誰がお父さんよ……」

「お父さんが教えてあげよう。恋っていうのはね、解像度が上がることなんだよ」

「解像度?」

「これまで気にしていなかった、その人の一面。それが見えて、嬉しくなった瞬間。それが恋なのだ」

 あ、でも……と、縁が言い淀む。

「お父さんに恋愛指導されるのなかなかにキモいな……今のナシ!」

 ふふ、とおかしくなる。縁は相変わらずだ。

 お弁当箱を片付けた私は立ち上がる、

「薬品庫行きたいの。縁も来る?」

「惚れ薬とかある?」

 私は笑った。

「ありません」

「そっかー。でも一緒に行く」

 側から見たら、私たちはどう映るのだろう。

 不良少女と学級委員にでも見えるのだろうか。

 でも、そんな誤解をしている人たちに一言。

 縁、学年十位以内の成績保持者です。


「そういやさ」

 薬品庫への道中、縁が訊いてくる。

「化学部って合宿いつ?」

「あっ、合宿……!」

 私は思い出す。

「今週末だ!」

「マジ? 早くね? うちらバスケ部夏休みの終わりの方だよ」

「文化部は早いんだよ。セミナーハウスを運動部が使っちゃう前に押さえるから」

 紹介が遅れたが、夏期講習が行われ、合宿の宿にも使われるこのセミナーハウス、とは、いわゆる本校舎に対する別校舎のような扱いの建物である。課外授業や保護者会なんかにも使われる。学校敷地、校門入って右手側の坂道を進むと、大きな駐輪場があって、その上二階から四階がセミナーハウスである。

「しまった。準備しないと」

 私はため息をついた。

「よかったー、縁ありがとう」

「いいって。そういや、化学部って毎年あれやるんしょ?」

「あれ?」

 覚えがない私は首を傾げた。縁は笑った。

「肝試し! 不思議だよねー。科学を重んじる部活がオカルトなんて」

「肝試し……?」

 私は戦慄した。

「わ、私、ホラー苦手なんだけど……!」

 そしてそう、この時の私には思いもよらなかった。

 その合宿で、あんな事件が起きてしまうなんて。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る