第10話

 タイヤの黒いスリップ痕が、路面にはっきりと刻まれていた。

 藍の車は、助手席側をガードレールに激突させて跳ね返り、進行方向に後部を向ける姿勢で完全に止まっていた。ここまでの烏丸による半端な妨害と、それを避けきれなかった影響が、灰色の車体の至る所に傷として残っている。エンジンルームからはうっすらと煙も上がっていた。

 幸いにも意識を保っていた守矢は、全身を包む痛みに顔を顰めながら運転席に目を向けた。ハンドルに覆い被さるようにしてぐったりしている藍の姿が目に映り、一気に頭が回り始める。上体を曲げて手を伸ばし、藍の顔に手の平を近づけた。――息はある。

「おい……おい、起きろ」

 軽く頬を叩く。少し間があり、藍は目を閉じたまま小さく唸った。

 呼びかけ続けると、苦しげに顔を歪めてゆっくりと目を開いた。しかしまだ焦点が合っていない。黒目が震えていた。

「――守矢、さん?」

「大丈夫か?」

「……何とか」

「出るぞ。こいつはもう駄目だ」

 さすがに体が痛むのだろう。藍は軽く頷くと、ゆっくりした動きで運転席のドアを開け、転げ落ちるように外に出た。

 守矢は助手席側のドアを押した。案の定、変形しており完全に動かない。体の向きを変え、ドアの内側に靴底を叩き込んだ。車体全体が揺れる。連結部が壊れたらしく、ドアは外側に向かって倒れた。一瞬藍のことを気にしたが、どうせ廃車だと思い直し外に出た。

 藍が車外で固まっていた。守矢もその視線の先を追って、口元を歪めた。

 道路の中央線上に、特災機関のヘリの残骸が横たわっていた。

 爆発と、墜落の衝撃で破壊された機体の各所が、周辺一帯に四散している。守矢がちらりと振り返ると、メインローターが路面に突き刺さっていた。藍の車は、飛んできたそれを避けようとした結果、事故を起こしたのだった。

 燃料は全て上空での爆発で失われたらしく、無惨な姿になりながらも炎の勢いは弱まっている。

「救助は……」

「無駄だろう」

 ヘリは操縦席を下にして墜落していた。機体前面は完全に潰れ、横倒しになっている。それ以前に、爆発の中にいたのだ。考えるまでもなく、搭乗していた者の命は無いだろう。奇跡の生還など、そう簡単には起こらない。

 藍は悔しげに唇を噛み、辺りを見回した。

 町中を走る国道のど真ん中。片側三車線の広い道路だが、交通規制が間に合ったのか、他の一般車の姿は無い。その代わり避難誘導と、道路の交通規制を行っていたらしい警察車両が、路肩に数台停車されていた。民間人の姿は見あたらないが、これから避難しようとしていた警官は、まだちらほらと残っている。

 守矢は彼らを無視して藍を見た。

「お前の仲間は、高速まで来いとか言っていたな。あとどれぐらいだ?」

「四、五分ですね。……車で、ですけど」

 まだ痛むのか、藍が左腕をさすりながら言った。

 他の車両が走っていない今ならば、自分の足で走っていくということも可能ではある。もちろん、何の邪魔もなければ、という条件付きだが。

「逃げないの? 行ってもいいわよ」

 翼が空気を打つ音と共に、烏丸の笑いを含んだ声が聞こえた。残っていた警官達の間に動揺が走るのが伝わってくる。藍よりも早く、守矢が声のした方向を睨んだ。

 その視線の先で、羽ばたく音だけが地に降り立った。

 病院の時と同様に、景色が人型に歪み、空間に色がつき、烏丸の姿が現れる。自分の力を見せつけたいのか、背中の黒い翼は大きく開いたままだった。

 完全に逃げ腰になっている警官達を気にする様子もなく、小馬鹿にしたような笑みを口元に浮かべ、烏丸は睥睨するように二人を見比べた。

「逃げていいだと?」

「何よ、文句ある? せっかく許可してあげてるのに」

「ふざけるな。何を企んでる」

「私は単に、仕事のついでに遊んでるだけよ」

 烏丸の言葉が終わるか終わらないかのうちに、乾いた炸裂音が周囲に響き渡った。

 烏丸の手が霞むような速度で動き、顔の横で止まる。その手に当たって弾かれた小さな金属が路面に落ち、硬質な音と共に転がった。

 烏丸がちらりと視線を動かした。守矢と藍も、そちらを見た。

 二十代後半とおぼしき警官が、小刻みに震える手で拳銃を握りしめていた。銃口からは、薄く硝煙が上がっている。青ざめた顔は、哀れなほど引き攣っていた。

「邪魔しないでもらえる?」

 手を下ろした烏丸の翼が、大きく羽ばたいた。

 次の瞬間、警官の体が後方に吹き飛んだ。その背後で逃げ腰になっていた仲間の警官も巻き込み、放り投げられた人形のように宙を舞い、地面に叩きつけられた。悲鳴と共に地面を転がるその様を見た烏丸は、たいして面白くも無さそうに小さく鼻を鳴らした。

「いるのよねぇ。空気の読めない奴、って。ねぇ?」

 烏丸が同意を求めるように小首を傾げて藍を見る。

 怒りに燃える目で睨み返され、烏丸は芝居がかった仕草で肩を竦めた。

「で、どうするのよ。逃げるか諦めるか、選んでほしいんだけど」

 さも馬鹿にしたように問いながら、烏丸がゆっくりと足を踏み出した。それだけで、遠くに残っていた警官達は、脱兎の如く逃げ出した。彼らの悲鳴を聞きながら、守矢は烏丸から目を逸らさず、反対に前へと出た。

「あら、戦おうってわけ? その博士にどんな義理があるの?」

「……義理なんて無い」

 呆れたように問う烏丸に、守矢は側に立つ藍にちらりと目を向けた。

 口を引き結び、強張った顔が見上げてくる。助けてほしい、というのが本心だろう。

 しかし元々は、守矢と藍は敵同士だったのだ。助けを求められないという心情は、簡単に想像できる。

 守矢はすぐに藍から視線を外し、烏丸を睨み付けた。

「だが……言っただろう、成り行きだってな」

「たかが戦闘員だった奴が、格好つけるわね。成り行きで殺されるのを選ぶわけ?」

「……確かに、俺じゃあ勝てない。だがお前の相手は、俺だけじゃない」

「――そうみたいね」

 烏丸は口の端を曲げて、肩越しに背後を振り返った。

 反対車線を、こちらに向かって猛スピードで走行してくる二台の黒い大型車両が見えた。特災機関の移動車両だ。先ほどの通信では高速道路で待っているという話だったが、作戦が変更になったのだろうか。

「博士のお仲間のご登場、ね。良かったじゃない」

 その車両に乗っているのが、戦闘部隊だということは、当然分かっているのだろう。それでも烏丸から余裕は消えなかった。それほど自分の力に自信があるということか。

 到着した二台の車両は、ヘリの残骸を避けて、烏丸と二十メートル程の距離を置いてそれぞれ停車した。後部のドアが上下に開く。収納式のタラップが現れ、完全武装した戦闘部隊の隊員が次々と降りてくる。

 二十人前後の隊員が、全く動じない烏丸を前に展開した。

「博士、ご無事ですか!?」

 展開した隊員の内、指揮官らしき一人が声を張り上げた。まだ若そうな声だ。

「大丈夫です! それより、気をつけてください!」

「そうそう。気をつけなくちゃね」「撃て!」

 烏丸の姿が一瞬にして空気の中に溶けた。空に飛び上がったのか、突風と共に周辺の砂やゴミが舞い上がる。守矢と藍は、思わず顔を防いでいた。

 姿が消えるのと殆ど同時に、烏丸を狙っていた銃口が、一斉に火を噴いていた。

 しかし一瞬遅く、発射された銃弾はそれまで烏丸がいた空間を貫いていた。側壁やガードレールに次々と穴が開いていく。

 すぐに指揮官が手を挙げ、銃声が止んだ。

「各員、周囲を警戒!」

 ハンドサインに従い、展開していた部隊が二手に分かれた。武器を構えたまま、視線を頭上や左右に走らせている。反撃が無いということは、烏丸は動かずに様子を見ているのだろう。

「博士、お怪我は?」

 駆け寄ってきた指揮官が、敬礼を省略して尋ねた。

「平気です。えと、あなたは」

「第一班班長、高千帆蒼太です」

「高千帆さん、どうしてこっちに? 封鎖区域は高速のはずでは」

「作戦は変更です。本部周辺の地域に、敵が出現しました」

「なっ……!?」

 高千帆の言葉に、藍は目を見開いて息を呑んだ。

 そういうことか、と守矢は心の中で歯噛みした。

 自分も藍も、どうして気付かなかったのか。病院に烏丸がいたということは、高機動戦闘員の秘密を知られてしまったということだ。『Peace Maker』への切り札だった彼らが既にいないと分かれば、隠れてこそこそ動く必要もない。堂々と真正面から特災機関を潰せばいい。

 烏丸が本気を出さなかったのは、本部襲撃は仲間に任せ、本当に遊んでいたのだろう。

「他班は瀬尾隊長の指揮で本部に防衛に。我々の任務は、博士の保護です」

「そんな!? 私はどうでもいいですから、皆さんも本部に」


「それは困るわね」


 言いかけた藍の言葉を、烏丸の声が遮った。

 全員が身構えた瞬間、異常な圧力を持った暴風がその場を吹き抜けた。

 守矢は咄嗟に藍の頭を抑えて路面に伏せた。

 風はすぐに止み、体を起こした守矢の目に、傷ついた隊員達の姿が映った。

 側にいた高千帆も、左腕を押さえて片膝をついていた。足下に転がるライフルに、腕から流れ出た血が滴り落ちている。白と黒の銃身に、赤い斑が出来ていく。

 高千帆の左腕には、二枚の黒い羽根が突き立っていた。

 形自体は鳥の羽根だが、刃物のような鋭さと硬質感を持っている。よく見れば、他の隊員達の体にも、同様の羽根が突き刺さっていた。

「大丈夫ですか!?」

 藍の問いに、高千帆は大きく頷いた。しかしヘルメットから覗いた目元は、痛みに耐えるように歪んでいる。

「手加減したんだから、平気でしょ。これぐらいで死なれちゃ面白くないわ」

 守矢は反射的に、声のした方に顔を向けた。戦闘部隊の車両の屋根に烏丸が立っていた。

 烏丸は隊員達を睥睨すると、小さく鼻で笑い、守矢へと目を向けた。

「予想通り、博士を守ってくれたみたいね。怪我が無いみたいで安心したわ」

「無傷が望みなら手を出すな」

「それは無理ね。今そいつらに動かれて仲間の仕事を邪魔されたくはないもの。あ、そうだ、ついでに」

 烏丸はわざとらしく手を打つと、屋根を蹴って飛び立った。

 離れた位置に降り立つと、その近くに吹き飛ばされていた戦闘部隊のライフルを二丁、両手に拾い上げた。満足げに銃身を眺めると、口の端を曲げてそれを構えた。二つの銃口の先には、特災機関の車両。

 烏丸の考えを読んだ守矢は、藍と高千帆の右腕を掴んで、思い切り地を蹴っていた。

「逃げろ!」

 飛び退りながら守矢が叫んだ。隊員達が動くよりも早く、烏丸は引き金を引いていた。耳鳴りのような音が聞こえたと同時に、マズルフラッシュが起こる。発射された弾丸が、超音波振動で弱体化させられた車両に、次々と穴を穿っていく。

 数秒後、車体下部から火花が散った。次の瞬間、車両が爆発した。

 大地を揺るがすような爆音が、周囲一帯に轟く。赤黒い炎が吹き上がり、車体やアスファルトの破片、落ちていたライフルが吹き飛ばされる。

 爆発に巻き込まれた隊員の悲鳴は掻き消された。炎に巻かれ、のたうち回る者もいる。

 藍と高千帆を庇った守矢の背にも、容赦なく熱風が吹き付けてきた。防ぐことの出来ない頭や首筋に直接高熱を受け、歯を食い縛る。昨夜も爆発に巻き込まれたが、これほど近距離ではなかった。

 あの時の被害者達の苦痛は、この数倍になるのだろう。こみ上げた怒りが体を震わせた。

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