第8話
顔を上げた守矢と藍が周囲を見渡す。しかし特に誰がいるわけでもない。
遠くを歩くリハビリ患者と病院スタッフの姿はあるが、すぐに施設の中へと入っていった。
しかし拍手の音は続いている。
「……まさか……」
藍の声に反応したように、拍手が止まった。
守矢が警戒するように立ち上がる。視線を走らせ、周囲の様子を探る。見える場所には何も変化がない。しかし確かに、こちらに向けられている、何者かの気配があった。
「こっちよ、こっち」
不意に、前方の風景に歪みが生まれた。
離れた場所の植木と、病院の外壁。それまでごく普通の風景だった木の側の空間。その一部が、次第に色を変え、形を持って動き始めた。
「面白いお話しだったわ」
空間から染み出るように現れた女は、言葉を無くす二人に顔を向け、口の端を曲げた。
深紅のボディースーツのような上下に身を包んだ、スタイルの良い女だった。長い髪は墨を流したように黒く、しかし光の加減なのか、不思議と様々な色が混ざっているようにも見える。笑顔ではあるが、細い瞳に友好的な光は無かった。
「まさかあの連中に、そんな秘密があったとはね」
「誰ですか!?」
顔色を失った藍の問いに女は「ああ、失礼」と笑い、もたれていた植木から背を離した。何故かその上着は、背中が大きく開いている。
「初めまして。私は烏丸鈴。ま、ご覧の通り、普通の人間じゃないわ」
「一体いつから……尾行には注意していたのに」
「あなたが特災機関の本部を出たところから、ずっと。ま、擬態ってやつよ。それと、私にはこんな便利な力もあってね」
風を叩くような音と共に、烏丸の背中から巨大な羽が現れた。その名の通り、烏のような黒い翼。上着の背が開いていたのは、翼のためらしい。
「空から……」
藍の呟きを、烏丸は首肯した。
「さて。一緒に来てもらうわよ、弓埜博士。――新生『Peace Maker』に、ね」
烏丸は薄ら笑いを浮かべたまま、一歩踏み出した。
しかし藍を守るように守矢が進み出ると、ようやくその存在に気づいたかのように、眉を上げた。
「……そう言えば、あんた誰? 博士の護衛……じゃないわよね」
「……久しぶりだな」
「は?」
思わず聞き返した烏丸は、細い目をさらに細めて守矢の全身を眺めた。しかし、やはり分からないというように小首を傾げた。
「どこかで会ったかしら?」
「忘れたのか」
「悪いけど、昔の男なんて覚えてないわね。特災機関の人間で顔を知ってるのは、そちらの博士と、戦闘部隊の隊長さんぐらいだから」
「誰がお前の男だ。それに特災機関の人間でもない。お前と同じ『Peace Maker』だ」
「え、同僚だったの? あんたが?」
訝しげに眉根を寄せ、烏丸は改めて、自分を睨み付けてくる男の顔を凝視した。やがて烏丸の目がゆっくりと見開かれた。顔全体に驚きが広がっていく。
「あんた、まさか……守矢?」
「ようやく思い出したか」
珍獣を見るような目を向けてくる烏丸に、守矢は小さく鼻を鳴らして言った。
「生きてたわけね。で、何であんたが特災機関の博士と一緒に動いてるわけ?」
「成り行きだ」
「生きていくために、特災機関に寝返ったの? それとも、関係者に密かに近付いて、自分一人だけででも復讐しよう、とか考えてる?」
いかにも馬鹿にしたような言い方だった。苛立ちを抑えながら、守矢は首を振った。
「違う」
「じゃあ何? ……って、まぁ、なんでもいいわ。博士の捕獲に協力……いえ、私の邪魔さえしなきゃ、あんたも一緒に連れて行ってあげるわよ」
面倒臭いのか、追い払うようにひらひらと手を振ると、烏丸は何の警戒もせずに近付いてきた。その時だった。背後で何かを閉じる小さな音がした。
「守矢さん」
藍が囁くと同時に、烏丸の後方、病院の施設内で、非常ベルの音が鳴り響いた。
烏丸がそれに気を取られ、肩越しに背後を振り向く。その僅かな隙を突いて、守矢は小荷物のように藍を抱えると、脱兎の如く走り出した。
「――ちょっと」
烏丸が振り向いた時には、守矢との距離は大きく開いていた。組織ではただの戦闘員だったとはいえ、守矢の運動能力は並みのアスリートよりは高い。
烏丸は馬鹿馬鹿しそうに鼻を鳴らすと、翼を広げて地面を蹴った。
瞬く間に頭上高くに飛び上がったその姿を見て、建物から逃げ出してきた患者や、彼らを誘導する職員が悲鳴を上げた。
「あ、ちょ、もり――」
「黙ってろ」
悲鳴に近い声で喋ろうとする藍を一言で黙らせ、守矢は一気に遊歩道を駆け抜けた。
走り幅跳びのように植え込みを飛び越え、あっという間に正面入り口へと辿り着く。そのまま足を止めず、逃げ出してくる人々の間をすり抜け、駐車場へ駆け込んだ。守矢は目もくれなかったが、施設の中はかなりの混乱に陥っていた。
駐車場の入り口付近に停めていた藍の車に走り寄り、抱えていた手を放すと、藍は多少ふらつきながらも運転席のドアに手を掛けた。短い電子音と共に、全てのドアロックが外れる。藍が運転席に、そして守矢が助手席に飛び乗るのは同時だった。
「急げ!」
「分かってますよ……!」
挿し込んだキーを回すと、起き上がったエンジンが車体を揺らした。アクセルを強く踏み込むと、駐車位置から勢いよく走り出た。
藍はタイヤを滑らせ、揺れる車体を強引に出口へと向けたが、そこには既に烏丸の姿があった。余裕綽々とした、嫌らしい笑みが目に映る。
「武器は!?」
「あるわけないでしょう!」
「っ、なら突っ込め!」
言い放つ守矢を躊躇いがちに見た藍だったが、すぐに意を決したように、アクセルを思い切り踏み込んだ。一気に回転数を上げたエンジンが唸りを上げる。
笑みを深めた烏丸が大きく口を開いた。車内にいても、周囲の空気が揺れるのを感じ取ることができた。
それと同時に、全てのガラスに細かな罅が走り、派手な音と共に砕け散った。藍が悲鳴を上げ、ハンドルから手を放して頭を伏せた。
「馬鹿……! そのまま踏んでろ!」
咄嗟に顔を庇っていた守矢は、横から手を伸ばした。藍の替わりにハンドルを握り、車体を保つ。守矢の声が聞こえていたのか単なる偶然か、藍の足はアクセルから離れていなかった。激突する直前に、烏丸は宙に飛んで車を避けていた。
「しっかりしろ!」
「っ……は、はい……!」
守矢の声で我に返った藍は、ハッと顔を上げると慌ててハンドルを掴んだ。
運悪く、車が病院の敷地から跳ねるように飛び出したところだった。左右から走ってくる車が、激しくクラクションを鳴らす。
頬を引きつらせて息を呑むと、藍は咄嗟にハンドルを切った。タイヤとアスファルトが擦れる耳障りな音と共に、愛車が横滑りする。暴れ馬のようになる車体をどうにか立て直し、再びアクセルを踏んだ。真っ直ぐに走り出したところで、藍は大きな息を吐いた。
「大丈夫か?」
「――死ぬかと、思いました」
「思っただけだ。まだ生きてる」
遮る物が無くなり、容赦なく吹き付けてくる風に、藍は顔を顰めた。荒れ狂ったような心臓の鼓動が、体の内側から響いていた。
「まぁ……助かったとは言えないがな」
守矢は頭に被ったガラス片を足下に払い落とした。ヘッドレスト越しに背後を振り返ると、後ろのガラスまで綺麗さっぱり無くなっていた。後部シートの上には多量の破片が積もっている。烏丸は上から追跡しているのか、その姿は見えない。
暫くすると、藍が軽く息を吐いた。
「さっきは、助かりました」
「何のことだ」
「会話を延ばして、私が本部に連絡をする時間を稼いでくれたじゃないですか」
烏丸が話している間、守矢の背後に守られながら、藍は本部への連絡を入れていた。さらに本部から病院へ、非常ベルを鳴らすよう連絡させたのだ。実戦に出ない研究者でも、機転が利くのは流石と言うべきか。
「……偶然だ」
「守矢さんは、偶然で人を抱えて逃げるんですか? 協力してくれるとは言っていないんですから、私を引き渡すという選択肢もあったはずですよ」
「昨日言っただろう。俺は新しい組織に参加するつもりはない。今更あんたをどうこうするつもりもない」
「それだけですか?」
「……何が言いたい」
鬱陶しそうな守矢の口調に、藍は口の端に僅かな苦笑を浮かべた。
藍は随分と冷静さを取り戻していた。制限速度をオーバーしながらも、危うく思える追い抜きと追い越しを、軽々と繰り返していく。やや鈍臭そうな見かけによらず、運転技術は並以上のものを持っているらしい。
もちろん車の外観も、助けにはなっていた。全ての窓が見事に無くなり、どう見ても事故後という様子だ。嫌でも人目を引いてしまう。近付くと、他の車は驚いて道を譲った。
「お前らの部隊は?」
「動いてはいるでしょう……。ですが、相手があれでは地上を封鎖しても意味がありませんし、そもそも、私達の方がどうすれば……」
「逃げるしかないだろう」
守矢はシートを倒すと、体を滑らせて器用に後部座席に移動した。座席上のガラス片を適当に払い落とすと、藍の制止を無視して、ただの穴になったリアウィンドウから頭を出し周囲を見回す。後方のかなり上空に、烏丸らしき怪鳥のような影が見えた。
守矢は軽く舌打ちすると、諦めて頭を車内に戻した。
「何であいつがあんな力を」
「そう言えば守矢さん、あの人のことを知っているようでしたが……」
風の音で聞き取りにくいはずの小声を、藍はしっかりと聞いていたらしい。
「……元々、俺と同じ戦闘員だった奴だ。女だけで構成された部隊の一人で……だが俺が知る限りじゃあ、あんな能力は持ってなかった」
「新しい組織で、何かされたんでしょう」
妥当すぎる藍の見解に、守矢はしかし納得していないらしく、低い唸り声を返した。
「それより、どうして何もしてこないんでしょうか?」
「何?」
「キマイラの能力なら、普通の自動車に追いつくことなんて、簡単なはずです」
そう言われて、ようやく守矢も気付いた。
確かに、烏丸からの攻撃は、何らかの手段で車のガラスを砕いたことだけだった。本気を出せば、あの場で車を破壊、停止させることも出来ただろう。
それ以前に、守矢が逃げ出した時、難なく捕まえることは出来たはずだ。藍の捕獲が目的である以上、死なせるほどの手は使ってこないとしても、手を出してこないのは何故なのか。実際、今も単に追跡しているだけで、何をしてくるわけでもない。
藍が本部と連絡を取る声も、異能力を手に入れたのならば、聞こえていても不思議はない。にもかかわらず、無駄話を続けたのも変だった。
理由を考える前に、守矢の背中に寒気が走った。音が聞こえそうな勢いで背後を振り向く。車内を吹き抜けていく風の音より強く、翼が空気を打つ音が聞こえた。
「もちろん簡単よ」
一瞬で距離を詰めた烏丸が、そこにいた。
二人が乗る車に速度を合わせ、つかず離れずの位置を飛んでいる。にたにたと笑う顔と、守矢は正面から睨み合った。
「お前……何のつもりだ」
「私としては、つまらないわけよ。いくら科学者とはいえ、たかが女一人を拉致するだけなんてね。そんな面倒なことしてるんだから、少しぐらい遊んでも罰は当たらないと思わない?」
それだけ言うと、再び烏丸の翼が力強く羽ばたいた。空気を打つ音と共に、その姿が瞬く間に上昇し、視界から消える。
一拍の間を置いて、藍の悲鳴が聞こえた。見ると、前方を走っていた大型バイクの前輪が、興奮した馬のように跳ね上がっている。宙に放り出された乗り手が反対車線に落下、やって来た車にはね飛ばされた。完全に横倒しになったバイクが、その車体を路面と擦れ合わせて、鮮やかに火花を散らしながらこちらへと滑ってくる。
藍の手と足が目まぐるしく動く。車体が踊り、重力に引っ張られた守矢は、後部ドアの取っ手を掴んでどうにか堪えた。
際どい距離を残し、二人の乗る車はバイクの横を走り抜けた。現場を後方に見送り、守矢は拳を握りしめた。
突然、備えられている通信機のランプが点滅し、呼び出しを告げる音が鳴った。本部からの連絡だろう。困ったように藍が眉根を寄せた。この状況では、運転に集中していなければ危険すぎる。
「どうしましょう」
「俺が出る」
躊躇している暇は無い。守矢は手を伸ばし、取り外し可能のマイクを取って通話スイッチを入れた。スピーカーから若そうな男の声が聞こえてきた。
『博士、大丈夫ですか?』
「弓埜は運転中、俺が代理だ!」
『誰だ?』
「説明してる暇は無い! 相手の目的は弓埜の拉致! 追われてる! どうすればいい?」
正体不明の男が出たため、向こうでも対処に困っているのだろう。側にいる誰かと言葉を交わしている声が、僅かに聞こえた。結局守矢の問題は後回しにしたらしく、同じ男の声が聞こえた。
『今、どこにいる?』
「小宮インターまであと十五分弱です! 問題なく行けば、ですが!」
藍は通話口の相手に聞こえるよう、声を張った。
『了解。現在高速道路を戦闘場所にするため、一部封鎖中。敵を誘い込め』
「ふざけるな! 相手が大人しくしてると思うか!? 俺達が到着するまでに、どれだけ被害が出るか考えてみろ!」
『付近一帯の警察とレスキュー隊には、既に連絡している。避難誘導や救助は彼らに任せるしかない』
守矢は歯噛みして後ろを振り返った。先程のバイクのライダーはどうなっているのか。気にはなるが、今の自分達には逃げる以外何も出来ない。
『逃走援護のために、ヘリがそちらに向かっている。どんな車だ?』
「無茶な運転をしてる事故車だ!」
捨て台詞のように言うと、守矢はマイクを元の場所に押し付けた。
小宮病院の事後も知りたいが、聞ける状況ではなかった。当面の問題は、無事に逃げることが出来るのか、ということだ。
烏丸が先程のような妨害をどれだけ起こすか知らないが、その全てを回避できるとは言い切れない。それ以前に、烏丸がこの悪趣味な鬼ごっこを中止してしまえば、誘い込む前に全てが終わる。
車体を横滑りさせながら、カーブを曲がった。タイヤとアスファルトが擦れる耳障りな音が響く。素人とは思えない見事なドリフトに、守矢は体を半ばドアに押しつけられながら藍を見た。
「――凄いな、お前」
「それほどでも……!」
藍が緊張した、だがどこか自慢げな声で答える。意外に頼りになりそうだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます