第6話
鼠のような車は国道へ出ると、そのまま高速道路へと入っていった。どこに行くつもりなのか。特災機関の本部に戻る方向ではない。
邸から出てきた弓埜藍は、男と一緒だった。
やたらと長い髪が気になるが、背は高く、体格も良い。顔立ちもそこそこ。
しかし恋人という雰囲気ではなかった。
男は完全無防備に見えて、密かに周囲を警戒している。一方弓埜藍の男への接し方は、まるで客人を相手にしているようだった。護衛という可能性もあるが、違う気がする。
烏丸は車を見下ろしながら首を傾げ、しかしすぐに、どうでもいいと思い直した。仮に護衛だったとしても、今の自分からすれば、別段邪魔になるわけではない。
およそ一時間後、車は高速道路を降りた。暫く一般道を進み、やがて中央に白い建物を構えた広い敷地へと入った。敷地内の駐車場に車が停まり、弓埜藍と男が降りてくる。
烏丸は背中から生えた黒い翼を羽ばたかせ、離れた位置に建つビルの屋上に着地した。顔を上げると、二人の後ろ姿が、入り口の自動ドアの向こうに消えるのが見えた。
市街地からほんの少し離れた、二棟続きの巨大な施設。正面側に三階建ての一棟があり、その後に幾つかの渡り廊下で繋がれる六階建ての棟が建っている。そしてそれらの建物を囲むように、敷地内には広い遊歩道のような道が敷かれていた。
烏丸は正面ゲートの横に記された、施設の名称に目を留めた。
「小宮総合病院……?」
§
「ここは元々、我々の研究施設だったんです。『Peace Maker』との戦いが終わった後に改装されて、医療施設として使用されています。まぁ、経営管理には機関が関わっていますけど」
少し待っていてくださいと言い、藍はエントランス横にある受け付けに向かった。
広い待合いスペースに一人で残された守矢は、何気ない仕草を装って、エントランスを見回した。長椅子に座る外来患者の数は、平日の昼間であるためか、それほど多くない。
隅々まで清潔に保たれた空間は、どこから見ても普通の病院だった。漂う空気も、消毒薬や他の薬の臭いが混ざる、医療施設独特のもの。
エントランス奥にある階段は上下に続いており、地下にもフロアがあるようだ。廊下はその手前で左右に伸びていた。エレベータやトイレはその先にあるらしい。
建物の案内図は待合いスペースの後ろにあった。
それによると、第一病棟とされる手前の三階建てが、診察室や各検査室、処置室、スタッフルームなどが集まる棟のようだ。院長室もこちらの棟にある。第二病棟には、入院患者用の部屋があるらしい。渡り廊下は三階まで全てにあり、緊急時に即応できるように、スタッフルームや手術室はこちらにもあった。
「お待たせしました」
戻ってきた藍に促され、守矢は案内図の前から離れた。
「どこに行くんだ?」
藍は問いかけに答えなかった。しかし平静を装っている彼女の表情の中には、隠しようのない緊張が見える。それ以上はあえて聞かず、守矢は黙って藍の後に従った。
藍の足は廊下の奥へ、そして渡り廊下を通って第二病棟へと向かった。
すれ違う職員の中には、藍のことを知っているのか、時折小さく会釈する者がいる。そして藍の後ろについている長髪の無愛想な男には、警戒したような視線を向けてきた。しかし守矢の上着の胸元に付けられている、特災機関の所属を示すバッジを認めると、困惑しながらも小さく頭を下げた。
「……ばれるんじゃないのか?」
第二病棟へ入り、医師らしき中年の男性をやり過ごしたあと、守矢は藍に聞こえる程度の声で言った。
「バッジは本物ですし、私個人の護衛として、同行の許可は貰いました。戦闘部隊の新人、ということにしてあります」
守矢は車中で渡されたバッジを見下ろした。何かの鳥を簡略化した、白い金属製。特殊な金属なのか、不思議と滑らかな手触りだった。
一階ロビーにあるスタッフルームの横を通り過ぎ、奥に数基あるエレベータのうち、藍は職員専用の一基に乗り込んだ。守矢が続くと、すぐに扉を閉じた。
セキュリティ機能があるらしく、藍は各階のボタンを何らかの手順で押した。最後に六階を選ぶ。
エレベータが動き出すと、藍は疲れたように大きく息を吐いた。
「……本当のことを言うと、迷ったんです」
「何を?」
「守矢さんを、ここに連れてくるべきかどうか。……でも、協力の依頼自体が無茶なことですし、やはり現状を理解してもらわないと、私の話を信じてもらえないと思ったんです」
「信じるもなにも、まともな説明をしてないだろうが」
「……そうですね」
ぶっきらぼうな守矢の言葉に、藍は力のない苦笑を浮かべて頷いた。
到着を知らせる音が鳴り、扉が開いた。
機能しているのかと疑ってしまうほど、フロア全体がしんと静まりかえっていた。降りてすぐの角を曲がると、フロアの奥まで広い廊下が伸びている。左側には窓があり、第一病棟の屋根が見える。病室の扉は廊下の手前、右側にいくつか並んでいた。
藍に先導され、守矢はフロアの中程にある扉の前にやってきた。電子ロックがされているらしく、扉の脇には開閉用の機械が備え付けてある。赤いランプが点っていた。
「随分用心深いな」
「ええ。この六階は、機関にとっての重要人物が入院する場合のフロアなので。他のフロアに行く必要を無くすために、浴室や検査室も一通り揃っています」
「高級ホテルかよ」
守矢の皮肉には何も返さず、藍は機械の盤面上に手を走らせた。
短い電子音の後、扉の中から金属音が聞こえ、ランプの色が赤から青へと変わる。微かに震える手で藍が扉を開いた。無言で促されて、守矢は静かに室内へと進んだ。
普通の個室よりも広さのある部屋だった。
電気は消されているが、窓から差し込む陽光で室内は十分に明るい。窓は少しだけ開いて固定され、そこから流れ込む爽やかな風が束ねたカーテンの端を揺らしていた。
奥にあるベッドに、女が一人横たわっていた。
肌は血の気が通っていないかのように白い。適当な長さに切り揃えられた髪と共に、肌の艶は失われていた。顔も腕も肉が落ち、まるで死んでいるかのようだ。
ベッド横に置かれた機械からは人工呼吸器が伸び、女の口元に装着されている。他にも何本ものコードが、シーツの中へと伸びていた。外に出された腕には、点滴の管が刺さっている。機械の一部に表示された心電図は、女が生きていることを示してはいるが、これらの装置で生かされているのは明らかだった。
「……誰だ?」
「守矢さんが、直接顔を見るのは、初めてでしょうね」
藍の言葉に守矢は眉をひそめ、瞼を閉じた女の顔を見下ろした。今の藍の口振りでは、守矢はこの女性と会ったことがあるようだが、全く見覚えはない。
考える守矢の隣で、藍は沈んだ声で呟いた。
「特災機関、元戦闘部隊隊員、水崎祈(みさきいのり)さん――高機動戦闘員、選抜者第三号です」
女性を見つめていた守矢は息を呑み、目を見開いたまま固まった。
どちらも声を上げず、心電図の規則正しい音だけが、静まりかえった病室で空しく鳴り続けている。一度、窓の外で、鳥の羽ばたく音が聞こえた。
「水崎さんは一年前……『Peace Maker』との戦いを終えた数日後に、倒れました。その一週間後、ここに入院され、それからずっと植物状態です」
藍は呆然と立ちつくす守矢の横を通り抜け、ベッドの側に立つと、骨張った水崎の手にそっと触れた。その指先は小刻みに震えていた。
守矢は信じられないものでも見るように、改めて水崎の顔を見下ろした。
今は痩せ細っているが、よく見れば目鼻立ちは端正で、元気であった頃の美しさの面影をわずかながらに残していた。
「どうして、こんな」
ようやく出た守矢の声は掠れていた。驚きで口の中の水分が失われている。
藍は水崎の手を元に戻すと、涙で濡れる目を守谷に向けた。
「……行きましょう」
昨夜のように涙を隠そうとはせず、守矢を促して静かに部屋を出る。守矢が廊下に出ると、背後で鳴った電子ロックの音が、人気のないフロアに響いた。
堪えていたものを全て外に出すように、藍が大きく息を吐く。そのまま暫く俯いていたが、守矢は何も言わずに藍の背を見つめた。
やがて袖で涙を拭い、顔を上げると、藍は赤い目のまま振り向いた。
「すみません」
守矢が口を開く前に、藍は踵を返して歩き出した。他の職員が呼んだのか、エレベータは階下に降りている。扉の前で並んで待ちながら、藍が口を開いた。
「分かっていただけましたか。前任の高機動戦闘員が、もう戦えないという理由」
「……他の連中は?」
疑問の視線を受けても、藍は真っ直ぐにドアを見据え、目を離さなかった。
守矢達が戦った高機動戦闘員は、全部で三人いた。
そして今朝、藍は『死んでいる者もいる』と言っていた。
「……亡くなったのは、一名だけです。水崎さんを含めて、二名は生きています」
死んだのが一人と聞いても、守矢の胸の内には安堵が訪れなかった。寧ろ不安の方がさらに大きくなっていく。それを肯定するかのように、藍が続けていった。
「亡くなったのは、選抜者第一号、雨田龍司(あまだりゅうじ)さん。戦いが終わってから、暫くは昏睡状態でした。ですが目が覚めた時には、既に精神に異常を来していて……叩き割った硝子の破片で喉を切り裂いて、自殺しました。生存しているのは、選抜者第二号、南雲旭(なぐもあきら)さんです」
感情を押し殺したように、藍は抑揚のない声で淡々と語った。
「……そいつは? 何ともないのか?」
「南雲さんも、雨田さんと同様に精神に異常が現れましたが、自殺はしませんでした。しかし誰が敵で誰が味方なのか、区別がつかなくなっていました。他人の言葉に耳を貸さず、常に怯えて、時折酷く暴れることがあるんです。病院職員にも、怪我をした方がいます。そのため、今は別の施設で隔離されています」
「……治る見込みは?」
藍は黙って首を振った。
あまりに酷すぎる現実だった。
吐き気がするほど苛立っているのを、守矢自身はっきりと感じた。体が震えるのはフロア全体が寒々しいためではない。強く歯を噛みしめたが、震えは止まらなかった。忌々しげに溜息を吐いて、天井を見上げた。
これが現実ならば、知りたくなかった。
病気や事故で死んでいた、という方がまだ素直に受け入れられる。だが目の前に突きつけられたのは、脳死に発狂、狂った末の自殺という、澱んだ現実。
――これが、英雄(ヒーロー)達の末路なのか。
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