第7話 付き合ってよ

 水分補給をしてふう、と落ち着くと、お父さんがフィナンシェを眺めながら教えてくれた。


「このはちみつのフィナンシェはたしかにおもしろいね。けど好みが分かれる味でもあんだよ。それと原価がかなり高いから。まあ店に採用するのはあんまり現実的じゃないね」


 原価……。難しそうだな、と思って聞いていると「天美さん」といきなり呼ばれてびくり。


「これ使うの家の人にはいいか聞いた?」


「あ……はい。もらったものだし使わないからいいよって」


「なるほどね。けどこれ、そのへんのスーパーで買えるはちみつの10倍以上の値段するから。家の人にも教えてあげるといいよ」


「え……!」

 じ、10倍以上……!? 驚いた。そして沢口くんが『ウマイ』と反応したのはこれが原因だったんだ。


「それから」


 言いつつお父さんは遠慮なくフィナンシェをつまんでぱくりと食べた。い、いいですけど。


「今回はなんの問題もなく済んだからいいものの。厨房を子どもだけで使うのは絶対に禁止。ましてかまを使うなんて有り得ねー話だよ。ほんと。火傷やけどくらいで済めばまだマシ。最悪火事にだってなりうる。下手すりゃ死んじまうってことだよ」


 し、死んじゃう……?

 言葉のあまりの重さにクラクラした。

 ちなみに『かま』というのはオーブンのことだそうです。


「翔斗。おまえにはちゃんと教えてたはずだけど。忘れてたとは言わせない。だとしたら今からでも肝に銘じろ。今日おまえがやったことは、天美さんを危険な目に遭わせたのと同じこと。窯の温度は何度だよ? 沸騰した湯より遥かに熱い。おまえらみたいな子どものやわい手なんか一瞬かすっただけで火傷やけどする。そしたら無茶苦茶痛いし何年も跡が残る。場合によっちゃ一生消えないもんになる可能性だってある。関節だったらうまく曲がらなくなることもある。そのせいで字が書けなくなったら? 箸が持てなくなったら? おまえじゃなくて、天美さんがそうなったら? つぐなえんの? なにしても許されないよ。死ぬまで背負うんだ。そんな危険を犯したんだよ。おまえは。このフィナンシェだけのために」


 怒鳴るわけではなく、淡々と。それを前に沢口くんはじっと黙っていた。その目にじんわりと涙が溜まっているように見えて、わたしは慌てて視線を外す。


「天美さんも。人んちの方針にまで口出しするつもりはないけど、コンロだけじゃなくオーブンもなるべく大人と一緒に使ってね。『絶対安全』なんてことないんだから」


 はい、と深く頷いた。


「で。翔斗の処遇は」


 話しながらお父さんは熱の取れたフィナンシェを美しく箱詰めしてくれていた。はい、持って帰る分ね。今食べる分はこれ。と。


「ひと月は厨房への出入り一切禁止。どんな理由でも。見学はもちろん、通過すんのも、トイレも使用禁止」


「えっ……」


 ずっと黙っていた沢口くんがかすれた声で反応した。


「なに。文句ある?」

「……」


「もし破ったら、小倉おぐらの実家に一年間島流しの刑」


「……は!?」


 『小倉の実家』とは市外にある親戚の家だそう。


「学校は?」

「当然転校だろ。あとあの家はオーブンとかもないから。菓子作りとかはまず絶望的だろーね」


 聞くや沢口くんの顔がさっと青ざめた。



 フィナンシェを受け取ってお父さんにお礼を言うと「懲りずにまた来て」とステキな笑顔を向けてくれた。お店を出ると蹴り出されるように促されて沢口くんが家まで送ってくれることになった。おお……。


「……悪かったな。説教にまで付き合わせて」


 悔しそうにしながらぼそぼそと言う。悪い気はしつつ、少し笑ってしまった。


「笑うなっ」

「ご、ごめん。だって」


 いつもスカしてる沢口くんのこんな一面が見られるなんて。


「……はー。おれやっぱ父さんキライ」

「憧れてるんじゃないの?」

「ないよ」


 きっばり答えるとまた「はーあ」とため息をついた。


「おまえさ」

「あーまーみっ」

「……杏子、さ」


 な……。いきなりそんなの反則では。


「パティシエになんない?」

「へ……」


 その顔を見ると、夕陽を写す真剣な瞳があった。


「おれに付き合ってよ」


 ふわ、と甘くツツジが香る初夏の風が抜ける。長く伸びたふたつの影。そこはもうわたしの家のすぐ前だった。


「考えといて」


 微笑んで言うと「じゃーな!」と片手を挙げて今来た道を駆け戻っていった。




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