第2話 本物のフィナンシェ
帰ってからレシピ本を見返した。
①鍋に分量のバターを入れて中火にかけ、焦がしバターを作ります。
わかってたもん。だけどひとりでお菓子を作る時、ガスコンロは使っちゃいけない約束なんだもん。
あとうちにはこんな長四角の型なんかない。べつに趣味のお菓子作りなんだし、型なんてなんだっていいじゃん。
『バター少なすぎ。パサパサ』
それも。本の分量に足りてなかったのはたしか。だって冷蔵庫になかったんだもん。だけど充分おいしくできたよ?
おいしく……。
ほとんど友達にあげちゃったけど、ひとつだけは残して持って帰ってきていた。
そっと袋から取り出して、カップを外してひと口。冷たいもさもさ。んん……。やっぱりおいしくない。
おいしくない。フィナンシェじゃない。
ごっつーん! と思い切り殴られたみたいな気持ちだった。なんでこんなに痛いの。それはわたしがこれまで、作ったスイーツを誰からも否定されたことがなかったから。
〈沢口
それがアイツの名前。クラスではそんなに目立っているわけじゃない。転校してきたばかりで友達もいないのか、休み時間もいつもひとり。辞典みたいな分厚い本を読んでいたり、なにかをノートに一生懸命書き込んでいたり。
ネクラくん……?
かと思いきや。それはある日の体育の授業でのことだった。
「げえー。跳び箱やだぁ」
「わかる。あたし前に突き指したんだよね。ちょー痛くて最悪だった」
そうグチるみんなの横を、す、と光速で『なにか』がかすめる。
と、
たん、
……ととん。
「……え!?」
「うそ……八段……跳んだ!?」
「しかもめっちゃキレイじゃなかった?」
「えー、なになに!?」
「すげー沢口!」
「うわ、かっこい!」
ネクラくんがスポーツ万能ってどういうこと? し、か、も!
「今回の算数のテスト、難しかったけどな、なんと……満点が出た。沢口!」
うそだとおっしゃい。なんと頭脳まで優秀ときたもんだ。
そんなわけで4月の初めには「変なヤツ」とウワサされていたはずのアイツは、その優秀な成績と整った顔のおかげもあってか男子からも女子からも、ついでに先生たちからも一目置かれる存在になっていた。
むう。気に食わないなあ。
だってアイツは。
「そこ邪魔。どいて。フィナンシェさん」
「わたしは
あの日以来わたしのことをそんな変なふうに呼んでくるんだよ!?
「ていうかごみ捨て行くなら向こうの階段からの方が近いのに」
「ちゃんとしたフィナンシェ、作んないの?」
「な……」
「つか食ったことないんでしょ? 本物のフィナンシェとか」
「あ……あるもん! たぶん」
「ふうん」
そうじの時間にそんな会話をした、次の日のことだった。
「はい」
「え」
「やる」
「え」
「フィナンシェ」
「え!?」
固まるわたしに、そいつはそれを押し付けていった。
ぎゅっと握られていたせいでか、ちょっと潰れている。それはどこかの洋菓子店で買ったみたいな〈本物のフィナンシェ〉だった。
「こ、こんなの、もらっていいの!?」
慌てて言ったけど相手はもうどこにもいない。結局返すことも叶わずわたしはそれを家に持ち帰った。
少し、ためらいつつ、小さなその袋を開けてみた。
わあ、開けた瞬間からなんていい香りがするんだろう。
ガマンできなくなって、ぱくり。
サクサク、ほろりと溶けて、じんわり甘く、こっくりと濃い。深い味……。
「ん、んんんん……」
これが、本物。本物のフィナンシェ。
「しゅんごい……」
わたしの作ったやつとは完全にベツモノだった。
「あら? ねえ杏子、これあんたのゴミ?」
「え、ああうん」
「おともだちからもらったの? 焼き菓子?」
言いながら袋の裏に貼られたシールを調べるママ。
アイツがおともだち……なわけない。天地がひっくり返っても有り得ない。
「この前フィナンシェあげたからお礼に……かな」
本当はあげたんじゃなくて勝手にとられたんだけどね。くう。思い出すとまたムカつく。
ママは「ふうん」と答えてから「これって」と袋を見たままわたしに言う。
「最近そこにできたケーキ屋さんのじゃない? ほら、そこの橋越えた先の」
〈シャンティ・ポム〉
それがそのお店の名前だった。わたしがいつも通学路として通る道とは逆方向だから、近所でもあまり印象にはない。
「ふうん」とだけ返した。やっぱりケーキ屋さんのだったんだ。それならおいしいに決まってるじゃん。
でもなんでそんなものをわたしにくれたんだろう? わざわざ買ってくれたの? ひどいこと言ったお詫び? まさかね。
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