第8話「哲郎は自分の理想の絵を完成させ、理想の死を遂げた」
第1章 情熱の画家
哲郎はいつも芸術の世界に惹かれていた。少年時代、彼は何時間も部屋にこもって絵を描いていた。両親は彼の創造力には感嘆していたが、同時に将来を心配していた。経済的に安定した、より実用的な職業に就かせたかったのだ。
しかし、哲郎はお金にも安定にも興味がなかった。彼は世界の美しさ、色や形が組み合わさって新しいユニークなものを生み出すことに興味があった。彼はその美しさを自分なりにとらえ、芸術を通して自分自身を表現したかったのだ。
成長するにつれて、哲郎は抽象画に集中するようになった。彼は、色や形が、たとえ主題が分からなくても、動きや感情の感覚を生み出す方法に魅了された。彼はさまざまな技法やスタイルを試し、常に新しく革新的なものを生み出そうと自らを奮い立たせた。
その努力は実を結び、やがて日本を代表する抽象画家として認められるようになった。彼の絵は日本中のギャラリーや美術館に展示され、遠くから彼の作品を見に来る人もいた。
しかし、哲郎は決して満足しなかった。何かもっと深いもの、もっと意味のあるものが常にあると思い、それを追い求めた。彼は自分の芸術がライフワークだと考えており、それを最高のものにしようと決意していた。
彼は山の中のアトリエに引きこもるようになった。創作には孤独と静寂、そして空間が必要だと考えたからだ。彼は何時間も物思いにふけり、次の絵の構想を練り、そして夢中で描いた。彼は完全に芸術に没頭し、他のことはどうでもよくなっていった。
娘の愛子はそのことを知っていた。彼女は父が絵に没頭する姿を見て育ち、芸術のために苦悩し、葛藤する姿を見てきたからだ。彼女は父の情熱を尊敬していたが、同時に心配もしていた。完璧を追い求めるあまり、健康をないがしろにしていることを。
そしてある日、彼女の懸念が最悪の現実となった。アトリエで意識を失い、血を吐いて倒れている父を発見したのだ。彼女はあわてて救急車を呼ぼうとしたが、哲郎は意識を取り戻し、それを拒否した。医療行為で無理やり延命されるくらいなら、自然に死んだほうがましだと断言したのだ。
「でも、パパ、このままじゃ本当に死んじゃうよ!」
「それでいいんだ、愛子。医療で無理やり延命するより自然に寿命で死んだ方がいい」
「でも、それじゃ、パパ、絵を完成させられないよ!」
「それでもいい。どのみち病院に閉じ込められたら、俺の絵は描けない」
愛子は父の言葉に唖然としたが、父が信念の人であることも知っていた。彼は常に自分の芸術に忠実であり、妥協するつもりはまったくなかった。父の抽象画への情熱は、彼の人生であり、存在理由だった。
それから数日間、愛子は父の病状が悪化するのを見守った。咳が止まらなくなり、どんどん弱っていった。しかし、苦しみの中でも父は絵を描くことを止めなかった。抽象画への情熱に突き動かされ、たゆまぬ努力を続けた。
愛子は治療を受けるよう説得したが、彼は拒否した。愛子は彼の抽象画への情熱に圧倒されたが、それ以上に心配だった。父の情熱と自分への愛情の間で葛藤していた。彼女が願うのは、ただ彼が芸術と健康を両立させ、画家として長く充実した人生を送る方法を見つけることだけだった。
結局、哲郎の抽象画への情熱は、祝福であると同時に呪いでもあった。それは彼に目的意識と充実感を与えたが、同時に彼の健康にも深刻な影響を与え続けたのだ。
しかし、そのような状況の中でも、哲郎は自分自身と自分の芸術に忠実であり続けた。決して妥協せず、あきらめなかった。抽象画への情熱が彼を突き動かした。そして結局、その情熱がすべてだった。
第2章 娘の愛
哲郎の病状が悪化するにつれ、愛子はますます絶望的になっていった。父の抽象画への情熱が彼を支え続けていることは知っていたが、同時に早く治療受けさせなければと思っていた。愛子は、芸術よりも健康が大事なのだと父を説得しようとしたが、父は聞く耳を持たなかった。
愛子は、父の情熱と頑固さに挟まれ、無力さを感じた。何かしなければと思ったが、何をすればいいのかわからなかった。彼女は何時間も父のアトリエに座り、父がもがき苦しみながら絵を描く姿を見ながら、日を追うごとに無力感を募らせていった。
そしてある日、彼女は思いついた。自分の芸術への情熱を、父親を助けるために使うことができると。彼女は昔から絵を描くのが好きだったし、その才能もあった。もしかしたら、ただ抽象的な絵を描くだけでなく、人生にはもっと多くのことがあるのだということを父親に伝えるために、自分の芸術を役立てることができるかもしれない。
愛子は小さな水彩画やスケッチから始め、それを父親に見せて意見を求めた。最初、父は愛子には才能がない、そんなことをしても無駄だと言い放った。しかし、愛子は粘り強く、どんどん作品を見せていった。
彼女の絵を見ているうちに、哲郎は新しい方法で世界を見るようになった。光と影が風景を戯れさせ、色彩が混ざり合い、新しいユニークなものを生み出す。彼は、愛子の絵に一定の評価を与えるようになった。
愛子は、自分の作品に対する父の新たな評価を目の当たりにして大喜びした。それは小さな一歩に過ぎないが、正しい方向への一歩であることを彼女は知っていた。愛子は絵を描き続け、自分の作品を父に見せ続けた。
だが結局愛子の絵は哲郎を変えることはできなかった。彼は以前と変わらぬ情熱をもって絵と向き合い、その魂と肉体を酷使し続けたのだ。そして愛子はついに哲郎の幼馴染である東郷次郎に助けを求めることにした。
第3章 不都合な患者
東郷次郎は長年ホスピスで働き、医療を拒否する患者を何人も見てきた。彼らの恐怖や願望、尊厳や自立を守りたいという気持ちを理解していた。しかし、時には患者の苦痛を和らげるために医療的介入が必要なことも知っていた。
久しぶりに哲郎のアトリエを訪れた次郎は、彼の抽象画への情熱に心を打たれた。もちろん、これまでも哲郎の作品を見たことはあったが、これほどまで間近で見たことはなかった。哲郎のアトリエの壁に並んだ絵を見ながら、彼は畏敬の念と驚きを感じた。そこには言葉では言い表せない何かがあった。
愛子が父のことを心配していることは知っていたが、哲郎がまた頑固な男であることも知っていた。彼はいまだに、機械に生かされるよりは自然に死ぬ方がましだと言って、治療を受けることを拒んでいた。次郎は哲郎の意思を尊重したが、病状が悪化していることも知っていた。
それから数週間、次郎は定期的に哲郎のもとを訪れ、容態を確認し、慰め、支えた。哲郎が自分の芸術について、周囲の世界の美しさと複雑さについて語るのを聞いていた。彼は哲郎の絵が無形の何か、言葉を超えた何かを捉えているように見えることに驚嘆した。
次郎は哲郎の情熱を賞賛したが、同時に医師として心配もしていた。次郎は哲郎に治療を受けるよう何度も諭したが、哲郎は拒否した。哲郎はあくまで自分の人生を生き抜くつもりだった。
そしてついにその日が訪れた。哲郎の容態が急変し、ベッドから起き上がれなくなったのだ。次郎は手当てが必要だとわかっていたが、哲郎がそれを拒否することもわかっていた。哲郎の苦しみを和らげるために何もできない無力さを感じていた。
しかし、そのとき奇跡的なことが起こった。次郎は哲郎の枕元に座り、彼の描いた絵を鑑賞していた。彼は哲郎の芸術の美しさと力を見たが、同時にその下にある苦しみと葛藤も見た。それは画家の魂の反映であり、人生の美しさと複雑さを表現していた。そしてその瞬間、哲郎の抽象画への情熱が単なる世界の見方ではないことを知った。生き方であり、在り方そのものなのだ。
次郎は何時間も哲郎の枕元に一緒に座り、彼の絵を鑑賞し、彼の芸術について話した。哲郎が世界の美しさについて、色と形が組み合わさって新しいユニークなものを生み出す方法について語るのを、彼は耳を傾けていた。
愛子の懸命な在宅介護と、次郎のたゆまぬ支援によって、哲郎は小康状態を保っていた。苦しい息のもとでも、哲郎はやはり芸術への情熱は失っていなかった。
第4章 画家の決断
哲郎は自分にもう時間がないことを悟っていた。しかし体が徐々に衰えていくにつれ、逆に頭の中はますますクリアになり、どんどんと良い絵が描けるようになっていくのが自分でもわかった。アトリエで何時間も抽象画を描き、色と形の世界に没頭していった。あふれ出るアイディアについてこない、自分の鈍重な腕が恨めしかった。
愛子は自分の考えに悩んだ。彼女は父を深く愛していたが、画家としてではなく、父親として自分のために生きてほしいと切実に思っていた。父の芸術が彼にとって大切なものであることは分かっていたが、父が娘としての自分を大切にしてほしかった。愛子の目からは今の哲郎は、キャンバスにしがみつく骸骨のようにさえ見えていた。
ある日、アトリエを訪れた次郎はなぜ哲郎がそこまで頑強に治療を拒むのか詰問した。
哲郎は黙っていたが、やがて重い口をひらいた。
「夏美は医者に殺されたんだ」
「え?」
愛子ははっとして息を呑んだ。夏美は哲郎の妻であり、愛子の母だった。
十年前突然くも膜下出血で自宅で倒れ、そのまま救急搬送され、集中治療室に入れられたが、治療の甲斐もなく、意識を取り戻さないまま2週間後に旅立ってしまったのだ。
「俺はコロナで満足に面会もできず、ただ遠くからテレビの映像の中で、管だらけで苦しむあいつの姿を見ることしかできなかった」
哲郎はぎりりと奥歯を噛んだ。次郎は黙ってそれを聞いていた。
「医者は意識レベルがさがっているから夏美にはもう苦しみはないと言った。だがそんなことがどうしてわかる! 俺にはわかるんだ! あいつはまだ生きたい、俺と愛子を遺して死にたくない! ずっとそう訴えていたんだ! それ以上の苦しみがどこにある!」
哲郎はどん、とパレットを叩いた。絵具と絵筆が不規則に飛び散る。愛子は流れる涙を止めることができなかった。
「よく判ったよ、哲郎……。お前が夏美さんのことで、延命治療を受けたくないのはわかった。だがせめてモルヒネでその痛みだけはとらないか? 絵が描けなくなっては本末転倒だろう?」
「……俺は医者の世話にはならない」
「強がりはよせよ、哲郎。お前、もう、思うように腕を動かせないんだろう?」
「……」
「適切にモルヒネを調節して投与すれば、意識は明瞭なままで痛みだけはとることができる。絵が描けなくなってしまっては本末転倒だろう?」
次郎は真摯に訴えた。哲郎は沈黙していたが、やがてじろりと次郎を睨んだ。
「本当にそんなことができるのか?」
「ああ、まかせてくれ」
結局哲郎は次郎の提案を受け入れた。哲郎はどうしてもこの最後の絵を描き上げたかったのだ。愛子は次郎の配慮に心から感謝をした。
第5章 そして芸術は、結実する
それから三日後。
哲郎はついに絵を完成させた。
最後の一筆を入れ、彼はキャンバスから数歩下がり、自分の作品を満足そうに眺めた。それはまさに哲郎の魂そのものだった。
「そうだ、これだ……」
背後にいる愛子に語りかけるでもなく、哲郎はそう呟いた。
「俺はこれを描くために生まれてきたんだ……」
そういうと哲郎はゆっくりとその場に頽れた。
愛子は急いで父のもとに駆け寄ったが、哲郎はすでに絶命していた。彼の顔はこの上ない満足感と幸福感に満ちていた。彼はついに完成させたのだ。自分の人生を。
やがて愛子の連絡を受けた次郎がアトリエに駆け込んできた。
そして彼も哲郎の穏やかな死に顔を目の当たりにした。
愛子はそんな父の顔を撫でながら、次郎に言った。
「父は最後までわがままでした。でも父はちゃんと自分の人生を生ききりました」
「そうですね、僕もそう思います。哲郎はすごい。僕はとても真似ができない」
「東郷先生、最期までほんとうにありがとうございました」
「それはこちらの台詞です。僕は哲郎と愛子ちゃんから、本当に大切なことをいっぱい教わりました」
長い間、愛子と次郎は哲郎のそばを離れることができなかった。彼が安らかな表情で眠っている間、二人は彼の抽象画に囲まれて座っていた。そう、哲郎の精神は、哲郎の絵の中で永遠に生き続けるのだ。
(了)
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