人生は終わるときこそ、本当に始まるのです。

藍埜佑(あいのたすく)

第1話「平凡でありふれた人生を全うしたジョン」(一話完結ショートストーリー形式)

 私はホスピス医としてさまざま人の最期を充実したものとするため尽力してきた。その経験は私の大切な宝物だ。その宝物をぜひあなたと共有させていただきたい。一緒に、人生とは何か、命とは何か、考える時間をしばらく持ちたいのだ。


 その患者……仮にジョンと呼ぶことにするが、彼は心優しい中年の男性であった。彼は人生の大半を小さな会社の経理担当として過ごし、結婚したことはない。小さなアパートで一人暮らしをしており、暇さえあれば本を読み、小旅行をしていた。


 ジョンの子供時代は、控えめにいっても貧困とネグレクトに満ちた厳しいものであった。両親はともにアルコール依存症になり、ジョンはしばしば自活を余儀なくされていた。しかし彼は不屈の闘志と不断の努力によって学校では優秀な成績を収め、会計学の学位を取得するまでになった。


 それにもかかわらずジョンは、生涯を通じて孤独感や孤立感に悩まされてきた。それは彼の子供時代の育成環境から必然とさえ言えた。他人と親密な関係を築くことができず、常に部外者のように感じていた。年齢を重ねるにつれ、自分の人生の目的、会計士としての仕事に本当の意味があるのかどうか、疑問を持つようになった。


 そんなジョンが初めて胃に違和感を覚えたのは、公園を散歩しているときだった。最初は胃炎かなにかだと思ったが、日が経つにつれて痛みは増していった。結局、病院で診察を受けたところ、末期のスキルス胃がんであると診断された。青天の霹靂だった。


 しかし、彼は勇気を持って病気と向き合おうと決心した。そして、友人と過ごす時間を増やし、昔の知り合いとも再会した。また、地元の教会に通ったり、東洋哲学の本を読んだりして、自分の内面世界・精神世界を追求するようになった。体が動く限り会社に通勤した。


 だがジョンの病状が悪化したため、ホスピス施設に入院し、医師と看護師のチームによってケアされるようになった。この時、彼の担当医として、私は初めて彼に会った。


 あるセッションで、ジョンは私にこう言った。


「死ぬのは怖くないんだ。たとえ楽なことばかりではなかったとしても、僕は良い人生を送ってきたと思うから」


 私はジョンに、"良い人生 "とはどういう意味なのか訊いてみた。


「僕は正直で誠実な生き方をしようと思ってきた。自分に対しても、他人に対しても。そして、たとえ衆目を集めるような仕事でなかったとしても、自分の仕事に意味を見出そうとしてきた……それだから……だから……」


 ジョンの声からは悲しみが感じられたので、ためらいがちではあるが、後悔はないかと質問してみた。


「そうだな……自分の壁を破って、もっと親密な人間関係を築いておけばよかったと思うよ。それだけが心残りかもしれない。でも最近は人にはそれぞれの個別の人生の道があるのだと思うようになった。もしかしたら、僕はこうして孤独を愛する運命だったのかもしれない。でも、自分をかわいそうだとは思わない。本当に良い人生を送れたと感謝している。これは強がりじゃないよ」


 ジョンの体調が悪化し続ける中、ある日彼を担当していた看護師が訪ねてきた。


「今日の気分はどうですか、ジョン?」と看護師は尋ねた。


「安らぎを感じています 」とジョンは言った。だがその息は苦しそうだった。


「自分の時間が終わりに近づいていることは分かっています。怖くはありません。私は私の人生を生きた。それで十分だ」


 看護師はうなずき、ジョンのベッドの横に跪いた。


「あのね、ジョン さん」と彼女は言った。「私は看護師として多くの患者さんを見てきたわ。それであたし、思うんだけど、人生で最も大切なものは、富でも成功でも名誉でもないのよ。最終的には愛なの。それがすべて。そう、それがすべてなのよ」


 ジョンははっとした表情を浮かべた後、かすかに微笑んで看護師を見つめた。彼女はそれに優しくうなずいて応えた。


「そうだね。あなたの言う通りだ。愛こそが最も大切なものなんだ。この歳になって、それは本当に痛感するよ。たとえ私の人生でそれが思い通りにならなかったとしても、こうして今あなたに愛をもって接してもらっている。それで十分。それで十分なんだ……そう……」


 ジョンの言葉に涙が混じり、最後はよく聞き取れなかった。彼女は頷き、二人はしばらくの間、黙っていた。


「あのね、ジョンさん」と再び彼女は言った。


「あたしね、ジョンさんは満ち足りた、平和な気持ちでこの世を去れるような気がしてるの。そしてそれは稀有な才能なんだと思う。あたしが見てきた中でも、それを成し遂げられた人はそう多くはないもの」


 ジョンは目を閉じ、深呼吸をした。それはまるで深い瞑想に入った修行僧のような表情だった。やがて彼は言葉を紡いだ。


「……準備はできている 」


 彼の言葉に揺るぎはなかった。


「今まで本当にありがとう。感謝している。……しばらくひとりにしてくれないか?」


 彼女はうなずいて、部屋を出て行った。


 ジョンがもう一度目を閉じたとき、彼女は彼の人生の美しさに畏敬の念と驚きを感じずにはいられなかった。彼は優しさと勇気をもって生き、苦しみの中に意味を見いだした。そして他人から見ればごくごく平凡な人生の中にかけがえのない宝石を見つけたのだ。



※この物語はフィクションです。いかなる実在の個人・団体とも関係ありません。


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