39.木枯らし

 コンクール前日。


 放課後の学校で音楽室の扉が解錠される。


「菊永さん今日はすぐ帰るんでしょ?」


「はい、感覚だけ確認したら帰ります」


 普段通っている近所のピアノ教室にはグランドピアノが置いていないため、理瑛はこうしてたまに学校のグランドピアノを借りて練習していた。


「うんそうね、こういう時は明日に備えて早く寝るのが一番いいと思う、じゃあ今日は私会議でたぶん戻ってこれないから、鍵は自分で職員室に返しといて」


「はい!」


 担任が音楽の教師だと話が早くてありがたい。


 遠くなっていく担任の足音を消すように扉を閉め、スクールバッグを二番目に近い机の上に放る。


 ここからが私の時間だ。


 手首と指の準備運動を入念にしながら、貸切の音楽室を意味もなく練り歩く。


 窓から下校する同級生達の後ろ姿を見ると、この時間がより特別なものに思えた。


 よし、やるか。


 カーテンを閉め切り肺の空気と肩の力を抜くと、静かに浅くピアノに向かって腰を落とす。

 

 そして一呼吸を置いた後、本番と同様に選んだ三つ課題曲を順に弾き始めた。


 グランドピアノの特有の深い響きに耳を集中させ、一音一音の強弱を確かめていく。


 うん、いつも以上によく弾けてる……これなら明日の予選は……。


 その時、理瑛の演奏にいきなり大きな雑音が混じった。


 何……?


 扉が開かれた音だ。この音楽室に誰かが入ってきている。


 しかし理瑛の指はいっさいの滞りもなく流れ続けた。それは誰に聞かれても恥ずかしくない演奏をしているという自信と、この程度のことで動揺するわけにはいかないというプロ意識からだった。


 落ち着いてゆっくりとすました顔を上げ、視界の端で訪問者の姿を捉え――。



「高比良くん!?」



 指は一瞬で絡まり、外れた音が間延びして響く。


 高比良彩人、芸能人ですら霞んでしまうほど究極に整った容姿を持つ彼は、年頃の乙女なら意識をしないほうがおかしい存在だが、昨日の出来事からは特に底のしれない彼の人間性への興味が強くなっていた。


「ど、どうしたの……?」


 男女問わずほとんどのクラスメイトと親交のある理瑛だが、高比良くんとはまだ日常会話すらろくに交わしたことがない。

 そんな彼が昨日の今日で私の目の前に現れたのだ、要件はあの女性のことで間違いないだろう。


「えっと、わかんないけど……もし昨日のことだったら大丈夫だよ、誰にも話してないから……」



「25の11」



 え……?


 彼の口から聞こえてきた言葉は、理瑛の予測からは大きく外れたものだった。


「わかるの……?」


「うん、ショパンのエチュードの中でも一番好きな曲だから」


 F.Chopin:Etudes Op.25 No.11 木枯らし


 たしかに『木枯らし』は少し知識のある人間なら名前ぐらいは知っていてもおかしくない名曲だが、オーパスナンバーまで覚えている人間となるとごく稀だ。


「明日のコンクールって予選でしょ? それにしてはずいぶん難しい曲の練習してるんだね」


 本当にわかるの……? わかってくれるの……?


「あ、えっと、私結構右手動くから相性いいかなって思って……! 最初は少し後悔したけどやっぱり難しい曲のほうがモチベーションも上がるし……!」


 高揚した理瑛は、つい早口でまくしたてるように話してしまう。


「高比良くん、クラシック好きなの……?」


「母さんがピアニストだったんだ」


「え!? 本当に!?」


 そんなことって……!


 これからもきっと関わることのない思っていた高比良くんとの衝撃の共通点に、理瑛の気持ちはこれ以上ないほどに舞い上がってしまう。


「え、じゃあそのピアニストのお母さんって、もしかして昨日学校来てたあの人!?」


「え、あれが……? んなわけないじゃん」


 珍しく笑顔を見せる高比良くん。


 つられるように理瑛も笑った。



「俺の母さんはもう死んでるよ」

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