33.悲劇のヒロイン

「すごい、鏡と同じ味だ」


 高比良くんは親指から流れる血を舐め取ると、なぜかその味を鏡に例えた。


「お金払うから、もうやめて……」


「え、お金? それっていくら? このホテルの一泊分でも払えるの?」


 大きな瞳を見開いて、ソファーに倒れる私に詰め寄る。


「ごめんなさい……お願いだから、もう許して……」


「は? なに悲劇のヒロインみたいなこと言ってんの? 悪いのは気持ちの悪い絵を描いてた美紗子ちゃんで、痛いのはピアスを開ける俺なんだけど」


 私の脳みそで考えるような言葉では何を言っても逆効果、高比良くんの語気はどんどん強くなっていく。


「仕方ないから夢見がちな美紗子ちゃんに教えてあげるね、現実はそんなに甘くないってこと」


 そう言うと高比良くんは人差し指を私の下顎に引っ掛け、血の流れる親指を唇に押しつけてきた。


「ほら間接キスだよ、よかったね」


 どうして……わかってたことなのに……。


「あれ? 泣くほど嫌だった?」


 高比良くんは私のことを女として、対等な人間として見ていない。


 今朝まで当たり前のことだと理解していたはずの現実が、自分でも気づかないうちに受け入れ難い苦しみに変わっていた。


 私に甘い言葉をかけたのは近所の野良猫を撫でるようなものだったのだろう、けして餌はやらないし、飼いもしない、家に帰ればいつもより念入りに手を洗い、記憶も一緒に流して忘れる。


 高比良くんにとって私はその程度の存在。



 それなら……一回くらい噛みついてみても……。



「うんそうだね、全部高比良くんの言う通りだよ、わかった私頑張るね……!」


「あっそう?」


 涙を袖で拭い、血で滑らないようにしっかりと安全ピンを握る。


「はい、耳こっち向けて」


 わずかな力を振り絞り、高比良くんの右耳に手を伸ばす。


「いい顔するね、もしかして吹っ切れた?」


 今日初めての笑顔を作って見せると、高比良くんも優しく微笑み返してくれた。


「でもね美紗子ちゃん、俺が見たいのはその顔じゃないんだ」


 伸ばした手首が静脈の浮かぶ骨張った手に包み込まれる。


「ちょっと危な――」


 手首を握る力が突然強くなり、腕は頭より高い位置に強引に引かれた。


「ばーか」


 バランスを崩し、そのまま倒れるように身を預けると、油断した唇が明確な悪意によって奪われる。


 私のこと、そんなに嫌い……? 


 私のしたことって、そんなに悪いこと……? 


「ねえどうして……!」


「なんだ全然吹っ切れてないじゃん、一生懸命強がってたんだ、女の子だねーよしよし」


 大げさに私の頭を撫でながら、ケラケラと声を出して嘲笑う。


「ごめん……なさい……」


 私なんかが好きになってごめんなさい。


「あーあ、また泣いちゃった、泣いたら許されると思ってるの? やめてよかわいいなー」


 涙の粒が溢れるたびに、高比良くんの口角は吊り上がっていく。


「うんいいよ、俺女の子の涙には弱いから、水たまりつくったら許してあげる」


 高比良くんは熱い息を吐きながら、シャツの第二ボタンを外した。


「そしたら、あの絵の続きを一緒にしようね」



 左耳につけられた黒いピアスは、乾いた血によって輝きを失っていた。

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