暁
暁①
男が吐いたため息は誰にも見留められることなく、冬の虚空の彼方へと消えていった。
男はアルバイトを終えて、いつもの場所に向かっていた。
かれこれこんな生活を10年は続けていただろうか。もはや時間の感覚も狂っていた。
男は毎日午後10時から午前5時までの7時間、自宅から徒歩20分のコンビニで深夜勤務をしている。通常毎日シフトを入れることはないそうなのだが、男だけは特別に毎日シフトを入れさせてもらっている。
家賃は安く、深夜勤務で時給も高いため、このアルバイトだけで男は生計を立てることができている。むしろ、貯金が貯まっているほどである。
男は経済的に困窮しているわけではない。自分の生活を自力で支え、自立ができている。人間として、社会人として最低限の生活水準は満たしている。
アルバイトでは店長とも同じ時間帯に働く店員とも分け隔てなく仲良くしており、店内では愛される立ち位置にいる。人間関係や人との接し方に難があるわけではない。むしろ、社交的なほどである。仕事もできる。
だが、男は人生の負け組であることは確かである。
働いてはいるが、所詮はアルバイト。10年も同じ場所で働き続けて時給も働き始めた当初よりも上がってはいるが、所詮はアルバイトである。正社員ではない。
20代後半にして同棲する相手もおらず、昼夜の逆転したアルバイト生活を送る男性を傍から見て人はどう思うだろうか。
男は社会人としての平均的な生活水準を明らかに下回っている。
つまり、客観的に見れば、男は相対的に生活の質が低い人間なのである。
ならば、男の主観ではどうだろうか。
10年も同じようなサイクルの生活をしていれば、その生活自体に愛着が湧くものであるが、男は全くもってそうではなかった。
男は自身の生活あるいはその人生に不平不満を抱いている。
誰よりも輝かしい人生を送ることを願い、欲し、そして自分以外の多くの人間に対して酷く嫉妬の念を秘めている。
太陽が顔を出す気配すら感じられない冬の早朝は、その凍えるような寒さが辺り一面の闇をより一層暗く染める。
男は中学生の頃から好きだったアーティストの音楽を携帯電話で流し、イヤホンで聴きながら闇の中を静かに歩く。
コンビニを出た男はいつもそのスタイルでいつもの場所に向かってまっすぐに歩く。
眠る街並を抜け、暗緑の生い茂る公園を抜け、木の階段や柵がしっかり施された山の遊歩道を上りきると、ベンチが一つだけ設置された展望場のような広場に行き着く。
男はそこからもう少し山の斜面を登っていく。今度は木の階段などない道なき道である。
草木をかき分け、足もしっかり踏ん張りながら斜面を登ると、一人分ほどのスペースの平地に辿り着く。もちろん腰を据えられるような椅子も街を一望できるような開けた景色もそこにはない。
そこで男は木々の隙間から垣間見える朝日を見届けるや否や、山を下って帰宅をする。
男の自宅は木造アパートの1階。玄関の前で肩に掛けていた鞄の小さなポケットから鍵を取り出し、それを使って自宅の中に入る。
家賃相応の手狭なその部屋で男はすぐに紙とペンを取り出し、高さ30cmほどのテーブルの上で何かメモを取り始める。
必死にメモを書いて思い出す限りのことを書き留め終えると、その場で気絶するように倒れて眠りにつく。
アルバイト後に廃棄されるコンビニ弁当を食べて以来、何も口に入れないまま男は午後2時から午後4時の間にいつも起床する。
起きた男はまず空腹を満たすために持ち帰ってきた廃棄コンビニ弁当をレンジで温め、床に直接置かれたテレビでワイドショーや再放送されるドラマを見ながら、それをテーブルに置いて食す。
男にとっての朝食を済ませると、シャワーを浴びる。
シャワーを浴びると、男は次にペンと原稿用紙を取りだして、今度は実家から持ってきた勉強机の上で背もたれつきの椅子に座って文章を書き始める。
男が用紙に書き始めたのは、小説である。
先程までコンビニ弁当を食しながらテレビを見ていた男がテレビを消して部屋の中を無音にして一心不乱に原稿用紙へと埋没していく。
その鬼気迫る様は年々凄みを増している。
今の男には外から聞こえる車の走る音や家電の作動音すら耳に入っていない。
男には作品内の世界の音しか聞こえていない。
ここから何も飲まず食わず午後十時の勤務時間まで椅子に座って書き続けるため、当初は、そのままアルバイトに遅れることがよくあったが、今となっては、執筆中の時間感覚までも洗練され、作業に没頭していても、いつ頃が午後10時であるか直感的に分かるようになった。
だがそれでも、10年間、男が書いた小説が売れたことはない。
10年間で得られた小説家としての収入は限りなくゼロに近い。
ならば、なぜ男は小説を書き続けるのか。
それは、男の過去を振り返る必要がある。
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