暁②

 時は男の小学校入学当初まで遡る。

 男は小学校1年生から野球を習い始め、ひたすら野球に打ち込む野球少年だった。

 野球とは経験こそが物を言うスポーツである。そのはずなのだが、男の上達はとてつもなく遅く、野球歴が男よりも短いチームメイトに次々と追い抜かれていった。

 結局、小学校ではレギュラーの座を獲得することができず、たまに代打や代走を任されるような補欠メンバーとして終わった。

 野球の腕はいまひとつだが、野球のことは人一倍好きだった男は中学校でも野球部に入部した。

 その中学校の野球部は巷では弱小として有名で、人数もギリギリ試合ができるほどの人数だったため、男は今度こそレギュラーになれると期待を胸に入部をした。

 だが、そんな男の夢も潰えることとなる。

 男が野球部に入部したその年に、その野球部の顧問が新しい先生に代わったようで、その先生は初回の部活動で「この野球部を強くする」と豪語した。

 そこから歴代最悪と言われるほど地獄のような練習メニューが組まれ、先生の宣言通り弱小野球部を強化するための練習の日々が始まったのである。

 身も心も崩壊しそうになるほどの練習内容に加えて、鬼のように厳しい顧問の先生。最初は突然訪れた悲劇に部員達は苦しみ、頭を悩ませ、中には逃げ出して退部する部員も少なからずいた。

 だが、部員達は徐々に自分たちの急成長する様を試合の中で実感していく。これこそがその教師の指導の賜物だったのである。

 そして、その教師の野球部への熱い思いを知ったとき、部員達の教師に対するイメージが一転し、部員達はどんな指導だろうと、その教師についていくことを決意するのである。

 練習は今まで以上に過酷さを増したが、部員達はその苦しさの果てに結果がついてくると信じ、日々集中して練習に励んだ。

 練習の成果とそれによる上達が積み重なり、全戦全敗の弱小野球部はついに公式戦で歴史的勝利を挙げることができたのである。

 相手は県大会にも何度も出場している強豪校であったことが部員達の急成長ぶりを物語っていた。

 しかし、全員が成長を遂げたわけではなかった。

 野球部の中で一人だけ、教師転入当初から全く上達しなかった部員が一人だけいた。

 それが男である。

 男は部員と同じく教師を信じて苦しい練習に耐え、一度も休むことはなかった。それに加え、自宅では毎日素振りを最低千回はした。

 急成長を遂げる部員達と同等またはそれ以上の練習量を積んできたはずだった。にもかかわらず、男と他の部員達との差は開くばかりだった。

 結局、中学最後の夏は全学年で合計10人の野球部で唯一男だけが補欠となった。

 最後の大会でチームは地区大会で優勝を果たし、県大会への出場権を獲得した。全戦全敗だった弱小チームが3年で優勝するほどのことだったため、とんでもない快挙である。

 監督でもある顧問教師も含めて全員で喜びを分かち合う中、男だけは心の底から喜びを享受することができなかった。

 継続は力なり。因果応報。努力を欠かさなかった者が報われないはずがない。

 切磋琢磨。研鑽。仲間の向上心は他の仲間の向上心を刺激し、敵チームのライバルや仲間内でのライバル同士が争い合うことによって、それが成長に対して互いに相乗効果を与える。

 努力し、競合することで人は、特に育ち盛りで伸びしろのある10代の若者達は目まぐるしい変化を見せる。実際に彼らがその例である。

 それは大抵の人間に当てはまるであろう。

 だが、全員が成長できるわけではない。

 弱小野球部にやってきた教師は彼ら部員に努力こそが成長の秘訣であることを証明した。

 が、一方でそれは、いくら努力をしても変わることのできない人間の存在も同時に証明していたのである。

 互いが互いを磨くことで互いに輝きを見せるだけではなく、研磨されたことによって、一度も輝きを見せることなく、ただただ摩耗していく者もいるということも証明していたのである。

 教師の指導によって男以外の全部員が変わり、野球部そのものも変わった。事実、結果も出した。そんな目映すぎるほどの栄光が微小な闇を包み隠したのである。

 男以外の全員が男という闇の存在に見て見ぬふりをして、目先の喜びにばかり目を向けていたのである。

 実際に、全く上達しない男に教師は最初、親身になって男を徹底的に指導していたが、途中で上達不可能だと諦めたのか、教師から男に直々に指導することはなくなった。

 教師は完全に男をなかったものとして放置し、無視し、存在を破棄したのである。

 この屈辱的な現実を前にして、男は人生で初めて野球というスポーツを嫌いになった。

 男は約9年間、野球に恋い焦がれ、野球を愛し、野球以外のスポーツに目もくれることはなかった。

 野球への情熱に関しては、他の部員の誰よりも熱いという強い自負もあった。

 何も自分に足りないものなど見当たらなかった。

 なのに、なぜ自分はこのチームで唯一劣等感を感じているのだろう。疎外感を感じているのだろう。

 九年間野球をやってきて初めて男は野球に裏切られ、見放されていることに気がついた。

 そして男は野球との絶縁を誓ったのである。

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