無煩悩⑤

 それから男は夢中で手紙を読み続けた。

 もはや以前の生活など原形をとどめていなかった。

 手紙をじっと見つめては記憶を呼び起こし、空腹を感じると、箱の中のグミを1粒口の中に放りコップ1杯の水道水を流し込む。このとき、自然と毎回グミを30回以上は噛んで食べていた。箱の中のグミがなくなると、すぐに玄関口に届けていた。

 そのまま3日が経ち、男はついに手紙の内容を全て理解することに成功した。

 文章の意味が分かれば、次は考察と推察に移行する。

 手紙を書いた人はどんな人なのか。どんな人生を歩んできたのか。なぜこの家のポストに手紙が入っていたのか。これらを考える必要がある。

 そのはずなのだが、男はそこから考察ができるほどのアウトプットの応用力を持ち合わせてはいなかった。

 男は手紙を書いた人がその場所で待っているとだけ考え、男は次にその場所について考えることにしたのである。

 その場所が男の脳内にインプットされているかどうかも定かではないのだが、思い出しても無駄であるか否かという判断も男にはできないので、男はその文字だけを見て記憶を呼び起こそうと奮起し始める。

 もしもその場所が男の脳内にインプットされていなければ、このまま男は考えるだけで一生を終えるのかもしれない。

 それに、その場所が男の脳内にインプットされている可能性は低い。

 だが、ただ考えるだけの一日を継続させること数週間。男は思い出したのである。その場所は男の脳内にインプットされていたのである。

 その上、男はその場所が日本のどの場所にあるのかも思い出した。

 その場所は男の実家から徒歩でも容易に辿り着くことのできるほど近い場所だった。

 この家は実家の近くにあるため、その場所はこの家の近くにもあるということを男は結論づけた。

 そうと決まれば次はそこまでの行き方である。男はその場所が近くにあるという事実しか思い出せず、細かい位置までは覚えていない。


 男はその後、その正確な位置を一生懸命に思い出してみたが、1ヶ月経とうとも思い出すことが叶わなかった。

 そこで男が下した処置が発想の転換である。

 男は位置を思い出すことを一旦中断し、思い出す方法以外でその場所に辿り着く手段を考え始めた。

 試行錯誤の末、男は一つの策をひらめいた。

 それは、人への聞き込みである。外に出て、通行人にその場所について聞けば、その場所への生き方を教えてもらえると男は考えついたのである。

 目的地が近場だとすれば、その近くにいる人もその場所のことを知っているはずである。

 目的地がどこなのか分からなくなったとき、周りの人に質問をすることは最も一般的な手法であるのだが、男としては革命的な名案であった。

 名案を思いついたことへの僥倖で男は気分が高揚し、早速玄関の扉を開け、外に飛び出した。

 もう季節はすっかり夏なのにもかかわらず未だに長袖長ズボンという格好をした男は灼熱の太陽が照りつける外に再び足を踏み出した。

 アスファルトの道路の手前まで歩き、男は左右に視線を送り道路の奥を見据えた。

 数分間右左と目視すると、男は一人の女性が歩いてきているのを確認する。

 男はその人を見ると、何の躊躇もなく動き出し、すりすりと歩み寄る。

 急接近する汚物同然の外見をしたその男に恐れおののく女性に男は迷わず声を掛ける。

 しかし、男はその声を出すことができなかった。

 男は20年間誰とも話をしていない。その弊害を男は今受けているのである。

 男は思考のやり方を忘れてしまったように話すという行為のやり方も忘れてしまったのである。

 何を話すのかは頭の中で想定できている。だが、男はそれを声として発することができなかった。

 男が声を出そうとどう頑張っても、うめき声のような気味の悪い声を出すので精一杯だった。

 そんな妖怪と化した男を目の当たりにして、当然ながらその女性は一目散に逃げ出してしまった。

 男はその人が逃げ出すや否や、踵を返してそそくさと家に戻った。

 布団の上で男はまた考える。

 どうすれば声を出すことができるのかと考えた。

 そして、考え始めた翌朝、男は新聞を広げて思い至ったことを実行した。

 練習である。

 男は新聞の文字を全て声に出して読んだ。

 男が普段から読んできたニュースだけでなく、その続きも読み進め、新聞の全面全文字を音読していった。

 男の問題点としては、話し方を忘れてしまっただけでなく、20年間一言も話すことをしなかったため、舌の筋肉が衰退しきってしまっていることもある。

 つまり、男が声の発し方を思い出したとしても、男の滑舌が悪劣過ぎてはっきりとした言語を喋ることができないのである。

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