彼と彼女のデザイア。
さんまぐ
地球-安倍川雲平とセムラが出会う下町。
第1話 行かないよ。俺はこの下町で生きてくよ。
春の日差し。
もうすぐ今年度も終わり春休みに入る。
満開の桜を見て、ふと思うのは卒業と入学はどちらも桜だが、卒業式の桜は少し早くて、逆に入学式の桜は遅くて散ってしまっている。
そんな事を思ったのは男子高校生の
雲平は桜を見て、人の減った自転車置き場の自転車達を見ながら帰路に着く。
帰路と言っても家とは逆方向。
雲平は家ではなく、同じ街には住むが、駅向こうに住む祖母の家を目指す。
古い日本家屋の表札は安倍川で、扉を開けて雲平が「ばあちゃん、起きてる?」と声をかけると、「はいよ。雲ちゃんおいで」と聞こえてくる。
居間に向かうと、こたつに入ってお茶を飲む老婆。
安倍川 かのこがいた。
先週、定期訪問のように顔を出したら、祖母は風邪を引いて倒れていた。
必要以上の文明品を嫌う祖母は、現代社会においてスマートフォンを持たない。
これもあって安倍川 かのこは高熱で動けずに寝込んでいた。
なぜ呼ばなかったと言う雲平に、祖母は「電話が天竺より遠く感じてね」と笑いながら、「もうすぐ雲ちゃんが来てくれる日だから、頑張ったんだよ」と言う。
電話は玄関にある。
古い黒電話で昔、使い方がわからない雲平に笑いながら、「この子は凄いんだよ。停電でも線さえ無事なら電話が使えるんだ」と祖母から自慢をされた。
雲平は慌ててかかりつけ医に往診して貰うと、2人してかかりつけ医から説教を食らってしまっていた。
「もう、かのこさんは若くないんだから、そろそろお孫さんと同居をしなさい」
医者の言葉に雲平は頷いて、「そうだよばあちゃん」と言ったが、かのこだけは「嫌よ」と言う。
理由は簡単で、かのこは必要以上の文明品を嫌う。
自転車も、ギア付きを認めたのは還暦を過ぎてからだった。
「雲ちゃんの家には電波が飛び交っていて、あの光る板で何でもやれて気持ち悪い。文明かぶれの雲ちゃんも、ウチでは暮らせないからこれで良いのよ」
確かにWi-Fiも飛んでないこの家で暮らすのは少し厳しい。
同居なら雲平の家にかのこが来て欲しい。
風呂釜も古いタイプで、若い修理業者さんが「…まだ現役なんですね」と言って、ベテランの人に援軍で頼んで修理をしてもらっていた程で、当然雲平の家ならリビングから指一つで操作ができるし、なんならトイレの便座も、かのこの家のものは冷たいし洗浄機能もない。
過去に一度、ネット回線だけでもと思ったが、当時は壁に穴を開けると言われてかのこの逆鱗に触れて、ヘラヘラ笑顔の若いセールスレディは半ベソで帰ることになった。
それ以来、据え置き型のルーターすら認めなくなってしまい、かろうじてコンセントでスマートフォンの充電だけは認められていた。
「ばあちゃん、元気そうだね」
「そりゃあ、雲ちゃんが吉野センセを呼んでくれて、お薬貰ってくれたからね」
「もう、薬終わるよね?明日往診にきてもらう?それとも行く?」
「もう、治ったわよ」
「ダメだって、春先は昼間暖かくても夜は寒いんだから、完璧に治そうよ」
「やだねぇ。私もお婆ちゃんになる訳だ。雲ちゃんにこんなに心配されるなんてねぇ」
笑って誤魔化すかのこに、雲平が「ばあちゃん」と言うとかのこは、「明日行ってきますよ。お買い物もしたいしね」と言って諦めた。
「お茶の時間くらいあるだろ?」
「うん」
雲平が座ると、かのこは「よっこいしょ」と言いながら、お茶を淹れに台所へ向かう。
お茶は雲平よりもかのこの方が美味いし、なによりボケ防止ではないが、やれるものはやって貰う。
中学の頃、雲平が修学旅行で作った湯呑み茶碗は、自宅では使わずにかのこの所に来ていて、デフォルメされた雲とお日様が描かれた湯呑みに注がれたお茶を飲んで、ホッとひと息ついた所でかのこが「金太郎は?」と聞いてくる。
安倍川
雲平の父で何年も連絡はない。
雲平は平静を装いながら、「先週も聞かれたけど連絡なしだよ」と返すと、かのこは「あのバカタレは、雲ちゃんを放って何やってんだろうね」と言う。
「まあ仕方ないよ。それこそ天竺を目指しちゃったんだ。帰ってこないでしょ」
「それにしてもだよ。夫婦で1人息子を置いて出て行くなんて、常軌を逸脱しているわ」
「まあお金とか残してくれたし、補助も出るから平気だよ」
「それでもだよ!」
怒ってお茶を飲んだかのこは、「雲ちゃんは行ってしまったりしないよね?」と急に弱々しい声で聞いてきた。
雲平が「ばあちゃん…」と聞き返すと、かのこは「行かないよね?」と再度聞いてくる。
もう何百と交わした会話。
未だに心穏やかにならない祖母を見て、雲平は「行かないよ。俺はこの下町で生きてくよ。仕事はある程度なら選り好み出来るしね」と、定型文のように言葉を発した。
長居は無用。
このままここにいても良いことはない。
また父の事を聞かれ、自身の母より父の妻であった事を選んだ母を、褒めながらも悪く言う言葉を聞き、自身まで居なくならないでくれと言われて返事をする。
何回も続く。
今日はそんな日だった。
お茶を飲んだ雲平が「そろそろ帰るよ」と言うと、かのこは「おや、早いね」と言った。
普段なら祖母は引き止めないで、「またね」と居間で見送るがこの日は違っていた。
「悪いんだけど、お爺さんの月命日に寝込んでいたから、雲ちゃんがお参り行っておくれよ」
この言葉に雲平は「え?ばあちゃん?」と聞き返してしまう。
「頼むよ雲ちゃん」
時計を見ると夕方になっている。
「ばあちゃん?夕方は逢魔時だっけ?お墓とか行くなって言ってたよね?」
「雲ちゃんならその すまほ でなんでもやれんでしょ?私になんでも出来るから持てって言ったのだから、魑魅魍魎くらい倒してきてね。はい、お爺さんの好物の金平糖。お供えしたら持って帰って食べて良いからね」
手渡された金平糖を見て、雲平はやられたと思っていた。
病院の先にある和菓子屋さんまで、金平糖を買いに行く元気はあるのに、道は違うが距離でいえば和菓子屋さんより近いお墓には行かないとは…。
それは今回の事で死を間近に感じてしまった祖母だからこそ、お墓に行くのは怖かったのだが、雲平はそれを理解できずに「わかったよ」と言うと、「証拠写真よろしくね」と言われてしまう。
この祖母は文明品が嫌いな癖に写真は好きだったりする。
それはかつて、祖父に撮られた一枚が偶然良い出来で、賞に出したら入賞したと言うのが理由だった。
別に用事があったわけではない。
だが予定が急に入る事が嫌な雲平は、肩を落としながら祖父の墓参りに向かった。
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