終章 塔、あるいは物語の姫(1)

「……という、姫のおはなしでした」


 そう締めくくって彼はぱたりと本を閉じた。

 視線を上げれば、目を閉じて話に聞き入っている彼女の顔が目に映る。

 鬱陶うっとうしそうな白い巻き毛に包まれた顔の真ん中に、主張の強い黒縁の丸眼鏡が鎮座している。細身の肢体に衣服の類はつけておらず、代わりにその身体は真っ白な羽毛で覆われていた。両脚も、膝より下は人ではなく巨大な鳥の脚に変わっている。

 出会った当初は本当に化け物だと思ったものだ、と彼はその姿を眺めながらしみじみと思った。

「うん、今日もありがとう」

 囁くような声で彼女は言った。

 ずらりと並ぶ本棚の中に広げられたローソファ。彼女はクッションに埋まるようにしてそこで一日を過ごしている。

 本を置いた彼が近づくと、レンズの向こうで彼女がそっと瞼を押し上げた。その瞳の内側は白く濁って彼と視線が交わることはない。代償なんだ、と彼女は説明していた。

 彼女はかつて人だったそうだ。

 世の物語を集めるために永遠の生を欲し、人ならざるものと取引し。そうして視力を失い異形に変わり、この古今の書で埋め尽くされた塔の中でのみ永遠に生きられる存在になったらしい。

「今日で、約束の十日目ですね」

 言いながら、羽毛と素肌の境である襟ぐりを指先でなぞる。くすぐったそうに笑いながら彼女は頷いた。

「そうだね。わたしの目の代わりになってくれる語り手を呼べるのは十日間だけ。明日、君はこの塔を出ることができる」

「驚きましたよ。いつもの路地を抜けたら、急にこの塔の前にいたんですから」

「それだけ君が優れた語り手だったってことだよ。ここに呼ばれてくる人はいつも……」

 言葉の途中で唇が彼にふさがれる。何度か角度を変えた後で、彼がふと不満げに目の前にあるレンズをつついた。

「最後ですし、外しても?」

「だめ」

「曲がりますよ」

「これはお守りでもあるし。まったく、こんな醜い眼をに見たがる物好きなんて君くらいだ」

 呆れたように笑う彼女と共にソファーに倒れこむと、わき腹の羽毛に手を差し入れて手のひら全体でゆるりと撫でる。その感触は彼が知るどんな動物よりも柔らかく心地良い。……もう二度と、人の素肌では満足できなくなるほどに。

 彼女が眠る日中は塔にある古今の書物を読みあさり、日が暮れれば彼女の望むままに物語を読み聞かせて共に過ごす。

 まるで夢想のような十日間。


 帰るのが惜しい、と彼は半ば本気で思った。

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