第44話 汐里と亮太の祖父

「バス……あと40分こない……」

 私は停留所の錆びたベンチに座りこんだ。

 亮太のお父さんにかけられた日本酒の匂いが、どうにも気持ち悪い。

 私はバッグからタオルハンカチを取り出して拭いてみたけれど、すでに服に染み込んでしまった匂いはやっぱり取れなかった。

 亮太には、他人に話したくないような暗い過去があるんだろう。

 それは、あらかた予想してここまで来た。

 だけど、亮太のお父さんが口にした言葉は、私の予想よりずっと重いものだった。

 ポツリ、頭に水滴が落ちてくる。

 私はぼんやりと空を見上げた。

 いつの間にか、空は薄いグレー一色になっている。

「雨……これでお酒のにおい……消えないかな……消えないか……」

 雨粒は段々と大きくなって、その量も増えていく。

「冷た……」

 段々と湿り気を帯び、重くなっていくニットのカーディガン。

 感じ始める自分自身の体温に、自然と手が肩に伸びた。

『亮一じゃなくて、あいつが死ねば良かったんだ!』

 お父さんのあの一言……あれはないよ……

「なにがあったからって、亮太があんな風に言われる筋合いなんかないじゃない……」

 私は顔を手のひらで覆った。

 怒りたいのに、今湧き上がっているのはどうしようもない悲しみだ。

 今目の前にいない亮太を、私は力いっぱい抱きしめたかった。そして、その耳元で伝えたい。

 亮太は悪くない! 悪くないんだよ!

 不意に、左肩が重くなって、ほのかな人肌のぬくもりが伝わってきた。

 私は慌てて顔から手を離す。

 亮太……?

 視線の先には、一人のおじいさんが立っていた。

 深い皺に包まれたやさしい一重瞼の瞳が、亮太によく似ている。

「ひどいにおいだ……すまないな、龍彦が酷いことをしてしまって」

 おじいさんの低く小さい声が聞こえてくる。

 龍彦は……確か、亮太のお父さんの名前だ。

「私は亮太の祖父だ。君と龍彦のやり取りは、近くで見ていたから知っている……そこに私の車があるから、ひとまず乗りなさい」

 おじいさんは、傘もささずに私と一緒に雨に濡れている。

「でも……こんな状態で乗るのは……」

「そんな状態だからこそ、だよ。失礼だが、その格好でバスに乗る方がつらいだろう?」

 確かに、それはおじいさんの言う通りだった。

「私の知り合いがこの近くで民宿をやっていてね……そこに行けば、とりあえず浴衣を貸してもらえるから……服は洗わないと、もうにおいが取れないだろう?」

「そうですよね……すみません……」

「いや、謝るのは私の方だ。龍彦を止められなかったんだから……息子の無礼を許してくれ……さあ、早く行かないと風邪をひいてしまう」

 私は亮太のおじいさんだという人の言葉に、素直に甘えることにした。

「君は亮太をよく知っているようだけれど、あの子とはどんな関係なんだい? それに、よくこの場所がわかったね?」

 亮太のおじいさんは、軽自動車を運転しながら私に訊ねてくる。嘘は……つけない。

「私は……亮太さんとお付き合いしてたんですが……その……今別れる寸前で……私、亮太さんとやり直したくて、ここに来たんです。ここの住所は、たまたま見つけた亮太さんの母子手帳で知りました」

「なるほど、母子手帳か……私は亮太の祖父だ。君の名は?」

「佐川汐里といいます」

「佐川さん……あの子は……亮太は元気にしているかね?」

 おじいさんから問われた瞬間、満面に笑みを浮かべる亮太の顔が頭に浮かぶ。

「はい……(体は)元気です」

 それは、嘘じゃない。今、どこでどうしてるのかはわからないけれど。

「そうか……それを聞いて安心したよ……なにせあの子は、地元の高校を卒業した途端黙って家を出ていってしまって……まあ、その気持ちもわからないではないが」

 亮太、黙って出ていったの?

「あの……その後、亮太さんからなにか連絡は……」

「いや、何一つ寄越さなかったよ。携帯電話も番号を変えたみたいで連絡もつかなくて……置き手紙はあったけれどね。自分ひとりで生きていきたいから、心配しないでくれって」

 自分一人で。過去を捨てて。

 私はじっと自分の手を見つめていた。

「あの子は、ここでのことをすべて忘れたかったんだと思う。君は、亮太から話を聞いていないのかい?」

「亮太さんは……私が聞いても、昔の話はしてくれませんでした。なので、私はそれが知りたくて来たんです。亮太を育ててくれた人から、亮太の幼い頃の話を聞きたくて」

「そうか……亮太を育てたのは、私と妻だよ。妻は、昨年逝ってしまったんだけどね」

 私はハッとして顔をあげた。

「私の話を聞いても、君の願いが叶うかはわからないけど、昔の話をしよう……さあ、着いたよ」

 フロントガラス越しに”民宿みどし屋”という看板を掲げた家が見えた。

 ぱっと見た感じでは、大きめの一軒家といった雰囲気だ。

「ここは私の後輩が経営しているところだから、遠慮はいらないよ。それにゴールデンウィーク中だけどあまりお客さんがいないみたいだから、助けると思って使ってほしい……さあ、どうぞ」

 亮太のおじいさんは苦笑しながら、私を民宿に案内してくれた。

辰巳たつみ! お客さん連れてきてやったぞ!」

 亮太のおじいさんは、フロントで呼び鈴を連打しながら声を張り上げた。

「おや、寅彦とらひこさんいらっしゃい……ていうかまた……ひどいね……ほら、部屋の鍵……事情は後でいいから、早く風呂に入って着替えた方がいい。服はうちからクリーニングに持っていくから」

 にこやかにやってきた民宿のオーナーらしきおじいさんが、私を一目見るなり顔色を変えた。そのくらい、今の私はひどい有様なんだろう。

「一時間後に部屋をノックするから……」

 亮太のおじいさんは、私を部屋の前まで案内した後直ぐに踵を返した。

「ありがとうございます」

 民宿は一般家庭の造りに近い。だけど、今はそんなことはどうでも良かった。

 私はすぐさま部屋に入って鍵をかけた。

 内風呂がついていて、浴衣とバスタオルも用意されている。

 ありがたい……

 私は二人のおじいさんの厚意に、心から感謝したのだった。

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