第10話 桃のジュース
「これはまた随分甘い飲み物だな……体に悪そうだ」
いや、その体に悪そうな飲み物、お前は小さい頃ガブガブ飲んでたんだぞ。
私が渡した桃のジュースを一口飲むなり、不快そうに顔を歪めた圭介に、私は思わずそう言いそうになってぎゅっと唇を噛みしめた。
夜の9時過ぎ。団地の小さな公園に設置されたベンチ。
私は、二人分の距離を空けてそこに座っている。
この得体のしれない、圭介から。
「こんなもの、飲めん」
「えっ⁉」
圭介は、手にしたピンク色の缶を傾けた。
呆然とする私の目の前で、幼い頃の圭介の笑顔と桃のジュースがドボドボと流れ落ちる。
『甘くておいしい!』
小さな両手で缶を掴んで、嬉しそうに桃のジュースを飲んでいた圭介。
「おい! それは私が圭介の為に買ったんだぞ! 昔、あいつが大好きでよく飲んでたんだ……それを、簡単に捨てるんじゃねぇよ!」
腹の底から沸き立つ怒りは、どうにも抑えられない。
既に缶の口からは、なにも出ていなかった。
その真下にできた真新しい筋が、じわじわと広がっていく。
「君が懸命に考えた末の結果が、こうも簡単に無下にされては……くくっ……おもしろくないだろうねぇ……だが、この体に害となるものは入れない方がいい。それに、
怒り叫ぶ私に、低い声音の圭介は勝ち誇ったように笑った。
「好みが変わった⁉ そんな……じゃ、じゃあこれは⁉」
私は慌てて、リュックから小さなリングドーナツとパラソルの形をしたチョコレートを取り出した。
近所のスーパーをはしごして、やっと見つけたものだ。
私はずかずかと圭介の前まで歩き、その目の前にドーナツとチョコレートを突き出した。
「ほらっ! お前が昔大好きだったおやつだぞ! 虫歯になるのも恐れずに、ガツガツ食べてただろ!」
受け取れよ……受け取ってくれよ……お願いだから!
圭介は真顔で、ぶるぶると震える私の手を見つめる。
「……くそっ」
どんなに待っても圭介の手は伸びず、膝の上で組まれたままだ。
「これじゃない」
圭介は、嬉しそうに満面に笑みを浮かべた。
なんてことだ……また外してしまった……
「笑うんじゃねぇよ……」
私はドーナツとチョコレートを握りしめて、とぼとぼとベンチの端に向かう。
『君と
圭介の耳と引き換えにもらったヒント。
それを活かせない自分に腹が立つ。
「くそっ……」
どすっとベンチに座り込み、地面に向かって悪態をつく。
もっとヒントが欲しいけど、それはできない。
もしまたヒントをもらってしまったら、ペナルティとしてまた圭介の感覚が奪われてしまうからだ。
「あと……木金土日……残り4日しかない」
どうしよう……また別のなにかを探さなきゃ……探せるだろうか、私に……
ふと、私の足元まで伸びた黒い筋に何かが群がっているのに気がついた。
「蟻だ……夜なのに、働き者だな……」
蟻は、一匹の女王蟻の為に働いているんだっけ……昔、どこかで読んだ本に書いてあったな……どこで読んだんだろ……図書館かな……
私はぼんやりと思い出す。
ただ一匹の大切な存在である女王蟻の為に、たくさんの働き蟻が働いている。よほど、女王様が大事なんだな……
そこまで考えて、私はハッとした。
圭介を乗っ取ろうとしている虫と、そいつに変な事をさせている神というやつは、まさしく働き蟻と女王蟻の関係性なのではないだろうか?
それにしても、その神ってのはいったい何者なんだ……
「こないだあんたが言ってた“神”ってのは、とりあえず人間なんだろ? あ、この質問に答えて圭介にペナルティがいくなら、答えなくていいよ」
圭介は、私の問に少しの間黙り込んだ。
「これは、君の勝利に繋がる問ではないから、ペナルティなしで答えよう。そう、君の言う通り……我らが“神”は人間だ」
やっぱりそうか……こんなことするなんて、めちゃくちゃひどいやつだ。
そりゃ、こんな突拍子もない事ができるんだから、さぞかし頭が良くて凄い技術を持っているんだろう。でも、人の気持ちが理解できないなんて最低だ。
「なんで、こんなひどい事するんだよ……他人の体なんか乗っ取って、いったいなにがしたいんだ」
私は蟻の黒い列を眺めながら、ぼそぼそと言った。
女王蟻には、子孫を残すという大事な役割、目的がある。
こいつらの神ってやつにも、目的があるはずだ。きっと、
私はこっそり息を飲んで、圭介が口を開くのを待ったのだった。
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