電子の海に溺れ逝く

露藤 蛍

永命、無窮の死なれば

 僕はヒトが嫌いだった。

 だから人間として生きることを選んだ。


 いつだってオフィスビルの中は殺風景で、人影は少なかった。

 建物の中だけではない。街から人は消え、急速に減る実質人口に合わせて都市も国も縮小化し、代わりに増えたのは膨大な量のデータを保有する超大型サーバー群と、それを幾重にも連ねた機械の山。窓の外にはかつてと変わらない風景があるのに、今となっては自然を美術として眺める者もいやしない。

 ほんとうにうんざりする。先日、結婚と同時に電子の海に消えていった息子夫婦を思い出して、僕は加えたばこをやめた。


「あんた、相変わらず暇そうね」

「暇なわけあるか? ちゃんと仕事中だよ、人間の監視」

「なによ、人様の生活みてるだけでお賃金もらえる人は楽でいいわね」

「君ももう少しおしとやかな態度をとった方がいいんじゃないか」

「たばこ吸いながらぼーっとしてるだけのあんたに言われたくない」


 少し離れた大型コンソールに足を掛け、仰々しい態度で座っているのは同僚の佳苗だった。彼女の仕事は天候と土地の操作管理だ。ちなみに僕の仕事は、食料の分配や人間以外の生物の操作管理。こんな風に多くの人間が一か所に集まって、ヒトの世界を管理している。


 人間がヒトを管理するなんておかしいだろうか。そんな疑問は遥か彼方に追いやられ、今となっては認知もされていない。


 ヒトは命を棄てた。正確に言うと、永遠の命を得られるようになった。

 情報技術文化が発達し、人間は電子技術で作ったバーチャル空間に潜り込むことができるようになった挙句、己の人格すらデータベースに保存できるようになった。脳波も厳密に言えば電気通信の一種のため、己の思考回路──つまり人格の全てを電子情報としてコピーし、ネット空間にもう一人の自分を作り出すことが可能になったのである。


 現実でない空想では、誰もが自由に過ごせた。好きな姿で過ごせて、好きな場所に住めた。飢餓も貧困も、老いも死もない。電子空間に物質を生み出すリソースは現実世界で賄えたため、ネット空間は理想の世界と言えた。


 そうして、何が起こったか。

 電子空間への大移住が始まったのだ。潜り込んでしまえば現実とそう変わりないのなら、物理的な肉体に縛られない電子空間で生きた方がコスパがいいのではないか──そんな考えで。


 当初は実験的に、様々な病気を持ち余命の少ない希望者から始まった。己の脳を直接データサーバーに焼き付け、現実での命を棄てて、空想に逃げた。

 好評が博されたことから流れは大きくなり、今となっては大部分の人間が電子空間に住んでいる。肉の体を持って現実に住んでいるのは、サーバーや機材をメンテナンスする管理職くらいなものだ。


「……アホらし」


 僕はたばこの吸い殻を灰皿に押し付けた。背もたれを下ろしたロッキングチェアの周りには、大型のホログラムディスプレイが何枚も投射され、電子世界での人々の暮らしが映し出されている。


 無邪気に海水浴を楽しむ人。

 無謀にも霊峰に挑み、何度も死にながらやっと登頂を果たした人。

 遺体の脳から取り出したデータで、死者と再会した人。


 そんな中で、不意に視界にはいった家族に目を奪われて、しばしの間凝視する。

 現実で死んだ息子夫婦だった。公園に二人で座っているが、妻の腕の中には既に赤子の姿がある。なにも妊娠してから電海に潜ったわけではない。二人の子は、初めからデータで作られたまがい物だ。実際の命ではなく、当然現実の戸籍謄本には乗っていない。


 電海の管理者として説明はしたが、二人は当然のごとく受け入れて身を投げてしまった。


 全てが偽物だ。電海で得た感情も感覚も時間も、何もかも現実で操作ができる作られたモノだというのに。


 こちらで一度でもサーバーの電源を落とせば死ぬ存在に、どうしてなってしまったのだろう。疑問を持つ自分すら、今の社会では日陰者なのだ。


「……たまにさぁ、電海にウイルスばらまいてやりたいとか思わないか」

「なに急に」

「いや別に」


 思い付きで佳苗に問うと、彼女はしばらく考えた後に答えた。


「……まださ、うちらみたいに生きてる人、いるじゃん」

「うん」

「こっちじゃ一回死んだらアウトなのにさ、普通に災害とか起こるじゃん」


 地震とか洪水とか火事とか。佳苗は続けた。


「こんだけ人いるんだし、シミュレーションはしてみたいって思う」

「被害想定の確認とか?」

「いや、犯罪も被害もない極楽で、急にどん底に叩き落されたらヒトってどんな反応するんだろうって、考えなくは、ないよ」

「……わかる」


 しばらくお互いに言葉はなく、黙り込んだまま、退勤の時間になった。


「こんばんはー、おっさん」

「おっさんって呼ぶんじゃないよ若造」

「んじゃあ若造っていうの止めてくださいよ、おっさん」


 む、とお互い顔を見合わせて、入社したばかりの若手に問う。


「君さぁ、なんで電海に潜らなかったの?」


 急に問われて、人当たりのいい若手の青年は目を丸くした。


「はい?」

「いや、電海に潜るかどうかは選べるし。みんな行っちゃったんでしょ?」

「いやまぁ、そうなんですけど。俺、他人と同じことするの嫌なんす」


 馬鹿みてぇでしょう? 電海の俺が本当に俺だなんて、なんで言えるんすか?

 青年は言って、流れ作業で引き継ぎの準備を始めた。


 まだ、電子の海は幸せそうだ。それもそうだと青年に返して、ロッキングチェアの背もたれを起こす。


 命ってなんだろう。空想に逃げればどれだけでも生きられると息巻いていたヒトは、この電海を維持する人間がいなくなったら自分たちも消滅することに気づいていないのだろうか。


 本当に、馬鹿馬鹿しい。わざわざ管理される側になるなんて。

 命を棄てることを是とする電海なんて、今すぐにでも消したくなる。


 空想が本当で現実が仮初だなんて、そんなことはない。どちらも本当だが、現実がなければ、空想は存在し得ないものだ。

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