02 禁猟区の食客

刺すような視線に

男は背筋を凍せた。


赤い髪の頭から全身まで

毛穴が開いて一斉に汗が湧き出す。

野生の感が、警鐘を鳴らす。


得体のしれない恐怖を覚えた。


沢に浸けたシカの屠体を引き上げるため、

屈んだところを男は何かに狙われた。


(イノシシか、野犬…オオカミか。)


狩猟で命を落とす猟師は少なくない。


イノシシは突進して太い牙で相手を襲い、

野犬やオオカミは群れを作り獲物を狩る。


例え軽傷あっても、動物の持つ

特有の毒によって死ぬこともある。


すぐに首を上げて逃げるか、

腰の山刀を抜いて敵意を示して

威嚇し追い払わなくてはならない。


しかし、男は見えない恐怖に支配され、

身体が思い通りに動けなくなっていた。

そんなことは今までで一度も無かった。


(いや、〈禁域〉に近づき過ぎた…?)



猟を生業の男が拠点とする森林と、

猟師が入ってはならない深い森の禁猟区の

〈禁域〉には明確な境界がある。


(最悪〈すすまみれ〉か…。)


沢の上流へ視線だけを動かして、境界を見る。

均等に埋まった不自然な白色の柱が、

森林と〈禁域〉の境界。


その境界に近づけば人間は形を残したまま

真っ黒な〈煤まみれ〉の姿になって死ぬ、と

祖父より古くから伝えられていた。


だが男の視線の先に居たものは、

〈煤まみれ〉の死ではなく、

イノシシでもオオカミでもなかった。


(犬…いや、キツネか…?)


呆気にとられると同時に、

猟師である男が目を疑ったのは

その体毛の色であった。


森林に棲むキツネの体毛は

金色か赤土色しか見かけない。


キツネの鼻面は黒色だが

体全体の毛は白っぽい灰色で、

それが〈禁域〉の木漏れ日によって

銀色に光り輝いていた。


月のように薄い金色をした目が、

男をずっと見ている。


キツネは境界の向こうで後ろ足を横に倒し、

座ってこちらを見ていた。


男の緊張は一瞬で緩み、大きく息を吐いた。


(動物なら〈禁域〉には入れるよな…。)

鳥や虫も境界を認知するわけではない。

〈禁域〉に入れないのは唯一、人だけだった。


男もまた例に漏れず、

猟師の教えを破ってまで

〈禁域〉に入る度胸は無かった。

また、〈アラズ〉の教えは自害を許していない。


「なんだ、ぉめぇ…。」

小さな声で、訛り、呼びかけた。


遠く静かな〈禁域〉の中で、

動物の聴力で男の声は届いた。


キツネはピクリと耳をこちらに向ける。


――はらへったのぅ。

「そんなわけあるか。」

男は突然、自問自答し、声に出た。


男は自分の腹を見て、小首を傾げる。

男はやはり空腹ではなかった。


縛ったシカの足を手にし、沢から引き上げた。

何のことはなく、男は自由に動けた。


沢に一日浸けたシカの屠体は毛に水を吸い、

昨日内臓を落とす前よりも重く感じた。


放血し内臓を取り出した屠体を沢に漬けるのは、

泥汚れや血を洗い落とすだけではなく、

肉の熱を冷まして腐敗を抑え、

獣臭を薄める効果がある。


放血、内臓の処理、冷却。

この3つが肉質に大きく影響する。


(これでキツネを追っ払うか。)

シカを背負う為に持ってきた

木の棒を握って考えたが、

相手は〈禁域〉の境界向こうなので諦めた。


キツネもこちらを見て座るだけで、

立ち上がって肉を奪うという気配さえ無い。


自分が一体何に怯えたのか、

男はすっかり忘れてしまった。


シカの股に木の棒を差し込み、

縛った足で屠体を吊る。


ぶら下がる首とツノが運搬の邪魔になったので、

ついでに棒に縛り付けることにした。


背負ってはみたものの、

食い込む棒が肩をえぐる痛みを与え

数歩と絶えきれなかった。


結局棒と腹の間に首を突っ込み、

シカの両足を掴んで背に担いで

イノシシの皮を濡らした。


「まだまだ一人前にならんな。」

父に何度も言われた言葉を、

男は口にして実感する。


成人してこれほど良いシカを、

男はひとりで獲ったことはなかった。


喜びと同時に虚しさがこみ上げると、

湧き上がる感情を押し殺して家まで運んだ。


男の後を銀毛のキツネが、

足音を立てずについて行く。


――――――――――――――――――――


男の家は森林の奥深く、

〈禁域〉の近くに存在する

猟師の作業小屋だった。


目の前には水汲み井戸と、

草だらけで荒れた小さな畑もある。


小屋には猟師が使う道具が揃っており、

捕獲用の罠、解体用の鋸や木槌、

野犬やオオカミ用の毒槍などもあった。


小屋にシカを入れて、

首を縛って屠体を吊し上げる。


だが大きなツノが邪魔をしたので、

戻して台に降ろし、先に鋸で切り落とした。


(いや、最初から逆さに吊れば良かったのか。)


今まで獲ってきた仔シカや牝鹿であれば

これまで通りで良かったが、

体格の大きな牡鹿に対して

作業の効率まで考えては居なかった。


手際の悪さを痛感し、男は肩で息をする。


赤い髪の先から汗が垂れ、

イノシシの皮を脱ぐと小屋に蒸気が立ち昇る。


成人したばかりの男に、

大人のシカを運ぶのは重労働であった。


しかし、長々と休んでも居られない。

男の作業は多い。


まずは毛皮を剥く。

山刀の刃を足首に回して皮を切り、

そこから中心の腹に向け切り込みを入れる。


切り込みを入れた毛皮を親指で摘み、

引っ張りながら刃先を入れれば

毛皮は綺麗に剥がれていく。


首も同様に行い

毛皮と肉の間に刃を入れて剥ぐ。


首と足を終え、3分の1ほど剥げば、

あとは素手で引っ張るだけで全身剥ける。


皮下脂肪の少ない

シカならではの簡略化できる作業。


同時に、体毛からの穢れを避けるために、

肉に触れないよう気をつけなければいけない。


シカはほとんどの毛皮を失い、

赤と白に覆われた『新鮮』な肉の姿になる。


内臓と同じく、肉には

腫れや傷などによる問題は見られない。


解体作業は肉を骨の付いた状態に切り分け、

塩漬けにして肉の中の

血液と水分を奪う『血絞り』を行う。


3日ほど塩に漬けた後に、燻煙すると

完全に水分を奪った保存食の燻製が完成する。


雪でも積もっていれば、

肉をそのまま冷凍し長期の保存が効く。

あいにく『収穫祭』もまだ迎えていない。


それから剥いた毛皮を保管する為、

毛を下面にして台の上に広げる。


シカの皮に尾は必要無いので、

山刀で毛皮に弧を描いて切る。


皮にはまだ脂と肉が付いていて、

首のあたりは特に赤い血の塊が広がる。


そこから腐りでもすれば毛皮はダメになる。


塩を皮全体に渡るように手で満遍なく擦り込む。

塩が肉や脂から水分を奪い、

皮全体を腐りにくくする。


仕組みとしては肉の『血絞り』に近い。


皮の端は塩の擦り込みが

特に疎かになりがちなので、

折りたたんで皮同士で擦り揉みする。


塩を全体に行き渡らせたら折りたたみ、

毛皮の保存作業はひとまず完了する。


――はらへったのう。

突然声がし、手を止めた。

(気のせいか…。)

そう思ったが、小屋の窓から見る。


「もう昼ぅ過ぎとるなぁ。」

外の景色は日が傾いて夕方に近い。


男は解体の作業に時間を掛けすぎていた。


それと食事と休憩さえも忘れていた。

脂と塩にまみれた手を、石鹸と軽石で洗い落とす。


毛皮の『脱脂』作業もしなければいけないが、

明日は町へ行く日であった。


秋晴れの空の様子をぼんやり見て小屋を出ると、

キツネが堂々と寝転がっていた。


思わず踏みつけそうになるのを避け、

片足で飛び跳ねそのまま畑に到着した。

引っこ抜いたいびつな根菜の土を払う。


「死んでんのか?」

小屋に戻る途中で顔を覗くと、

キツネが起きて目があった。


キツネはのそりと立ち上がり、

前足と後ろ足を交互に伸ばして背伸びしてから、

後ろ足をまたよたりと横に倒して

会った時と同じ格好で座った。


若いキツネではあるが、

冬を前にして身体はやせ細っている。


(毛皮にしたところで売れるんか。)

金毛でも赤土色の毛でもない、

暗い銀色のキツネを品定めする。


――はらへったのぅ。

(たしか開祖と馬の話だったような…。)

口に出さずに、男はつばを飲んだ。


父が昔に語った〈アラズ〉の説話、

〈太陽神クサン〉と開祖と馬の話を

思い出したが、それもすぐにかき消えた。

(これはいい話じゃなかったな…。)


そうして男は気づかない振りをした。


キツネは男を見つめる。

何をするでもなく、その目で訴えてくる。

彼はキツネが何を言いたいのか分かっている。


男は手にした根菜を振り上げて威嚇して見たが、

反応に乏しい動物を相手にする虚しさと、

これから自分の腹に入れるものを投げる

アホらしさで踵を返して小屋に戻った。


「食べもん粗末にすんな。ってな。」

顎を親指で撫でて、父の教えに仕草を真似した。


かまどに火を入れ、

鍋に水と木槌で折ったウサギの骨、

畑で採って水洗いした葉と根を

適当な大きさに切って入れる。


野菜に火が通れば骨を取り出し、

燻製にして保存していた硬いウサギの肉を

木槌で割って煮込む。


「塩で適当に味付けすりゃ、食えるだろ。」

男は料理が雑な為に、

父の教えはここで妥協する。


鍋いっぱいでひとり分にしては量も多いが、

あとはパンを焼けば夜も済ませられる。


「奮発してみたが、今日もウサギか。

 なんとも代わり映えせんな。」

顎を親指で撫でて、ひとりごちた。


――シカは?

「あっ…。」

肉を失ったシカの変わり果てた姿を見て、

男は思わず声を漏らした。


――――――――――――――――――――


朝食は石のように硬いパンを水でふやかし、

樹皮のようになったウサギの古い燻製を齧る。


シカ肉は解体して保存に回したが

作業に没頭し過ぎるあまり、

結局ひと口も食べては居なかった。


『なめし』を終えた毛皮を畳み、

革の背嚢に詰め込む。


牡鹿の皮はまだ保存したまま、

後日『脱脂』しなくてはいけない。


(シカのツノはどうしたもんか…。)

初めて狩った牡鹿の、枝状に広がる

大きなツノは背嚢に収まらない。


ツノを立てて肩のあたりから

背中に刺すようにしたが、収まりも悪い。

重さもあるので背嚢を破損しかねない。


(『ご主人』に聞いてからでいいか。)

結局、毛皮の買い手である『ご主人』に

判断を仰ぐことにした。


持ち歩くにも運ぶにも、とにかく邪魔であった。


町へ行く前に村に寄ろうと思い

早めに小屋を出ると、昨日と同じく

銀毛のキツネが丸くなっていた。


「ぉめぇ…、まだ居るんか。」

驚いた男は思わず訛り混じりに

キツネに呼びかけた。


キツネは男の声に耳を立てると、

首を上げて彼を見た。


一度大きなあくびをしてから、

立ち上がって伸びをして、

いつものように後ろ足をよたり倒して座る。


昨日からずっとこんなところに眠り、

荒れた畑を荒らすことなく居座る。


キツネは犬に似ているがあまり群れず、

単独または家族単位で行動する。


時には田畑や民家を荒らす害獣とされる。


しかし小屋に入って肉を奪うこともせず、

生活を共にする群れにも戻らず、

やせ細り死を待っている。


(こいつも家族が居らんのか…。)

男はキツネに自分の境遇を重ねて哀れんだ。


――はらへったのぅ。

(は?)

頭に浮かび上がった言葉に疑問に思った。

男は朝食を終えたばかりで、

空腹を訴えることはない。


そして男は気づいて居た。


――シカは?

「シカは『血絞り』の最中だが…。」

これから町に出かけるはずの男は、

今になってなぜ肉の確認をして、

あまつさえ喋っているのか。


(誰に向かって…。)

しかし、疑問よりも先に

男はキツネに返事をしてしまった。


――にく。

――やいて。

――はらへったのぅ…。

男の声にキツネが目で、

その言葉で、彼に訴えかける。


「何なんだ、いったい?」

(魂が荒れたのか?)

理解し難い状況に

赤毛の頭を両手で掻きむしった。


――ノミか?

――もも肉。

――ごはん。

――はらへったんじゃと言うとろぅ!。

キツネの言葉は次から次へと

頭の中に押し寄せる。


(このキツネ、何かやっとる!)

頭が混乱した男には、

そうとしか考えられなかった。


男は気づいてしまった。


「ぉめぇ!」

不可解な状況に男は大声を上げた。


するとキツネの言葉はピタリと止んだ。

ただ、キツネはそれでも目と

大きく振った尻尾で訴えてくる。


「なんだ…?」

――もも肉。

頭の整理が付かないまま、

キツネの言葉に男は頷いた。


「もも肉…。」

――焼いて。

――しお抜き。

――ごはん。

――もも肉。もも肉!

キツネはそれから前足を忙しなく動かして、

その場で足踏みした。


「わかった。静かにしろ。

 そしたら頼むからどっか行ってくれ。」

男の訴えで再びキツネの言葉は止んだ。


猟師が獣に対し、餌付けすることはない。


餌付けをすれば付きまとわれるだけでは済まない。

人が餌をくれる動物だと認識し人里に降り、

餌をくれなければ攻撃的になって噛み付き、

家屋にまで侵入して子どもを襲うこともある。


ただ男には、小屋の前で

ずっと丸まっているやせ細ったキツネが、

そんなことをするとは考えられなかった。


(もしもそんなことになったんなら…。)

男は頭の中で、そのことを考えた。


キツネの要求するもも肉は、

塩漬けして『血絞り』の最中であった。

ひとりですぐに食べきれる量でもない。


(ここで死なれても困るしな…。)

自分で自分を説得し、

男はひとつ息をつくと

小屋に戻った。


後ろ足のももの枝肉を塩山から掘り出し、

薄い前側を山刀で切って取り出す。


まだ水分が抜けきっていない肉だが、

キツネの要求通りに水に漬けて塩を抜く。


キツネは、小屋の前で座って男の様子を見ている。


――焼いて。

(注文の多いキツネだ…。)

またため息をついて、かまどに火を入れた。


温まった鉄鍋に油を敷いて、

塩抜きした肉を焼く。


表面の水が蒸発して油が弾け飛び、

蒸気が逃げ場を求めて肉を押し動かす。


熱せられた肉は縮み、

裏返せば濃い土色に変わって匂いを放つ。


――香辛料は?

「こーしんりお…、そんなもん無いが?」

――くさい肉は食わん。

「獣のくせに…。

 まぁ、酒で良いか…。」

〈ファタ〉の酒を少量、肉と一緒に焼く。


(焼く前に肉に漬けるんじゃなかったか…?)

男には酒を使った調理などしたことが無かった。


父が隠れて作っていた酒であったが、

男の好みでは無く、使わずに居た代物だった。


――ウツワは?

まだ熱い鉄鍋を地面に置くと、キツネが

一度下げた首を上げて男に抗議した。


「は? 器?

 鍋で食えるだろ。

 このまま食え。このまま。」

――火傷せいと言うのかお主は。

――これじゃから男子はのぅ…。

――犬ころであるまいし…。

「犬こ…。

 オレは普段からこうだが…。」


キツネも野犬も大差はない。

しかし鍋でそのまま食べる男が、

キツネ相手に犬ころ扱いされた。


埃を被っていた木椀を洗い、

焼いた肉を雑に盛った。


――焼き過ぎで硬くなっとる。

――こゃつなぞは焦げとるわ。

――野菜を食わんと消化に悪い。

――あぁ、こゃ、もうちと塩気が欲しいの。

――山羊乳で煮込むべきじゃ。

「獣のくせに…。」

妙に知識があって文句が多い。


肉を焼いただけの料理に

文句の言葉を並べる割に、

器に口を突っ込みガツガツと食べる。

その姿はやはり犬だった。


「うまいか?」

――せっかく奪った命じゃろ。

――食うてやるのがわしの役目じゃ。

「獣は焼いた肉を器使って食いはせん。」


キツネがあまりに美味そうに食べるので、

男はそれが羨ましくなってきた。


器を空にし肉を食べ終えたキツネは満足し、

再び丸くなった。しかしそれは小屋の中だった。

「オレの寝床だぞ!」

――ちょっと横になるだけじゃ。

男の寝床で、キツネは大あくびをする。


キツネは否定したが人間臭い言葉に、

確信があった。

(こいつは必ず寝る…。)


「食ったらどっか行くんじゃないのか!」

一方的に押し付けた約束を反故にされ

男は銀毛の腹に手を突っ込み、持ち上げて

やせ細った身体を退かそうと試みた。

だがキツネが起きる気配はまったくない。


「こりゃ…傷か…?」

腹を縦に走る傷跡が男の手に触れた。


獣同士の占有域の主張か、

イノシシなどはメスの奪い合いで傷を負う。


そこに虫が湧くものや毒が入って腐るなど、

狩ったところで肉も皮もがダメな場合がある。


「シカか、イノシシか…?」

触れた鋭利な傷跡が、別のものと気づき、

恐れてさっと手を引いた。


(なんだ…?)


傷跡に、男は何かに怯えていた。

怯えたものの、起きたキツネと目があった。


――ハレンチめ。

――わしの乳に欲情するとは。

「せんわ!」

ニヤニヤするキツネの頬をつねって伸ばした。

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