銀毛に眠る

下之森茂

01 獣を屠る

それが男に顔を向けた。


つぶらな目に命を灯し、

長細い前の足で地面を踏みつけ

その苛立ちをあらわにする。


濃い土色の体毛に覆われ、

四脚であっても長いツノは

枝状に別れて先が尖っている。


頭を小さく左右に振って、

大きなツノで男を威嚇する。


伸びたツノはその動物の年齢を伺わせる。


4才を過ぎた牡鹿。

冬を迎える前の繁殖期。


「前足で良かった。」

男はそのシカに言うでもなく、

小さく安堵し、ひとりごちた。


シカは前足を片方だけ縄で縛られ、

樹の周囲は土が剥き出しになり

抜け出すべく一晩暴れた形跡がある。


男の姿に逃げようとするも、

隣の太い樹を中心に四肢を滑らせた。

罠にくくられた前足が、

シカを捉え離さない。


男の小さな身体を包むほど

大きなオスイノシシの皮を背に、

腰には獣をほふる山刀をぶら下げる。


暗い土色をした

イノシシの頭の毛皮を脱ぐと、

短く燃えるような赤い髪が現れる。


赤土色の肌をした顔には

あどけなさを残していた。


罠を仕掛けた男は、獣の敵である。


男はじわりとシカとの距離を詰める。


シカの立派なツノをまともに食えば、

小さな人の男などひとたまりもない。


シカと向き合った時に

母の腕で眠る弟を思い出して、

男はつばを飲み込んだ。


野生動物は、

生きる為に死力を尽くす。

生半可に向き合えば、

狩る側が命を失う。


輪にした縄を持って、男がさらに近寄る。


シカもその時を待っていたのか、

長いツノを向けて男を突いた。


だがシカは再び罠に自由を奪われ

前足から勢いよく姿勢を崩し、

後ろ足を滑らせると

無防備な背中を男に向けた。


その瞬間を狙い、男はシカに横腹に膝で飛び乗り、

輪にした縄でツノを縛り引っ張った。


罠を仕掛けた樹に、

ツノが地面を掘るほど低く頭を縛り付ける。


ツノごと横倒しのシカは、高い鳴き声を上げる。


男は体重を乗せて腹を押さえつけ、

暴れる後ろの両足も別の縄で縛った。


縛った縄を枝に投げて、シカの身体が

ほぼ逆さまになるまで引き上げる。


重労働と緊張で息が上がる。


山刀を鞘から抜く。


山刀は猟師に欠かせない

仕事道具のひとつである。


黒色の刃は手のひらほどの長さで、

刃の先端は鋭く尖らせ、手入れされている。


深く息を吐く。


刃をシカの首の根元にある

頸動脈に刺して手早く抜く。

刃の中腹までが血と脂で赤く濁る。


刺した場所から血が湧いた。


シカが痛みに鳴き、肺を動かせば、

血が2度、3度と塊になって湧いて出る。


身体に血を巡らせようと

心臓を動かせば動かすほど、

血は首の穴から抜け出て

地面を血まみれにした。


鳴き声は次第に弱まる。

シカの目は魂を失う。


(慣れはせんな。)

男は胸中でつぶやいて、

その目を見下ろし、再び深く息を吐く。


「〈アラズ〉の元へ。」

消えゆく命を眺め、

神への祈りを述べる。


生き物は人に限らず、

動物であれ植物であれ大地に縛られる。


だが、魂だけはその束縛から開放され、

〈アラズ〉の神々の元へ行けるという。


肉体から解き放たれた魂を導く祝詞が、

男の中には習慣としてまだ残っていた。


刃についた血と脂をシカの足先で拭う。


シカの命を奪うだけであれば、

逆さ吊りにしてまで放血する必要はない。


男は肉を獲るのが目的である。


シカの体毛についた毒により傷口から

汚染された毒の血が血管に巡り、

残った熱によって肉全体の腐敗を早める。


「人も傷口を消毒せねば、

 病気になり、魂が荒れる。

 これと同じことが、

 狩った動物の体にも起こる。」

と、父は言った。


父の父である祖父も、

幼い頃の男に同じことを言った。


(どうして体が失ったはずの魂が荒れるのか?)


男にふと疑問が湧いたが

次の作業に移った時に、

それは記憶の隅へと追いやられた。


吊ったシカを降ろして、

魂を失った体を仰向けにする。


秋になり脂肪を蓄えた大きな身体。


柔らかな腹の皮をつまみ

山刀で丸い穴を空けると、

薄い膜から膨れた内臓が

今にもあふれ出そうであった。


まずはヘソから肛門へ向けて下腹部を開ける。


尿道をつまみ、尿が肉にこぼれるのを防ぐ。

排泄物による肉の汚染を穢れと呼ぶ。


穢れを防ぐ為、肛門周りまで皮を切り、

つまんだ長い尿道を外へ出す。


次は胸部に向けて腹の毛皮だけを切る。

毛皮の下は薄い腹膜により

内臓が包まれている。


腹膜を刃先で開けた穴に指を突っ込み、

指で作った隙間に刃先を入れて

内臓を傷つけないよう慎重に腹を開く。


糞が詰まった大腸を傷つければ肉は穢れる。


「クサい肉は食いたく無いからな。」

男は鼻にしわを寄せて、少し昔を思い出した。


臭いや汚れは肉の味に直結するだけでなく、

腹痛などの病気を引き起こすこともある。


穢れはできる限り避けなければいけない。


内臓の半分を覆うほどの大きさの第一胃。

緑がかった灰色で、内部の空気で膨張している。


腹膜に刃を深く入れてしまうとその胃を傷つけ、

胃の内容物が腹腔の内外へ噴出、飛散する。


胸骨を開き、肋骨に繋がる横隔膜を切り離し、

胸から首へ、男は二の腕まで突っ込む。


気管と食道から繋がる内臓を

引きずり出して地面にこぼす。


暗い赤土色の肝、薄紅色の肺、

握りこぶし程度の心臓。


白色点、出血、変色などの異常は見られない。


心臓と肝は生で食えないこともない。

獲ったばかりの鮮度の良い内にだけ

食べられる部位は、猟師の特権とも言われた。


「食わんのか?」

そう言われてよく勧められたが、

幼かった頃の男には父たちが喜ぶ

その味の良さが分からなかった。


男は空腹ではなかった。


病気の危険性を考え、

他の部位と同じく埋めることにする。


虫たちに食われ土に還るか、

食肉の獣たちが掘り起こして食う。


男の村で食うものは決まって肉だった。


ただ、殺直後の肉は熱を持ち、

筋肉が硬くなる為に普通は食べない。


内臓はその生物が死んでも熱を持ち、

肉が傷むのを早める為に最初に処理する。


肝や野菜のような取れたての鮮度とは、

肉に限ってはその扱いが異なる。


最後は大腸と膀胱ぼうこうを傷つけないように、

筋から引き剥がすようにして取り出す。


男の腕は肘まで脂にまみれ、

シカの生きていた時の熱が伝わり、

ほのかに蒸気を放つ。


曲げ続けた腰を伸ばして、深く息を吸う。

全身に血がめぐるのが分かる。


獣を殺し、肉を得る。


これが小さな赤髪の男の、

猟師としての生業であった。

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