第八話「聖女と魔女」

                  ◇


「……な、なに? 何なの?」


 ユーリは、その轟音を聞いて目を覚ました。

 地響きと共に寝台が揺れ、天井から土埃が舞い落ちてくる。それはほんの僅かな間の出来事で、後には水を打ったような静けさだけが残り、そうして彼女は、自分がどんな状況にあったのかを思い出した。


「嫌だ……もう、かえりたい」


 血と泥に塗れた顔に、涙が滲む。

 彼女は一切の身動きができない状態にあった。大聖堂の地下、拷問部屋の寝台の上に横たえられている。民衆の暴力に晒されたその身体には痣ができ、先刻の軽い拷問によって腕を吊し上げられて両腕が脱臼していた。その上で銀の鎖をもって、寝台に四肢を縛り付けられている。

 拷問の最中は、まだ良かった。儀式によって呪印を刻み、痛みを感じない身体となった魔女にとって、単純な暴力は恐れるべくもない。だが銀の鎖が身体に触れた途端、全身の毛が逆立ち、内臓が捻じれるような猛烈な不快感が全身を駆け巡った。苦痛というものを長らく忘れていた彼女にとって、それは想像を絶するものだった。


「死にたくない、死にたくない、死にたくない……」


 泣きながら、呪文のようにその言葉を繰り返す。

 だが彼女に待ち受ける運命は一つだ。これから毎日、夜になれば男達の慰みものにされ、やっと外に出た頃には民衆の前で吊るされるか燃やされる。挙句、魂は吸い取られ、残った肉体すらも、あの穴に落とされて、――それ以上は考えたくもない。

 不意に、拷問部屋の鉄扉の向こうに足音が鳴り響いた。その数は三、四人程のもの。ユーリはそれを聞いて、もう外はきっと夜なのだろうと察した。これから起こる事は予想がついている。故に、嫌悪はあれど恐怖はない。同じ人間とも呼べない、腐った獣共に一晩中、弄ばれる。それだけ。ただそれだけのこと。犬に噛まれるのと変わらない、


「……っ」


 けれど。本当は、泣き出したかった。ここから逃げ出したかった。誰かに助けてほしかった。魔女といえど心まで怪物ではない。情もあれば、恋もする。一人の女に過ぎないのだ。ましてや自分には想い人がいた。その顔を思い出すだけで、もう涙が堪えられない。嫌だ。こんなのは、嫌だ。あなたに会いたい。声が聴きたい。ユーリは思わずその名を叫びそうになった。

 扉が開け放たれる。入ってきた一人が、ユーリの横たわる寝台の横に立つ。


「ユーリ――」


 そして幻聴を聞いた。自分の名を呼ぶ、優しい声。愛おしいあの人の声。

 目を薄く開ける。――ああ。今度は、幻覚だろうか。

 そこに、――想い人の姿がある。


「あ、ああ」


 夢ではない。幻ではない。美しい白金の髪。紫水晶のような輝く瞳。

 見間違えようもない。あれほど焦がれた、私の愛しい人。


「――アンヌ。アンヌ。アンヌ」


 その名を呼ぶ。何度も呼ぶ。


「大丈夫よ。ユーリ。もう、怖がらなくていいの。だから大丈夫、大丈夫」


 蒼衣に身を包んだ修道女――アンヌはそう言うと寝台の上でユーリを抱きしめた。それから泣きじゃくる彼女が大人しくなるまで、ずっとそうしていた。


「怖かった……もう会えないかと思った。アンヌ」

「こうして会えたでしょう。ユーリ……間に合ってよかった」


 アンヌはもう一度ユーリを抱きしめると、扉の前に立っている二人の聖堂騎士を睨みつけ、命令を下した。


「彼女は冤罪です。即刻釈放に。それあら尋問した者達を広場へ。縛り首にします」

「はっ……釈放? それに縛り首ですか? それは――」

「聞こえませんでしたか?」


 狼狽える部下達をアンヌは強い語気と共に睨みつけた。瞬間、紫色の瞳が妖しく輝き、部下達は目を見開いたまま硬直する。――魅了の魔眼。目を視た相手の意識を侵し、惑わす能力。目を光らせながら、アンヌは命令を続けた。


「彼女を密告した者を探しなさい。衛兵、探索者、使える人員はすべて導入して構いません。それから朝までこの部屋に誰も入れないこと。私が彼女の治療にあたります。……では、そのように」

「――了解しました。直ちに」


 聖堂騎士たちは虚ろな目でそう言うと速やかに部屋を立ち去った。

 アンヌは懐から黒魂晶を取り出すと治癒の呪文を唱え、ユーリの傷を癒し始める。


「他に痛いところはある? ユーリ」

「ううん。大丈夫」

「本当? こことか痛まない?」

「あっ、えっ。ちょっと。アンヌってば」


 アンヌの白い手がユーリの身体をまさぐる。再会を喜ぶ魔女達はしばし寝台の上で戯れ合っていた。魔女同士の同性愛は決して珍しいものではない。魔女という言葉自体が両性を意味するように、魔女宗においては性別による愛の垣根など、ないにも等しいのだという。


「それで――ユーリ。私が居ない間に何があったの?」


 〈魔女宗〉の直属であるアンヌは若くして司祭の位にあり、この街の周辺の異端審問を取り仕切る指導者でもある。黄金で縁取った蒼色の修道服とベールのついた宝冠がその証で、彼女はここ数日のあいだ街を留守にしていた。聖堂騎士の一団を引き連れて領地内の農村を巡回していたのだった。


「わからない。突然審問官がギルドに押し入ってきて……明らかに様子がおかしかった。たぶん犯人は、貴方と同じ魅了の魔眼の使い手だと思う。あいつの――〈異端の魔女〉の仕業よきっと」

「〈異端の魔女〉? ……まさか。あの噂が本当だっていうの?」


 裏切者が居る――与太話の類ではあるが、その噂はアンヌの耳にも入っていた。

 異端の魔女。魔女達の間で、裏切者はそう呼ばれている。

 奇妙な呼称だった。魔女こそ異端の代名詞のようなものなのに。いや、むしろ、それを皮肉った上で『魔女の中の外れ者』を差してそう呼ぶのだろう。


「犯人の正体は、私にも分からない。だけどそいつ、きっと貴女の留守を狙ったんだわ。だって貴女が居たら、こんなことになるはずがないもの」

 

 アンヌがこの街に居る以上、何かの間違いで本物の魔女が捕まったとしても今のように無罪放免にできる。異端の魔女がアンヌの留守中を狙ったのは明らかだった。


「私のユーリをこんな目に合わせて……許せない。絶対に見つけ出して、嫌というほど、自分の罪をわからせてやる」

「アンヌ。その時には私にもやらせて。そうじゃなきゃ気が済まない」

「もちろん。その時はそこにある色んな拷問器具の使い方を教えてあげるわ。――ああ。今から楽しみね」

「けど、気を付けてアンヌ。奴は……まだ近くに潜んでいるかも」

「そうね。けど心配いらないわ。私たちには、切り札がある。誰にも私たちには敵わない。誰にも私たちを止められない。貴方との愛を、絶対に邪魔させたりしない」


 アンヌはユーリを真っ直ぐに見つめる。そして肩に手を掛け、寝台に押し倒した。

 細い指と指が絡み合い、二つの身体が重なってゆく。

 紫紺の瞳を潤ませながら、アンヌは薄桃色の唇から艶めいた舌を覗かせる。

 熱い吐息を感じながら、ユーリは慎ましやかにそれを受け入れた。 

 長い口付けが交わされる。貪りあうように。吸いついては絡み合う二つの躰。触れ合った手のひらは堅く結ばれ、衣越しに体を擦り合わせる度、得も言われぬ快感に身をよじる。それは蛇の交合を思わせる、乙女たちの甘い情交。

 聖女の唇が、名残惜しむように糸を引いた。慈しむようなその表情は何故だか今にも泣きだしそうで、とても儚い。綺麗だった。狂おしく、眩いほどに。だから泣かないで、と彼女は願った。だけど、叶わない。熱い涙がぽたぽたと、零れて落ちる。


「アン、ヌ……」

「ユーリ。あなたが好き……大好き。生きてて、良かった。本当に、……」 


 あと一日、遅れていたら。そう思うだけで世界が終わるよりも恐ろしかった。代わりなどいない。貴方だけしか、私には居ない。だから他の何を犠牲にしてでも。


「泣かないで、アンヌ。……愛してる」


 ユーリは上体を起こし、指先でアンヌの涙を拭うと、もう一度熱い口づけをする。溢れ出す涙を止めるには、それだけで十分だった。アンヌは無邪気な笑みを浮かべるとユーリを思い切り抱きしめて、もう一度寝台に押し倒す。


「もう、離さないんだから」


 今度こそ、その熱は止め処の無い。

 血の臭いが立ち昇る拷問部屋で、魔女達は何度も愛しあった。  


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