シアワセな家庭

更科 転

シアワセな家庭


 会社帰り、高橋たかはし 優太ゆうたはオフィス街の小さな花屋に立ち寄った。


 どうして花屋になんか立ち寄ったのかと言えば……今朝、四歳になる娘が保育園に行きたくないと泣きだして、そんな娘を宥める妻の姿を見たとき、ふと彼女に感謝の気持ちを伝えたいと思ったのだ。


 しかし、直接言葉で伝えようにも優太は自分が口下手であることを自覚しているため、代わりに花を買って帰ることにした。


 優太は慣れない様子で赤い薔薇とピンクの薔薇を購入する。


 さっきネットで少し調べた程度の知識でしかないけれど、赤い薔薇には「愛情」、ピンクの薔薇には「感謝」という花言葉が含まれているらしい。


 出会った頃から花が好きと言っていた妻の喜ぶ顔を脳裏に描きながら優太は帰路についた。




 優太の自宅は都内にある賃貸マンションの六階。廊下の突き当りにある六〇一号室だ。


 エレベーターで六階にあがってから、花を抱えて長い廊下を歩く。


 ふと六〇三号室まで来たあたりで、かすかに娘の泣き声が聞こえた気がした。


 突き当りの部屋に近づくにつれて、幼い泣き声がはっきりと聞こえる。


(あの子はまた泣いてるのか)


 優太はやれやれ、と息を吐く。


 しかし、その表情にはどこか幸せそうな色があった。


 誰もいない家に帰るよりずっといい。


 優太は騒がしい日常にこそ幸せを感じていたのだ。


 今日くらいは自分が娘の世話をしようと考えながら、玄関の扉を開く。


「ただいまー」


 しかし、優太の声に対する反応はなく、ひたすら娘の泣きわめく声が家中に響いている。


 靴を脱いで、リビングに続く廊下を優太は苦笑をたたえながら歩いた。


「また泣いてるのかー? せっかくのべっぴんさんが台無しだぞ?」


 扉の向こうにいるだろう娘に言いながら、優太は花を左腕に持ち替えてリビングの扉を開けた。


「――どうしていつも言うことが聞けないの?」

「ごめんなさい、ごめんなさい!」


 リビングでは、妻が言うことを聞かない娘を𠮟りつけている最中だった。


 優太は鞄をテーブルの椅子に置いて、買ってきた花束越しに二人に視線を向ける。


「まぁまぁ、まだ四歳なんだ。元気なのは……」


 言いながら、優太は手に持っていた薔薇を床に落とした。


「……なにをしてる?」


 ちょうど花に隠れて見えなかったが、妻は右手に包丁を握って尻もちをついた姿勢の娘の前に立っていたのだ。


 たまたま料理の最中に娘を叱っているのか、とも考えたが包丁に滴る血液を見るにどうやらそうではないらしい。


 赤い薔薇のせいでぱっと見にはわからなかったが、床に血が染みていた。


 娘の腕に切り傷があった。


 娘は表情を恐怖に染めながらふるふると震えている。


 目の前の光景が信じられず、しばし立ち尽くしていた優太に妻は静かに言った。


「躾よ」

「躾だと? 包丁で子どもを斬りつけることが、か?」


 優太は娘をかばうようにして妻の正面に立った。


「この子が私の言うことを聞いてくれないからよ」


 妻は真っ青な顔でほとんど表情を変えないまま、言った。


 普段の彼女からは考えられないような表情。


 優太はなにか事情があるのではないかと思った。


「なにがあったんだ? 一度落ち着いて話を聞かせてくれないか」

「私は落ち着いているわよ」

「なら、その物騒なものを置いてくれ」


 しかし、妻は優太の要求を受け入れず黙り込んだまま、包丁をはなそうとはしなかった。


「な、落ち着こう。そこに座って話そう」

「うるさい! 話すことなんてない!」


 妻の張り上げた声に驚いて、優太の背後で娘が再び泣き始める。


 すると、がりがりなにかを削るような音が聞こえてきた。


 その音の正体が妻の歯ぎしりの音だとすぐにわかった。


「うるさいうるさいうるさいうるさい!」


 妻は頭を抱えながら狂ったように叫ぶ。


「毎日まいにち、この子は言うことを聞いてくれない。まともに寝させてくれない。せっかく作った料理も食べないし、ずっと泣き続けて。私はもう限界なのよ!」


 優太は妻にかける言葉がなかった。


(そうか、そんなふうに思っていたのか)


 自分が幸せだと感じていた日常は妻の犠牲があってのものだったんだ。


 それに気づかなかった自分を許せない。


 妻は泣き続ける娘をにらみつけた。


「だからうるさいって言ってるのよ!」


 それでも娘は泣き続ける。


 四歳の子どもが恐怖を前にして自分の感情をコントロールすることなんてできるはずがない。


 歯ぎしりの音が大きくなる。


「どいてっ!」


 優太は妻に突き飛ばされて転んだ拍子に食卓をひっくりかえす。


「もう、終わりにしましょう。ごめんね、あなたのことを生んでしまって」


 妻は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら娘に馬乗りになり、両手で包丁を振り上げた。


「やめろ! ほんとにどうしたんだよ。俺たちの娘だろ」


 優太は妻を止めようと羽交い絞めにする。


「はなして、もう無理なのよ。我慢できない、こんなの終わりにしたいの!」

「終わりに? ……ああ。そうか。終わりに」


 優太の脳裏に妻と娘と過ごした偽りの幸せが映る。


 それは優太にとって疑いようのない幸せだったのだ。


 だが、もう戻ることができない。


 だったら……。


「うっ、うぐ……なにを……」


 優太は妻の首に腕を回して力を入れる。


「ごめん、ごめんな。君はもう俺の日常から消えてしまったんだ。ごめん……」

「や、やめてっ、どうして、どうして……?」


 無我夢中で妻の首を絞めた。


 やがて妻の手から包丁が落ちる。


「……ごめん」


 優太は包丁を拾って、床で意識朦朧と倒れている妻の胸に突き刺した。


 床に妻の血だまりが広がっていく。


 それは床に転がっていた薔薇を血のどすぐろい色に染めた。


「……きれいな、薔薇ね」


 妻の目じりから涙が伝い、こめかみに落ちた。


「ごめん、君のぶんまでに生きるから」

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