一人称複数
てこ/ひかり
第一幕
第1話 why?
彼女の指が好きだった。
すらりと伸びた、純白の、まるで陶器のような艶。
それでいて柔らかそうな肉感。
触れると雪のように溶けてしまいそうな、小枝のように折れてしまいそうな。
ほんのりと淡く桃色に染まったその爪も、紋様のように刻まれた細やかな曲線も、そのひとつひとつが芸術だった。
凡そこれ以上美しいものがこの世にあるとは思えない。彼女の指に出会ったその日から、僕はすぐに心を奪われた。
教室の片隅で。
電車のホームで。
不意に
僕の目はいつも彼女の眩しい指先に吸い寄せられて行った。
喋りながら、笑いながら、彼女の十本の指はまるで、それぞれ意思を持っているかのようにしなやかに動き出す。
温かく柔らかな生き物のように。軽やかに楽器を奏でるように。
その瞬間はいつも、時が止まったみたいになって、僕はいつまでもその仕草を追っていられた。
……だからいざ指を切断する時、彼女の顔が思い浮かんで、少しだけ胸が痛んだ。
彼女……沢北さんの。
沢北楓。
それが彼女の、生前の名前だった。
別に僕らは付き合っていた訳じゃない。ただ僕の片思いだった。それは分かっていた。分かっていたはずなんだけれど。
でも……何で。
(どうして……?)
どうしてこんなことに……。
……感傷に浸りそうになる自分を奮い立たせ、僕は目の前の現実に集中する。
まず初めに選んだのは、人差し指だった。
別に親指でも中指でも構わなかったのだが、一番初めに目についたのが人差し指だった。
古来から人は五本の指にそれぞれ神秘的な意味を持たせてきた。
たとえば小指なら、『約束の指』。
これは江戸時代に、遊女が(本命の客相手に)実際に小指を切って渡して誠意を表現していたことに由来する。今の日本では『恋人』や『妾』など、主に女性を表す隠語だが、中国では『小心者』、『出来の悪いやつ』と侮蔑の意味になる。
ちなみに人差し指は英語でindex fingerで、『積極性』や『リーダーシップ』を意味するらしい。僕には何の価値があるのかさっぱり分からなかった。
だから(じゃないが)、人差し指を選んだ。さすがにカッターやノコギリで切断面が汚くなっては敵わないと思い、買ってきた出刃包丁で一気に切り落とした。ズン。ズッ、ゴトリ。
ゴトリ、と小さな音がして、人差し指は萎びた野菜のヘタみたいに風呂場に転がった。『積極性』と言うのも案外脆いものである。
『リーダーシップ』を失い、風呂場はすぐに真っ赤に染まった。
白いタイルに鮮血が
(しっかりしろ)
(こんなところで気絶してる場合か!)
……僕の頭の中には『僕』以外にも『俺』であったり『私』であったり、色々な
今回の切断に関して、一番乗り気なのも俺だった。他にも『拙者』だとか『我輩』だとか、名前はまだない奴らも含めて、大体13人くらいの人格が僕の中にいる。多重人格。まぁその辺はおいおい説明していこう。とりあえず、今は指だ。
今回の事件に際して、僕の中の13人のうち8対5くらいで、賛成意見が多数決を取った。
(えー、静粛に。静粛に。では賛成多数で、指を切断することに決定いたします)
……と言った具合だ。僕の俺による私のための脳内会議は、実に平和的な、
僕自身としては、決して迷いや戸惑いがなかったとは言い切れない。もちろん、いつか彼女の指に触れてみたいとは思っていた。出来ることなら、その美しさを永遠に自分のモノにしてしまいたい。冷凍保存して、ワックスを塗りたくって、ガラスケースの中に飾って……しかしそんな機会は一生訪れないと諦めていた。
(しっかりしろ。こんなところで挫けてどうする)
俺の声に励まされて、僕は心を奮い立たせた。
切断面は思ったほど酷くなくて、僕はホッとした。用意しておいた包帯でしっかり止血を施し、シャワーを全開にして、風呂場の血を入念に洗い流した。拾い上げた指は、まだほんのりと暖かかった。血の気を喪って、これから徐々に黒ずんで行くのだろうと思うと、僕は不覚にも大声で泣き出しそうになってしまった。
(大丈夫。大丈夫よ)
(安心せい。ワシがついとる)
……頭の中で声が響く。私やワシに励まされ、次第に落ち着きを取り戻す。緊張はしていないつもりだったのに、いつの間にか身体が震えているのが分かる。しかし、こうなった以上、もう後戻りはできなかった。
小さく息を吐き出す。風呂場を出ると、たちまち二月の、刺すような冷たさが容赦無く僕を襲った。外はこんなに寒いと言うのに、全身汗でびっしょりだった。
一歩踏み出すと、頭がクラクラした。
夢中になっていたTVの電源を突然消されたみたいに、まだ現実に感覚がついてこない。何だか今まで白昼夢を見ていたかのようだ。
それも、とびっきり悪い夢。
僕は思わずぎゅっと掌を握り締めた。(幻じゃない)確かな実感がそこにあった。生煮えのアスパラガスみたいな、温い、切断した人差し指の感触が伝わって来た。
家の中は静かだった。この時間、家族はまだ誰も帰って来ていないはずだった。息を潜め、耳を
……何も聞こえない。
ただ遠くの方で車の雑音と、冷蔵庫か何かの振動音がするだけだった。
切断した指はひとまず、机の引き出しの中に、厳重に鍵をかけて保管しておくことにした。臭いが気になったので今度芳香剤をたくさん買ってこようと思った。両親には『思春期の息子の部屋に勝手に入ってくるな』とキツく言ってあるので、多分大丈夫だろう。後はいたずら好きの妹だが、
(……なぁに、心配すんな。いざとなったら、ソイツも殺しちまえば済む話だろうが)
頭の中では、まだ名前もない声がニヤニヤと囁き続けている。僕は自分の部屋に戻り、電気もつけずにベッドに潜り込んだ。耳元の血管がドクドク暴れていた。心臓が早鐘を打っているのが分かる。
……大丈夫。大丈夫。多分バレない。多分。
僕は何度も自分にそう言い聞かせた。
(なぁに縮こまってんだ。まだまだ、お楽しみの大流血ショーは始まったばかりじゃねえかよ)
部屋の中は真っ暗だった。ニヤニヤ声が聞こえないフリをして、僕は無理やり目を閉じ、頭から毛布を被った。
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