第19話 転換点

 中学2年生の夏休み、唯一と言っていい友人でクラスメイトでもある⬛︎⬛︎⬛︎の家に泊まる機会があった。


「ねぇ⬛︎⬛︎……。本当に大丈夫?」


「ん? 大丈夫だいじょーぶ! 心配しないでいいよ」


 時刻は19時を回って外も薄暗くなる中、彼女の自室にあるベッドの上に座って話す。

 隣に座る彼女は、陽気に笑いながら手でピースを作って言った。


「長期休みに2日3日外泊するなんてよくあることだよ。それに家に書き置き残してきたんでしょ?」


「いやそうじゃなくて……。⬛︎⬛︎のご両親にも迷惑でしょ。突然人が増えたりしたら」


「なぁんだ、そんなこと。昨日ママに『せっちゃん泊まるからしばらくご飯1人分多めにお願い!』って言っといたから! 任せといて、って言ってたよ!」


 親指を立てて大丈夫だとアピールしていたが、心の中では気が気でなかった。


「昨日って……料理だって準備とか大変なんでしょ? そんなことして貰わなくても大丈夫って、今からでも言うのは遅く――」


 断りと詫びを伝えに行こうと立ち上がると、優しく腕を取られてベッドに引き戻される。


「こぉらー! 私もママも大丈夫って言ってるんだから、せっちゃんは気にすんじゃないの!」


 手を引かれたまま、ベッドに横になった⬛︎⬛︎につられて後ろに倒れる。


「それにさ、折角の夏休みなんだから、楽しい記憶が1つでも多い方がいいじゃん。一緒にご飯食べて、遊んで、同じ部屋で寝て――私は楽しみだけど、せっちゃんは……どう?」


「楽しみじゃない……ことは無いけど」


「……良かった。なら心配することなんて無いよ? 大丈夫、うちにいる間はゆっくりしてて?」


 その言葉に絆され、彼女の家に泊まることにした。


 それから、⬛︎⬛︎⬛︎と家族に交ざって同じ食卓を囲み、並んでテレビを見て、学校のことを話し、本物の家族のように数日を過ごした。

 初めは慣れなかったが、優しくて色々なことを気にかけてくれる人柄で、3日経った頃にはすっかり受け入れられるようになっていた。


 泊まって4日目の朝、⬛︎⬛︎⬛︎とその母との3人で朝食を取ったすぐ後のことだった。


「芹沢さん? ちょっといいかしら?」


「は、はい」


 ⬛︎⬛︎⬛︎がトイレに席を離れて2人きりになったとき、テーブルの斜め向かいに座っていた⬛︎⬛︎⬛︎の母に声をかけられた。


「詳しい事情は聞いていないんだけれど、ご両親には何も言わずに来たのよね? 書き置きだけ残して」


「まぁ……そうですね」


「あの子の頼みもあったから3日はこうしてあげられたけど、そろそろご両親も心配してると思うのよ」


「心配、してますかね?」


「きっとしてると思うわよ。そこでなんだけれどね、一度ご両親にご挨拶させてもらえないかしら。昔は連絡網があったんだけれど、最近はもう無くなってるでしょ? 折角だから、お家まで案内して欲しいのよ。無理にとは言わないけど、どうかしら?」


 そう言われて少し考え込んでいると、戻ってきた⬛︎⬛︎⬛︎が少し怒ったように会話に挟まってきた。


「ちょっとママ、せっちゃん困らせないでよ。そもそも連れてきたの私なんだから、帰すかどうか決めるのも私!」


 ⬛︎⬛︎⬛︎は両腕で守るようにこちらを抱きしめる。そして、母親の方を見ながら頬を膨らませて分かりやすく不満そうにしている。


「そうは言っても、向こうの親御さんに何も言わずに預かるって本当は良くないことなのよ?」


「でもぉ……」


 不貞腐れる⬛︎⬛︎⬛︎に困った様な表情をしてため息をつくが、親として優しい口調で子を諭す。


「それに、本人がどう思ってるかはもう確認したの?」


 そのことはすっかり忘れていたようで、ハッと思い出したように顔を上げてこちらに振り向く。

 さっきからずっと抱きしめられたままで顔がすぐ目の前にある状態だったが、気にせずに尋ねられる。


「せっちゃん、もしかしてうちに泊まるの嫌だった?」


「別に……嫌じゃないよ」


「えへへ、ありがと!」


 不安そうにしていた⬛︎⬛︎⬛︎は、その言葉で嬉しそうに笑みを浮かべ、再び母親の方に向き直る。


「ね! せっちゃんもこう言ってるし!」


「そうねぇ……。じゃあ、芹沢さんのご両親から『まだ泊まっても大丈夫ですよ』ってお許しを貰えたらね」


 その方向で3人の考えがまとまった所で、身の回りを整えて自宅へと向かった。


◆ ◆ ◆


 自宅に歩いて向かう途中、⬛︎⬛︎⬛︎の母親に両親について尋ねられる。

 ⬛︎⬛︎⬛︎は留守番することになったので、この場には2人きりだ。


「今9時くらいだけれど、ご両親2人とも居ないってことは……あるかしら?」


「いえ、父はともかく母はいると思いますよ。仕事とかはしてないので」


「ならご挨拶できるわね、良かった。ところで、ご両親はどんな方? お会いする前に聞いてみてもいいかしら?」


「そうですね……」


 その後歩きながら自宅に着くまで、両親について当たり障りの無いように話すことになった。

 どんな性格をしているのか、普段何をしているのかなど――いつも2人が周りに見せている外面について話しておいた。本当はそんなまともな人ではないというのに。


「着きました、ここです。居るかは分からないですけど、とりあえず上がって下さい」


「あら、ありがとう」


 ごく普通の一軒家――家族3人で暮らすのに不便の無い広さの家だ。

 鍵を開けて扉を引くが、家の奥から何も音は聞こえてこない。それだけならただ外出しているだけに思えたが、そうは思えない理由があった。


「違ったら失礼なんだけれどね、普段家からこんな臭いはしてるかしら……?」


 蒸されたような暑い空気と共に奥から流れてきたのは、何かが腐ったような強烈な異臭だった。

 思わず鼻を摘みたくなるほどの臭いだったが、入らない訳にもいかないのでそのまま廊下から奥へと進む。


「こんな臭い、嗅いだことも無いです……」


 普段家からこんな臭いがすることはなかった。

 いつもは換気のされていないどんよりとした空気で、臭いといったらタバコの煙か、食べ物の容器が溜まったゴミかのどちらかだったから。


 一歩一歩警戒しながら進むと、その度に異臭は数倍に増していく。

 リビングに繋がる扉を開くと、そこにあったのは――


「きゃあぁああっ!!」


 を見て、先に口を開いたのは隣にいた⬛︎⬛︎⬛︎の母親だった。

 叫んでしまうのも無理はなかった。何故なら、見ず知らずの人が2人首を吊って死んでいたのだから。その上、夏の暑さで腐敗が進んでハエなどの虫がたかっていれば。


「……これって」


 この状況で、死体よりも先に目に付いたのはテーブルの上に置かれていた紙類だった。


 だが、そこにあったのは遺書などではなかった。

 消費者金融らしき所から届いた幾つもの封筒。そして、それらが重なった一番下にあった、出る前に残した書き置きだった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「はぁぁ……余計なこと思い出した」


 人を吊るした肉クラゲで、記憶からは無くしていたはずの数年前の出来事がフラッシュバックした。

 思い出したくもないので、カタツムリの時と同様に圧縮して破裂させることで倒す。


「あの頃からだっけ……」


 あの日を期に、私の心と身体には幾つか変化があった。

 1つ、あの時換気もせず空中に飛散していた細菌やバクテリアを吸い続けたことで喉を痛めた。そのせいであれから体調を崩していた。


「あの子、名前何ていうんだったっけ……。顔もあんまり思い出せないや」


 もう1つ、人を認識する力が落ちた。数日経つと、顔を覚えられなければ名前も一致させられなくなった。今のクラスメイトだって誰ひとり名前を言えない。


「それにしても何で両親のことなんて思い出しちゃうかなぁ……」


 2人が死んでしばらく経って、ようやく忘れかけてきたことが鮮明に思い出される。

 私が世界で1番目と2番目に嫌って蔑視している人間――それが死んだことについてではなく、父と母その人のことを。

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