ゼリーフィッシュ・スクランブル 読み切り版

０－１

　混沌（ケイオス）。

　それが、この海の名だ。

　上下左右の区別もなく四方八方を満たす、色も重さも温度も持たない、この正体の知れない液体を混沌と呼び、混沌で満ちたこの海を、混沌の海と呼び習わす。

　この海は、生体の存在を許さない。

　混沌へしずく一滴でも触れた生命は、その身体を構成する要素に関わらず瞬く間に崩壊し、混沌へと転化する。

　あぶくの一つも沸かないこの海でかき分けた波の一つは、あるいは過去に混沌へ没した者の末路かもしれない。

　果てもなく拡がるのは、死の海だ。なのになぜ、かくも美しいのか。

　気の遠くなるほどの彼方に浮かぶ輝きは、この海へ無数に散りばめられた“世界”の灯火。それぞれの世界を昼夜の入れ替わりに照らす、太陽と月の明かりだ。

　混沌の海を渡航するなら、よほど旅慣れた者であっても、その途方もない光景に心奪われる一瞬が訪れるのが人情というものであろう。

「腹ぁ減ったなあ」

　そうは言っても、それも心にゆとりがあっての話だ。衣食足りてなんとやら。貧すれば、心が鈍くもなるだろう。

　混沌の中へ浮かぶ、一艇の船。

　世界間航行船（インターワールダリーケイオスクラフト）。通称、ケイオスクラフト。

　船体に組み込まれた三基のプラズマジェットエンジンは静まり返った様子で慣性飛行に頼り海を漂うその船は、艦艇というほどの大きさではないにせよ、船内に居住空間を有した三〇〇トン級の中型船だ。

　双翼を広げた怪鳥のような姿からして、元はアルバトロス級と呼ばれる軍用機だろうが、軍籍を示す記章が見当たらず、様々な改造を施された跡があるのを見る限り、従軍船というわけではないようだ。

　右翼には、記章を塗り潰した上に『NORaWayDa』とペンキで殴り書きされている。

　“ノラウェイダ”

　それがこのケイオスクラフトが負う船号だ。

　その船内、船頭にある操舵室で、聞くもさもしい腹の虫が鳴く。

「腹が減った」

　我が身の空腹を嘆く、男の声。着古した風合いのフライトジャケットに身を包むヒューマン種の成人男性が、空欠を訴える虫をなだめるように腹を撫でる。

　短く切り揃えた発色の強い墨色の髪に、熾火を底に宿した炭色の瞳。彼の故郷である“武佐志野（むさしの）”では、ごくありふれた風貌だ。

　この男、名を俠侍郎（きょうじろう）という。

「その音はやめてもらえないか。聞いてるだけで、気が滅入る」

　同じく、ノラウェイダの操舵室。俠侍郎の隣の座席で、硬い印象のある声が、つぶやいた。

　男声的な声――と聞く者の多くがそう喩えるだろう、低い声音。ただ、その声が持つ硬質さは、男のものというだけでは説明が付かない。

　少なくとも俠侍郎のような、ヒューマン種からしてみれば。

　黒革を縫製した丈の長いトレンチコートに身を包むのは、およそヒューマンの膚とは似ても似つかぬ、メタリック。

　同じく黒革の中折れ帽、その庇から覗くのは、何処か理知的な印象を受ける青い彩光を宿した、単眼。

　頭と胴体、そして四肢を揃えた体構造。それはヒューマンと変わらない。だがその身体を構成するのはタンパク質ではなく、鋼鉄だ。

　ひとつ切りの眼窩にもまた、有機的な角膜や水晶体ではなく、カメラを思わせる硝子レンズが嵌め込まれ、自ずと発光している。

　瞳孔とまぶたの役割を担う絞り羽根が、強い光源がないにも関わらず、半分ほど閉じられているのは、それがいわゆるジト目の表情を形作っているからだ。

　そう、“彼”は感情を持つ、知的な生命だ。

　ロボットやマシンではない。強制労働や手段を意味するそれらの言葉を彼らへ向けるのは、一般的に差別に当たる。

　サイボーグとも違う。身体機能を後天的にサイバネ技術で拡張したサイボーグとは違って、彼らは生まれながらにして鋼の肉体を有するからだ。

　“殻（シャーレ）”種と呼ばれる、鋼鉄の身体を持つ彼らは、雌雄の区別を持ち、有機体とは異なる手法ではあるものの、性交渉を経て子を成す無機物生命だ。

　このシャーレ種の男は、俠侍郎のビジネスパートナーであり、名をデガードという。ヒューマンからしてみればそうそう見分けは付かないだろうが、俠侍郎の倍は生きている年かさだ。

「鳴らしたくて、鳴らしてんじゃねえんだよ」

　俠侍郎が愚痴ると同時に、また腹の虫が鳴く。

「つくづく不便な身体だな、ヒューマンときたら」

　その音を聞いてまた、デガードが刺々しさを隠しもせずにつぶやく。

　いい歳をした男が二人、こうしてガキのように角突き合わせているのは、彼らの命運を預かるノラウェイダが、ガス欠に陥ったがためである。

　世界との繋がりを断たれたこの混沌の中において、推進剤を切らしたケイオスクラフトは、引力の存在しない海を慣性の力に従い、ただ漂うのみである。その内、何処かへは行き着くだろう。

　果てのないこの混沌の海にも、寄る辺はある。問題は、その前に船員が枯れ果てるか否かという事だ。

　少なくとも、食料はもう尽きた。卵の殻すら、残っちゃいない。

「元はといえば、デガード。悪いのは、お前だろう」

　俠侍郎が腹の虫を慰めるのを諦めて、さもしさが招く気の苛立ちをデガードへ向けた。

「私が？」

　デガードの絞り羽根が、キュイ――と音を立てて、またわずかに開きを狭くする。ヒューマンの挙措に当て嵌めるなら、目を眇めるようなジェスチャーだ。元より単眼のデガードに、眇めるも何もないだろうが、彼が険を強くしたのは見て取れた。

「仕事のアガリ、飯代に注ぎ込んだのは誰だよ」

「しかたあるまいよ。私の食事は、ヒューマンと違って何かと値が張るのだ」

「たくわえは充分にあったはずだぜ。新しく買い込む必要はなかっただろうが」

「高純度の銀鉱石だぞ。それもドヴェルグが採掘したものだ。精錬前のシロモノは、そうそう市場に出回らん。機会を逃せば、次があるかどうかもわからなかったのだ」

　シャーレの主食は、鉱物だ。有機体の動物がそうするように、硬い鉱物を経口接種する姿は中々見応えがある。

　なんでも、有機生命の胃に当たる臓器内に特殊な酸化酵素を分泌する事で、卑金属貴金属問わずに酸化させ、それに伴い生じるエネルギーを糧とするらしい。

　その肉体を構成するのに必要な物質は、腸に該当する臓器で還元して、身体へ取り込む。基本的な仕組みは、有機体とそう変わりない。最後に、不要な錆を排泄するのも同様だ。

「だから銀の原石一箱、即金で買ったってのか」

　ヒューマンがそうであるように、シャーレにも個体それぞれの食の好みというものがあり、デガードは特に精錬前の金属原石には目がない。

「必要な出費だった」

　悪びれもない、デガード。

「よく言うぜ、食い意地が汚ねえってだけの話じゃねえか」

　腹を鳴らす以外他にする事もない俠侍郎は、ここぞとばかりに糾弾する。

「そういうお前はどうなんだ、俠侍郎」

「俺がどうした」

　何やらカウンターの兆しをみせるデガードに、俠侍郎がむっと視線を向ける。

　済ました顔をしているが、デガードの食糧事情も俠侍郎と同じである。余分な金属は、ネジ一本残っちゃいない。まさか船体を食うわけにもいかないし、そもそも、ケイオスクラフトに使われる特殊な合金は、シャーレの体内にある酸化酵素を以てしても、消化できないのだ。

　つまり、デガード自身も、内心穏やかではないという事だ。

「また行きずりの女に入れ込んだようじゃないか」

　デガードのそれは効果的な一撃だったのか、俠侍郎は言葉を詰まらせた。

　何を隠そう、この俠侍郎という男は無類の女好きである。それも、その道のプロを相手に夜遊びしたり、ちょっとした火遊びに興じるというのならともかく、とかく惚れっぽく一々相手に本気で入れ込むのだから、タチが悪い。

「なにを根拠に……」

「やたらと香水のにおいをつけて帰って来れば、気付くなという方が無理だろう。“ティターニア”、いかにもエルフの女辺りが好みそうなブランドだ。私の鼻は誤魔化せんよ」

　デガードの嗅覚は後付けだ。犬科の鼻を凌駕する感度と精度の嗅覚素子を身体に埋め込んである。シャーレ種は、元が鋼鉄の肉体だからなのか、身体のサイボーグ化への抵抗が少ない。肉体的にも精神的にも、拒絶反応が乏しいのだ。

　彼らは、ヒューマンが身体にタトゥーを入れるよりも気軽に、ほとんどアクセサリ感覚で、自らの肉体へサイバネ技術を取り込む。

「またぞろ、値の張る装飾でも貢いでやったか。今頃は、質屋帰りの女が満足気な顔をしているだろうよ」

　俠侍郎の女癖が、その惚れっぽさへさらに輪を掛けてタチの悪いのは、女を見る眼がまるでないという事だ。ただ性根の悪い女に引っ掛かるだけならまだ救いはある方で、この男が引き寄せた女難にデガードが巻き込まれた件数は、数え上げようにも枚挙にいとまがない。

「よせよ、彼女はそんな女じゃねえ」

「学ばん男だな、俠侍郎。お前こそ、下半身ばかりで物を考えるのはよせ。まったく、タンパク質で身体のできた奴は、これだから困る」

　やれやれとばかりに、ため息を漏らすデガード。シャーレも、酸素を体内へ取り込むために呼吸を必要とするのだ。

「なんだと、この金属野郎。お前こそ、グルメ気取るのもいい加減にしろよ」

「気取ってはいない。食事は人生最大の喜び、そう心得ているだけだ」

「そりゃまたずいぶん、お寒い人生だな」

「なんだと」「なんだよ」

　空腹も限界に達して、大人げもなく睨み合う二人。事の経緯を要約するに、さして懐が暖かくもないのに金使いを荒くした結果、ノラウェイダへの推進剤の補充をケチった末の遭難というわけだ。

　自縄自縛、身から出た錆で角突き合わせる俠侍郎とデガード。次の瞬間、そんな二人の横顔を、光が照らした。

「「なんだっ……！？」」

　二人は思わず、突如現れた光源へと振り向いた。視線の向かう先は、キャノピーの向こう側――船外だ。

　混沌の海の真っ只中、まさか他のケイオスクラフトかと身構える二人だったが、視線を向けて光源の正体を知るや、ひとまず安堵の息を漏らした。

「ゼリーフィッシュか……」

　まるで、向こう側が透けて見えるほど薄い絹布が傘状に拡がり、生命を得たかのように優雅に混沌を泳いでいる。

　その遊泳の軌跡を描くように伸びるいくつもの触手がゆらゆらと、風も吹かず波すら起きないはずの混沌の中で、あり得ない液体の流れの存在を示していた。

　絹の傘と、それに続く触手は、世界の輝きのみが浮かぶ闇の中にあって、自ずとネオン管のような光を発している。

　ゼリーフィッシュ。

　混沌を泳ぐ、唯一の生命。

　今、俠侍郎とデガードの前を揺らめくその姿は、ノラウェイダの船長を超えて余りある。

　それでもなお、この個体はゼリーフィッシュの中では小柄な方だ。大きなものになると戦艦級のケイオスクラフトをも上回り、最大級ともなると、艦隊を丸々呑み込むほどの威容を誇るという。

「この辺りの海域を泳いでいるとは珍しい。これが、吉兆ならばよいのだが」

　ノラウェイダの状況を思えば、どんな兆しも、ポジティブに捉えるのは難しいとは思いつつ、デガードがつぶやく。

　その矢先の事である。俠侍郎とデガードが、再び眼を剥く事態へと直面したのは。

　突如として飛来した鉄杭が、ゼリーフィッシュの傘を貫いたのだ。

　いや、先端が鍵状になっている。杭というよりは、銛だ。銛の後端は輪っかになっており、頑強そうなワイヤーが通してある。

　ワイヤーの繋がる先を辿ってみれば、そこには一隻のケイオスクラフトがあった。ノラウェイダを納めてもまだ余裕がありそうな貨物船だ。仮にこのゼリーフィッシュを閉じ込めようとしても、充分なペイロードを有しているだろう。

　船体のあちらこちらに独自の改造を施してあるようで、銛を打ち出した銛筒の他にも、兵装がいくつか見られた。実体弾だけでなく、レーザー射出器、エーテル兵器まで積んでいる。

　自衛手段というには、いささか物騒だ。後ろ暗い目的があると見るべきだろう。

「ゼリーフィッシュの密猟か。噂には聞いていたが」

　あまりにも罪深いと唾棄するデガード。ゼリーフィッシュは、“世界”の種だ。その生命に危害を与えるという事は、一つの世界の存在を脅かすという事と変わりない。

「そのぶん、金になるんだろ。そりゃまあ、色々と使い道はあるだろうぜ」

　俠侍郎もまた、犬の糞を踏んづけたかのような、けったくそ悪いと言わんばかりの顔で吐き捨てた。

「だがまあ、これはこれで、俺たちにとっちゃ都合がいい」

「なに……？」

「これで仕事の名目ができるってもんだろ」

　単眼の絞り羽根を胡乱な目付きに変えるデガードに、俠侍郎は先の表情と打って変わって、口端を歪めてみせた。

　さも、悪辣に。

「本気か？　ガスは予備しかないんだぞ？　緊急時の姿勢制御に残しておこうという話だったろう」

「今がその、緊急時ってやつだろ？」

「……もって三分だ。戦闘マニューバとなると、それくらいだろう」

　それでもやる気か。そう問うておきながら、デガードの手はすでに、ノラウェイダの操縦パネルへと伸びていた。

「充分だろ？」

　俠侍郎もまた、操縦桿を握り込む。

「まあ、申し分はないな」

　デガードが絞り羽根を二度三度、素早く瞬かせる。それが、シャーレ特有の笑みだという事を、俠侍郎は知っていた。

「いつも通り、火器管制は私に任せろ」

　そう言いつつ、デガードはサイバネ義肢の手首から直結プラグを引っ張り出して、操作パネルのソケットへ繋いだ。

「ああ、操船は俺がやる」

　そう頷くと共に俠侍郎は、ノラウェイダのイグニッションレバーを待機（ウェイト）から機動（アクティブ）へと、切り替えた。