Creep
腕の痛みで、目が覚めた。
横を見ると、女が俺の腕を枕にして寝ていた。
ゆっくりと腕を引き抜くと、痺れが腕全体に広がっていく。
起き上がると、頭の内側からガンガンと叩かれるような痛みが走った。
全身が重い。部屋を見回す。
いつもの部屋とは違って不思議な部屋だった。
部屋の大部分を、大きなベッドが占めていた。ベッドには女が一人眠っている。
薄いシーツから裸の上半身が顕になっていた。
大きな乳房が、呼吸とともに上下している。
下半身がむずむずするので、見てみるとペニスに薄いビニールがくっついていた。
ゴミ箱に捨て、トイレに行った。
くらくらした頭のなかに、断片的な記憶が蘇ってくる。
そうだ。飲み会の後、あの女にこの部屋に連れてこられたんだ。
「嘘? 初めてなの?」女の嬌声が耳元に蘇ってくる。
まるでセックス自体が初めてかのように言われて腹が立った。
「俺は猫なんだから人間とヤるわけねえだろ!」って叫んだ気がする。
それに女が笑って「猫ちゃんなの?」って頭をなでてきて、余計に腹が立ってのしかかって……。
鏡を見ると、ひどい顔色の人間がいた。
これが今の俺か。内臓をすべて掴まれているような不快感が腹のなかで蠢いていた。
あんなに酒を飲んだのは初めてだった。
サラの家で酒を少し飲んだことはあったが、ワインを少し飲むくらいだった。
「あ!」突然、我に返る。
そうだ、俺はサラとはぐれたんだった。
部屋に慌てて戻り、服を着ようとするが、なかなか見つからない。
部屋中に散らばった服を一つ一つ見つけては、身に着けていった。
時計を見ると、すでに十一時を過ぎている。
電車の乗り方は知っているが金がない。
仕方がないので女を起こし、金を貸してくれと頼んだ。
女はひどく機嫌が悪かったが、千円札をくれた。礼を言って駅へと向かった。
ホワイトに着いたとき、すでに陽が傾いていた。
ここに来るまで、長い道のりだった。
駅員に乗り換えを聞くも、電車を乗り間違え、知らない街に到着し、なんとか最寄り駅に到着したものの、サラの自宅が分からなかった。
再び駅員に聞いてみるも、住所を聞かれても分からず、仕方なく商店街の名前を聞いて、行き方を教えてもらった。
ホワイトに来れば、裕太に会える。そうすればサラに連絡を取ってもらうことができる。
古びた建物を見た途端、懐かしさがこみ上げてくる。
思わず駆け寄ってしまうが、入口には「CLOSE」の看板がかかっていた。
こみ上げていた喜びが、穴の空いた風船のようにしぼんでいく。
夕方の時間はいつも閉めていたことを思い出した。
窓を叩いてみるが、中に誰かいる気配はない。
「何か用ですか?」
声が聞こえて振り返ると、さくらが立っていた。
買い物帰りなのか、両手には買い物袋が握られていた。
いつも結んでいる髪を下ろしている。
「さくら!」
「は、はい!」こわごわとした表情で、俺の顔を見る。
「あ、あの今日はお店閉めちゃってるんです」
どうやら俺を店の客だと思いこんでいるらしい。
「俺のこと、覚えてない?」
俺が尋ねると「へ?」と素っ頓狂な声を出した。
近づくと、頭一つ分小さい目線が俺を見上げていた。
「……お店の常連の方?」
「違う」
さくらはぎゅっと目を瞑り、うーんと唸っていた。
「本当に気づかない? 俺が誰か」
「え、あの、はい。ごめんなさい」
俺が一歩を踏み出すと、さくらも後ろに一歩下がる。
こうして見ると、ずいぶん小さい。
ふと、いい匂いがして、更に匂いを嗅ごうとすると、突然、頬に衝撃が走った。
一瞬遅れて、頬を叩かれたのだと気づく。
顔を真赤にしたさくらが肩で大きく息をしていた。
「なんで……」
言いかけてから、さくらの目に怯えの色が浮かんでいるのに気づく。
同時に、猫だったときのことを思い出す。
人間が不躾にこちらの身体を触ろうと、手を伸ばしてくる。
あの不快感と恐怖が蘇ってきた。
さくらは身を守ろうとするように身体を丸め、顔だけこちらに向けていた。
それは自分よりも巨大な敵を前にした、自衛のポーズだった。
「店の前で何やってんの?」
店の前のドアが開き、青白い顔の裕太が出てきた。
俺のことを見て「あれ、黒田じゃん」と言う。
その瞬間、さくらが息を飲んだ。
「裕太の知り合い?」
「うん、昨日一緒にライブした」
途端にさくらが「すみません!」と言って頭を下げた。
「謝るべきは、こっちの方ですよ」
サラの言葉に、俺は小さく身を縮めた。
ホワイトのなかで、サラと俺は向かい合って座っていた。
裕太からサラに連絡をしてもらい、迎えに来てもらったのだ。
初対面で俺を叩いたさくらは、先ほどから何度も俺に謝っていた。
「いきなり図体の大きな男が顔を寄せてきたら、大抵の女は怖いもの。むしろ頬を叩くだけで済んで、有難いと思わなくちゃ」
サラが俺に言い聞かせるように言う。
俺はまた身が縮まるような感じがした。
「でも海外の方の挨拶としては、普通のことなんですよね。それなのに私ったら本当に失礼なことを……」
「そうね。西欧圏ではキスやハグが挨拶みたいなものだからね。それにしても、日本に来てずいぶん経ったんだから、いい加減慣れてほしいわ」
さくらが冷たいタオルをくれた。
頬に当てると、ひんやりとした感触がじんわりと広がる。
「お礼は?」サラが俺に促す。
「ありがとう、ございます」
俺の言葉にさくらは「どういたしまして」と言って笑った。
その顔を見ていると、無性にさくらを抱きしめたくなる。
そんなことをしたら頬を叩くくらいでは済まされないから、我慢するしかない。
「まさか裕太と一緒にバンド組んでるなんて思いませんでした」
「昨日はびっくりしたよ。飲み会で『俺はR2で優勝するんだ』って豪語しだすし」
「そんなこと言ってたっけ」
「黒田ベロベロだったもんなぁ。じゃあ来週、ベーシスト候補のライブに行くってのも覚えてないでしょ?」
「覚えてない。ドラムの奴が喧嘩売ってきたところくらいまでなら、記憶がある」
裕太が吐いた後、ベースとドラムに、お前らは下手くそだからいらないと言って、ブチ切れたドラムが掴みかかってきたのだ。
サラが何か言いたげな顔でこちらを見てくるので、気づかないふりをして裕太に話しの続きを促した。
裕太の話では、最近見た大学生のバンドで、圧倒的にうまいベーシストがいたらしい。
喧嘩を収めた後にそれを漏らしたところ俺が食いついてきて、一緒にライブを見に行こうという話になったということだった。
「仕方ないなあ。じゃあ俺たちだけで出かけるしかないなあ」
「黒田嬉しそうだな」
「今まではサラに閉じ込められてたから」
「そりゃあ女の子に顔を近づけるような男、野放しにできないでしょ?」
サラの鋭い指摘に再び身体が縮む。さくらがくすくす笑っている。
「ライブ見に行くので、決まったら教えて下さいね」
さくらの笑顔を真正面から見るのは初めてだった。
心臓を誰かに掴まれたかのように、鼓動が激しく鳴りはじめた。
胸が苦しい。頭をかきむしりたくなる。なんなんだこれは。
裕太とベーシストを観に行く日の待ち合わせを決めてからホワイトを後にした。
ついでに、昨日裕太がやるはずだったバンドのCDを貸してもらうことにした。
九十年代末に活動していた日本のロックバンドらしい。
「そう言えば、日本のロックはあんま聞いてなかったな」
学べば学ぶほど、知らないことを知ることになる。まさに無知の知だ。
「そうね、私の好みが海外に寄ってるから、日本のバンドはあまり聞かせていなかったわね」
なるほど、個人の好みもあるのか。
一人の知識や好みには、限りがあるという当たり前のことを忘れていた。
「ちょうどいいから、これからは自分の好みのバンドや曲を探すようにしなさい」
この日からお小遣い制が決定した。
月に一万円がもらえる。
さらに家事の手伝いをすれば、小遣いをくれることになった。
「働かざる者食うべからず、よ」とサラは言った。
一万円で何を買おうか、何をしようかと想像を膨らませていると、なぜかサラが笑っていた。
「なんでそんなに笑ってんだよ」
「いえ、別に」
人間が生きるのには、想像以上に金がかかるとわかったのは、しばらく後だった。
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