第1章

オレはネコ

「こら! 黒猫、横取りすんな!」


公園に爺さんの声が響いた。


俺は構わず口を素早く動かし、目の前の皿にある飯を頬張る。


味や匂いを味わっている暇はない。


それよりも、胃に飯をいれるということが最優先だった。


足音がして、俺の顔をシワシワの手が払うように叩いてくる。


邪魔される怒りが湧いたが、それよりも恐怖が上回る。


慌てて逃げると、爺さんが他の猫たちに俺から奪った皿を与えていた。


俺よりも一回り小さい猫が、嬉しそうに皿に顔を突っ込んでいる。


先ほど俺が追い払った奴だ。隣には空になった皿が置いてある。


俺が食べ終えた飯が入っていたものだ。


爺さんはノロノロと食べる猫たちを見て、満足気に微笑んでいた。



思わず溜息をついてしまう。


この公園では、毎日爺さんが俺たちに飯を運んでくるので、毎日来ているが、なぜか爺さんは俺がたくさん食べるのを許そうとしない。


俺は少しでも多く食べるために、素早く自分に与えられた分を口に放り込む。


食べ終えたら、まだ残っている飯を食べるために他の皿に顔を突っ込む。


他の奴がいたら追い払う。



俺たち猫の世界では弱肉強食が基本だ。


だから強い俺が飯を多く食べるのは当然のことなのに、人間はそれを許さなかった。


これ以上食えないならここにいる意味はない。


「こっちに来い」という爺さんを無視して、俺は次の目的地へと向かった。



公園を出た俺は、商店街へと足を運んだ。


商店街は人間がうようよいるが、店の裏側を通れば人間にはあまり遭遇しない。


建物の間を縫うように歩いて、商店街の端っこまでやってきた。


一軒の古びた住宅が見えてくると、無意識のうちに駆け足になってしまう。



その建物は、一見するとただの民家に見える。


実際、二階部分は居住スペースだ。


しかし一階部分は喫茶店になっていて、表に周って見ると『喫茶ホワイト』と書かれた小さな看板が入口に掲げられている。


店の裏側には、居住スペースに繋がるもう一つの玄関があるのだと、以前店主が教えてくれた。



入口から見て右側に、窓とひさしとなる小さな屋根がある。


ここが、今俺が一番気に入っている場所だ。


屋根の高さは人間の身長よりも高いため、人間の手が届きづらい。


周囲を見渡せる。


さらに屋根から顔を真下に向けて顔を覗かせると、窓から店内を見ることだってできる。


逆さまになった視界の中で、忙しなく動き回る店主や、のんびりとコーヒーを飲む常連客を見るのが好きだった。


それに、俺がそうしているとなぜか人間たちがやたらと喜ぶ。


特に店主の二人は、「クロが覗いている!」と言って子どものようにはしゃいでいた。


彼らから見ると、逆さまの首だけになっている俺の姿が面白いらしい。


時には仕事を放棄して写真を撮り出す始末だ。


俺の虜になってしまうのは仕方のないことだが、たまに身体を触ろうとするのはやめてほしい。


もちろん、そういうときには、厳しく指導する。


残念ながら猫の身体に迂闊に触ってはならないと理解している人間は少ない。


どいつもこいつも「可愛い」という言葉を免罪符にして、気安く触ろうとする。


同じことを自分がされたらどう思うか考えてみろと言いたくなる。


しかし今では俺の指導の甲斐もあり、

「注意! 屋根の上の猫ちゃんは非常に凶暴なためお手を触れないでください」

という貼り紙が店の入口に貼り出されている。


お陰で不用意に俺に触れようとする人間は一人もいなかった。


見晴らしもよく、人間も触ってこない。


更に、店主は俺にメロメロでいつも貢物を献上してくる。


しかし、俺がこの店を気に入っている一番の理由は、他にある。


いつものように、ひょいと飛び乗った。


空からさんさんと降り注ぐ陽が、錆びた鉄の屋根を暖めていた。


身体をあずけると、冷たい空気で冷え切った身体がじんわりと温まっていく。


喉の奥がグルグル鳴り出した。身体を屋根にこすりつけた。


「クロ。今日はご機嫌だな」


声の方に目を向けると、白石裕太しらいしゆうたがいた。


喫茶ホワイトを切り盛りする店主のうちの一人だ。


ホワイトは、かつて裕太の父親が運営していたらしいが、事故で死んでしまってからは、子どもの裕太たちが店を継いでいる。


というのは、ホワイトの真向かいの薬局の親父の立ち話から得た情報だ。


裕太は、ホワイトのエプロンを結びながら、こちらを見上げていた。


眩しいのか、垂れた目を細めている。


こいつの顔はいつ見ても弱々しい。


性格も顔つきと同じように、なよなよしている。


身長は高いが、身体つきが大きいというわけではなく棒切のように細い。


たまに、猫の俺でも倒せるんじゃないかと感じるときがあるくらいだ。


今年二十歳になるらしい。


人間の二十歳は大人ということになるようだが、とてもそうは見えなかった。


店では客がいないとギターをずっと弾いてサボっているし、いつもドジを踏んでは怒られている。


とは言え、俺は裕太には多少の信頼の念を抱いていた。


裕太は暴力を振るわない貴重な人間だ。それに飯をくれる。


眼下でゴソゴソと音がした。


何をしているのかと思ったら、屋根の端から裕太の顔が出てきた。


台に乗ったらしい。思わず起き上がる。


警戒していると、案の定手を伸ばしてきた。


その瞬間、恐怖が身体を覆い尽くす。


「触るな!」


こちらの言葉を理解してくれないと分かっているが、そう叫ばずにはいられなかった。


俺の剣幕に押された裕太は、両手を胸の前で小さく上げた。


「ごめん、触らないから。チュールだよ」


チュールという言葉を聞いた瞬間、体が固まった。


チュール。


それは俺たちの間では「ブツ」と呼ばれている代物だ。


見た目はなんてことはないペースト状の食べ物だが、ひとたび口に入れると一瞬で頭がぶっとんでしまう。


中毒性が高く、一度口にすると味わう前には戻れないと言われている、凶悪な食べ物だ。


危険だとわかってはいるが、すでにその味を知ってしまった俺は、断ることはできない。


よく見ると、裕太の手には「チュール」と書かれた細長い袋が握られている。


それを見た瞬間、全身の毛が逆立つのを感じた。


早くチュールを食べたい。


全身がチュールを欲している。


しかし裕太は、袋を切って、直接俺に差し出してきた。


いつもなら、屋根の上にチュールの中身を出してくれるというのに。


迷った。食べたい。でも怖い。でも食べたい。でも……。


裕太の顔を見る。攻撃的な雰囲気は微塵も感じられない。


こいつならきっと大丈夫。


覚悟を決め、一歩を踏み出した。


差し出された袋の端を舐める。


その瞬間、刺激的な香りが脳みそを直撃する。


気づくと口いっぱいに頬張っていた。


夢中で食べていると、一瞬にしてチュールはなくなってしまった。


我に返ると、すぐ近くに裕太の顔があった。


目をキラキラと輝かせ、こちらを見ている。何だその顔は。


台から降りると、スキップしながら店内に戻っていく。


やっぱりお子ちゃまじゃねえか。


しばらくすると、店内から音楽が聞こえてきた。


ビートルズの『バック・イン・ザ・U.S.S.R.』ということは、今日もホワイトアルバムか。


心地よいメロディーが身体に音楽が沁みわたっていく。


この曲は、晴れた日にピッタリの曲だな。


空を見上げる。雲ひとつない青空が広がっていた。


俺がこの店を気に入ってる最大の理由がこれだ。


この店では、いつもロックミュージックが流れている。


それも前の店主、つまり裕太の親父のときから続いていることらしい。


親父のコレクションであるレコードは、今もこうして活躍している。


客たちも、ただコーヒーを飲むというよりは、自分のお気に入りのレコードを聞きに来ている客のほうが多いらしい。


常連客の中には、自分でレコードを持ち込む奴もいるそうだ。


「今日のはどうですか、クロさん」


裕太の仰々しい声が聞こえた。


目を薄くあけると、店の前に立て看板を置きながら俺を見上げている。


「お前にしては上出来だ」


そう言ってやると、裕太は満面の笑みを浮かべた。


百回に一回くらいは言葉がわかるようだ。



「今日のレコードは、ビートルズのホワイトアルバムだよ。この店の名前の由来でもあるんだ」


「もう百回は聞いたぞそれ」


アルバムの本当の名前は『ザ・ビートルズ』だが、その外観からホワイトアルバムと呼ばれていること。


名字が白石であることと、ホワイトアルバムからかけて、喫茶店の名前をホワイトにしたこと。


裕太の親父は『ブラックバード』が好きだったこと。


いつは客の前だと無口なくせに、俺の前ではべらべらとよく喋る。


呆れている俺をよそに、裕太は語りだした。


「クロ、バンドは一人じゃできない。誰かと一緒に音楽を奏でることで生まれるマジック、それがバンドにはあるんだ」


親父の受け売りなのだろうが、いつも俺に対し、偉そうにバンドの素晴らしさを語りかけてくる。


正直、ただで素人の講釈を聞かせられる身にもなってほしい。


俺は耳を倒して、なるべく声が聞こえないようにしていた。


「本気でバンドをやれたら楽しいだろうなぁ」


裕太は大学のサークルでバンドを組んでいるが、内心は遊びではなく本気でやりたいと望んでいる。


それなのにやろうとしない。


聞けば、


「大学にまで入ってバンドなどしていられない」


「このカフェをいつかは継がなければならない」


など意味不明な理由ばかり長々と愚痴る。


人間の習性なのか、なぜかどいつもこいつも自分の望むことをやろうとしない。


食べ物だって腐るほどあるし、いつでも雨をしのげる住処を持って、寝ようと思えばいつでも寝られる。


それなのに変な理由をつけて、自らを縛り付けて窮屈そうに生きている。


考えていたら腹が立ってきた。


真下にいた裕太に強烈なパンチをお見舞いしてやった。


「なんで!?」と言いながら裕太は店に引っ込んだ。


俺だって、本当のことを言えば、バンドというものをやってみたい。


音楽を奏でてみたい。


思い切り、自分の想いを歌に乗せて歌ってみたい。


たまに歌に合わせて歌ってみるが、全然納得のいくものではない。


悔しいが、音楽を奏でるということにおいては、人間には敵いそうもない。


「もし人間になれたら、何がしたい?」脳裏に、誰かの声が響く。


もし人間になったら、俺はバンドで歌を歌いたいよ。


頭の中で、その声に返事をする。



腹を満たした俺は、ぼんやりと通りを眺めていた。


ホワイトの向かいには、薬屋がある。


小ぢんまりとした店の前には、小さなもみの木がぽつんと佇んでいた。


もみの木はケバケバした紐や丸い玉を身につけ、窮屈そうにしている。


ドアにも輪にされた常用樹の葉が、同じように丸い玉やリボンで縛り付けられ、磔にされていた。


なぜか冬になると、人間たちは、やたらと植物を磔にしたり縛り付けたりしたがる。


他の猫から聞いた話だと、人間は冬に発情期を迎えるらしい。


たしかに寒くなると、人間のつがいをよく見かける。


その猫が言うには、クリスマスという日が交尾の決行日で、人間たちはその日に向けて、つがい作りに励むそうだ。


クリスマス当日には、人間のつがいは人工的に作られたピカピカ光る偽物の星を見て、鳥の死骸を一緒に食べ、日が落ちてからようやく交尾に至る。


交尾をするために、そんな面倒な手順を踏まなければならないとは、誠に不可思議な生き物だ。


店内から裕太が『オブラディ・オブラダ』を口ずさんでいるのが聞こえてくる。


今日も裕太しかいないのか。


心のなかで小さくため息をつく。


ホワイトには店主が二人いるが、大学が休みになったらしく、ここのところ裕太ばかりが店に出ていた。


太陽の陽も、音楽も、腹も満たされている。


それなのに、どこか物足りない。


徐々に頭を支配する眠気に身を委ねながら、そんなことを思った。


「クロちゃんじゃない」


聞き覚えのある声が聞こえた。


起き上がって見ると、さくらがいた。


裕太の姉で、この店のもう一人の店主。


普段は裕太が大学に行っているので、さくらが店を切り盛りしている。


「久しぶりだな」


「そうだね、お天気いいね」


相変わらず話しは通じないが、さくらは嬉しそうだ。


少し茶色く染めた髪色が肩の上で揺れている。


店のエプロンからヘアゴムを出して髪を結びあげた。


小さい耳が顕になる。


自分の喉がぐるぐる鳴っていることに気づいた。


「今日は触れるかな?」


そう言って、さくらは台に乗って手をのばしてくる。


背の小さいさくらは、台に乗っても屋根からわずかに目が見えるくらいだ。


それでも台の上で背伸びをしているらしい。


しょっちゅうふらついていて、見ているこっちがハラハラする。


遠くから見れば俺の姿を見られるというのに、そうでもしてでも俺に近寄りたいのだろう。


最近では、こうして俺に触れようと手を伸ばしてくる。


さくらが指を一本突き出し、ゆっくりとこちらへと伸ばしてきた。


身体が硬くなる。思わず腰を浮かそうとした。


「大丈夫」とさくらが言う。


わかっている。さくらは何もしない。彼女は手を差し伸べているだけだ。


わかっていても、逃げ出したい衝動に駆られる。


恐る恐る匂いを嗅いでみる。いい匂いがする。身体の力がちょっと抜ける。指がいきなり動いて驚く。


さくらが小さく「ごめんね」と言う。指がそっと動き、手が花びらみたいにひらいた。ゆっくりと指先が、頭に近づいてくる。


そうだ、裕太のときだって大丈夫だったのだから、さくらならもっと安心だ。


覚悟を決めて、目を閉じた。


突然、店のドアが開き、俺もさくらも飛び上がった。


俺は屋根から、さくらは台から落ちそうになる。


「姉ちゃん、コーヒー豆の補充分ってどこだっけ」裕太が言った。


間抜け面が腹立たしい。


さくらは裕太の質問に答えず、睨みつけた。


「バカ裕太! あともうちょっとで触れたのに!」


台の上からさくらのげんこつが裕太の脳天に振り下ろされる。


鈍い音がした。俺のパンチよりもはるかに痛そうだ。


裕太は「なんで!?」と言って頭を抱えた。


いつもの光景だが猫も人間も、怒った女ほど恐ろしいものはない。


さくらは裕太よりも頭一つ分小さいが、性格もパンチも、裕太よりもはるかに強い。


さくらを見ていると、昔ペットショップで見た気の強い兎を思い出す。


「あ、サラさん」


さくらが突然、顔を上げて明るい声を出した。


一瞬にして、営業用のスマイルに変貌する。


彼女の声につられて振り向くと、一人の女が店の前に立っていた。


黄金色の髪が太陽にあたってきらきらと輝いている。


白い肌の中に浮かぶ青い目は、さくらたちではなく、俺を捉えていた。


慌てて目をそらす。心臓が激しく波打った。


「もうオープン時間だった! すみません、すぐ準備します」


「ゆっくりでいいですよ。それよりその猫ちゃん、警戒心が強いのに、あなたには懐いているのね」


そう言って、サラはこちらに近づこうとした。俺は威嚇をして、近寄るなと言った。


「あら、私、嫌われているみたい」


サラは、わざとらしく眉を下げてみせる。


けれどそれは外面だけで、実際は少しも困っていないのが、俺には分かる。


「そんなことないですよ、クロの警戒心が強いだけで。誰にでもこんな感じなんです。それより、早く中に入ってください」


裕太が仰々しくドアを開ける。


しかし勢い余ってドアを開けすぎて、俺のいる屋根の根本に当たった。


騒々しい音が辺りに響き渡る。


俺とさくらの冷たい視線にも気付いている様子はない。


裕太の目にはもはやサラしか映っていないようだ。


ドアが閉まった音がした。俺はため息をついて、腰を下ろした。


脳裏に青い目が焼き付いて離れない。


頭を振って、それを振り払おうとする。


長谷川サラ。


この店の常連客のうちの一人。


遠い海の向こうからやって来たらしく、他の多くの人間たちと見た目がずいぶん違っていた。


目は青いし、髪の色は黒や茶色よりも、うんと明るい。


彼女は、猫の目から見ても美しい顔立ちをしていた。


裕太をはじめ、多くの人間の雄たちはその美しさに夢中になっているが、俺は彼女を好きになれなかった。


好きになるどころか、不気味に感じる。


なぜかと聞かれても、うまく説明はできない。


身体の奥から聞こえる声が、サラに近づかないほうが良いと言っていた。


こういう声を、本能や直感というのだろうか。


人間たちが無視するこの声を、俺は何よりも重視している。


しかし困ったことに、サラは俺のことを好いているようだ。


いつも会うたびに遠くから俺のことを見ている。


まったく何者なんだ、あの女。


「私は何者でもないわよ」


突然の声に飛び上がるほど驚いた。


目の前にサラの顔があった。


いつの間に外に出てきたのだろうか。


それよりも、まるで俺の言っていることがわかっているかのような発言をした。


「当然じゃない。あなたの言っていることくらい、わかるわよ」


サラが俺の瞳を覗き込みながら言った。


いや、口は動いていなかったから言ったという表現が正しいのかわからない。


脳みそに直接響くような不思議な感覚がする。


「声で会話するものじゃないって、あなたたちはよくわかっているでしょう?」


サラが俺の瞳をじっと覗き込んでいた。


逃げろ!


本能が叫んでいるのに、石になったかのように身体が動かない。


サラが手を伸ばし、頭を撫でてきた。


「あなたの願いを叶えてあげるから」


頭の中心に声が響く。俺の願い? 何のことだろう。考えようとしてもできない。


目を開けていられなかった。眠りに落ちる直前の、心地よい眠気が押し寄せてくる。


「サラさん! コーヒー出来ました!!」


裕太が勢いよくドアを開けた。再びドアが屋根の根本に当たる。


騒々しい音が響き渡る。その音と振動でようやく我に返る。


慌てて屋根から飛び降り、サラの手から逃げた。


「すみません、どうしても猫ちゃん触りたくて」と後ろから聞こえてくるが、それが本当かはわからない。


振り返ると必死に話しかける裕太をよそに、サラが俺のことを見ていた。


背筋がゾクリとして、足早にその場を立ち去った。

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