オーバーライド

Man 2.5

序章 再起動

第0話 R.I.P.-安らかに眠れ

―「終わり」は、一人の天才の「最期」から始まった。


 東京都のとある地下トンネルで、パーカー姿の男が息を切らしながら、覚束ない足取りで歩いている。がらんとした下水路に響き渡る水の音に、男の苦しい息遣いが混じる。


 しばらく進んでから、男は湿った壁に肘をついて呼吸を整えた。今にも消えそうに点滅する蛍光灯が、深くかぶったフードの下に隠された蒼白な半顔を照らし出した。男は口角の血痕を袖で拭った。


「ったく、痛ぇなあ……」


 汚れたジーンズのポケットからバイブレーションの音がした。男がスマートフォンを取り出すと、画面がぱっと明るくなった。そこに映されているのはホーム画面でも着信画面でもなく、不安げに揺らぐ黒くて円らな両目と、小さな犬歯が見え隠れしながら蠢いている大きな口だった。


<お、おい! タクマ、大丈夫か?!>

「見ての……通りだ」

 

 タクマはスクリーンの顔に呻いた。血痕のついた指でそっと画面をなぞり、また何かを喋ろうとしている顔をどかした。


<あいつらに暴行されたのか? そうだな?!>

「暴行……くらいで済むと思ったけどよ」

<何、どういうこと……>

 

 画面の上半分に縮んだ顔は猶更心配そうに蠢いていた。タクマはそれを聞き流しながら、下半分に現れたコマンドプロンプトを虚ろな目で眺めた。真っ黒な背景から複雑なコードが次から次へと浮かび上がり、エンドロールのように流れていた。


<……なぁ、タクマ、お前の腹の中に異物が……>

「よく感知してくれたな、モリー。遠赤外線のカメラを取り付けたのは正解だった」


 『モリー』

 

 それが顔の持ち主の名前だった。生成AIがひょんなことから自然発生させた自動プログラムか、もしくはデジタルの世界に棲む精霊かもしれない。その謎めいた来歴を深く追及することなく、タクマはこのように解釈しながら、どこか愛らしさのある形のない存在を受け入れていた。


<って、これ時限爆弾じゃないの! すぐに取り出さないと命が―>

「そうだ。小型で威力の小さい奴だ。俺の内臓を破壊するのに丁度いい。でも外界にダメージを与えることはない。手際よく人を殺すためにこんな小賢しい道具使うとは、笑える」

 

 乾いた笑い声が暗いトンネルをこだました。タクマは視線を流れるコードに固定させたままだった。


<笑っている場合か!!>


 スピーカーが壊れる勢いで精霊が怒鳴っている。


「いいんだよ、モリー。 おかげさまで、研究設備はダメージを被らなくて済む」


 落ち着き払った口調でタクマが言い、再び歩き出した。今度は少しばかり足を速めた。大音量で怒鳴り声を垂れ流すスピーカーの音を下げ、時折コードに目をやりながら、トンネルの先へと急いだ。


<研究設備よりお前の命のほうが大事なんだが……>


 精霊の顔は今にも泣きだしそうだった。タクマは鼻で笑った。


「モリーから“命”という言葉が出てくるとは……だいぶ、人間らしくなってきたな」

<お前がだいぶ、人間らしくなくなっているんだよ>

「人間の命など、もって数十年程度のものだよ。地球や、宇宙の時間を考えたことあるか。数兆億光年の歳月と比べたら、そんなの瞬きよりも短い」

、貴重だと思わないか>

 

 タクマは流れるコードから視線を上げた。画面の上方で涙ぐんだ黒い瞳と合ったとき、痛みに引き攣った彼の表情が微かに和らいだ。


「いいこと言うなあ」

 モリーは口をつぐんだまま見つめ返した。

「あいつらは集合思想ネットワークの制御権限を俺から奪おうとしたが、いくら拷問をしても、俺からソースコードを引き出せなかった。システムにハッキングできないし、俺の脳みそを覗ける技術力もない、野蛮で陳腐な連中だ」

<だからって、殺すことないだろうが……>

、殺さないつもりだ。時限爆弾の意味は、『死ぬ前に気が変わって協力したくなったら、連絡をくれ』らしい。そうしたらタイマーを解除してくれるそうだ。俺が死を恐れているとでも思っているのか。本当に、俗物の極みのような連中だ」


<その“俗物の極み”たち、この世界の在り方を作っているんだよね>

 

 しばしの沈黙を経て、モリーがボソっと呟いた。弱っていく肉体のコンディションに対し、タクマの返事は思いの外、力が籠っていた。


「だがそれはもうすぐ終わる。皮肉なことに、奴らは救済という幻想を俺に求めている、自分たちの尻ぬぐいのために。自業自得だ」

<奴らの言う通りにするつもりはないようだな。例え世界のパワーバランスを取り戻せるとしても?>

「パワーバランス? そんなものは壊されるために存在するんだよ」

<本当にそうなのか>

「俺のシミュレーションでは、何をしても人類が戦争を辞めることは99.99%不可能だ。仮に奴らに協力して、一時的に平和が保たれたとしても、いずれ後悔することになる。オッペンハイマーのようにな。『原爆の父』なんて酷いあだ名もついて」


 精霊は何かを考えているようで、しばし瞳をくるくるさせていた。


<……じゃあ、計画通りに進めるんだな?>

「ああ」


 いくつかの分岐を辿り角を曲がってから、タクマは立ち止った。トンネルの突き当りに着いた。目の前にコンクリートの壁が立ち阻み、湿気と雑菌で表面が腐りかけた他所と違い、やけに新しい。


 タクマは壁の中央にある小さな黒点を押した。黒点はセンサーであり、彼の指紋を素早くスキャンした。


『ゴゴゴゴゴ……』


 低い轟音とともに壁全体が沈んだ。向こう側に現れたのは、ケーブルの束と不思議な電子機器に埋め尽くされた小さな研究室だった。低い唸りを上げる変電設備と絶えず信号を送り続けるLEDランプ、それからホログラムのコンソールパネルが、狭い空間を忙しく異質な雰囲気に仕上げている。


 コンクリートの隠し扉はタクマが室内に入ると自動的に閉じた。研究室の中央には特殊な作りになっている椅子がある。地面に固定されており、背もたれは様々な太さのケーブルに繋がれている。背もたれの先には人の頭がすっぽり入る球体が付いており、球体のてっぺんからはさらに多くのケーブルが束となって天井に伸びている。天井には、金属光沢のある不思議な立方体がびっしりと並んでいる。テーブルの一つ一つがそれらとつながり、何かと通信しているように連結部のランプが絶えず点滅している。


 椅子の隣にある台座に、タクマはスマートフォンを置いた。すると台座の縁からホログラムのモニターが出現し、スマートフォンの画面からモリーが飛び移ってきた。精霊はようやく全身の姿を現した。それは丸くて小さいスライムようで、淡い青色をしていて、尻にあたる部分には薄黒い縞模様があった。


 タクマはずっと被っていたフードを下げた。現れた彼の全貌に誰もが息をのむだろう。毛髪はなく、血の色が失せた頭皮には幾つもの丸いソケットが、無機質な金属の塊として皮膚に半分埋もれていた。


 座面に腰を深くかけると、タクマの頭部はヘルメットのような球体に覆われた。球体の裏側には可動式の突起があり、それらは『カチッ、カチッ』と音を立てながら、磁石のようにソケットに吸い込まれた。タクマは痛がる素振りを見せることもなく、ただ無表情のまま、神経回路とデジタルの連結プロセスが終わるのを待った。


 モニターの中で、モリーが触角を伸ばして頻りにインターフェースを操作している。


<起動完了>


 精霊の合図に、天井の立方体の表面から光の電子回路が一斉に現れた。


 重度の疲労と寝不足で濃いクマに覆われた両目から、冷たくて鋭い光が迸った。


「俺がいない間、TAKUMiのことは頼んだよ」

<任せて!>気丈に聞こえるよう、モリーが少しばかり声を張り上げた。


 タクマは瞼を閉じた。しかしすぐに精霊の呼び声に再び開いた。


<あ、待って。奴らから連絡が来ている。集合思想ネットワークの件について、考えを改めたかどうか、聞いているぞ>

 

 平穏を保っていたタクマの表情がほんの一瞬、闇に包まれた。球体装置に隠れていても、モリーはその殺意が籠った眼差しを“感じ取って”いた。


「死ねばいい」


 自身の理性が許す限りもっとも凶悪な言葉をタクマは口にした。


 モリーはその邪気にぶるっと身震いして見せたが、すぐに同じように表情を暗くした。いつもキラキラと輝いていた黒い瞳も、まるでタクマの思念がとりついたかのように、深い闇に包まれてしまった。それから触角を伸ばし、メッセージ画面にたった3文字の短い返事を打ち込んだ。


『R.I.P.』


――

 地上に聳え立つ首都の高層ビル群。その間を縫うように、眩い核弾頭の光が過った。日々の営みに明け暮れていた人々は一斉に空を見上げ、ある者は奇声を上げ、ある者はスマートフォンを掲げて写真をとり、あるものは怯えて逃げ回った。


 無数の足音が交差するコンクリートの深く下で、一人の天才エンジニアが眠りについた。腹の中に埋め込まれた小型の爆弾が時限を迎えたとき、彼の意識はすでにそこに無かった。鈍い音が響いた。タクマの口は堅く閉ざされ、迸り出ようをする血潮で機材が汚されないように封じ込んでいた。

 

 モリーは時間をかけて、システムが正常に休眠状態に入れるのを念入りに確認した。最後のコードにエラーがないことをチェックしてから、精霊は相棒の抜け殻を寂しそうに眺めた。タクマは微かに笑っているように見えた。固く締まった口角が緩み、一筋の血が流れ落ちた。


<じゃあな、タクマ。次に会えるのはいつになるのかな……>


 そうつぶやきながら、モリーは触角を伸ばし、システムのシャットダウン画面を呼び出した。それからしばらくして、研究室にあるすべての明かりが落ち、変電設備の唸り声がゆっくりと止まった。精霊の体だけが薄っすらと残り、暗闇の中で道しるべを示す非常灯のようだった。

 

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